原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

真なるキリスト教信仰と偽なるキリスト教信仰2 ブローシュ「キリスト教信仰」を参考に

第1章は 「神に栄光を捧げる信仰」という題になっている。

これが真なる信仰だというわけである。

そこでブローシュは3人の言葉を選んでイメージできるように配慮している。

 

キリスト教信仰―真の信仰をめざして

キリスト教信仰―真の信仰をめざして

 

 

 

「したがって、これを真の信仰を見分ける規則としよう。確かに真の信仰とは、私たちに私たち自身から抜け出させるものである。つまり、それは、すべてを私たちから取り去り、すべてを神の栄光に捧げるものである」(リチャード・シッブズ:16~17世紀のピューリタン神学者

 

「主に従わない人がいる反面、主に中途半端に従っている多くの人がいる。この人々は、持ち物、友人、名誉を捨てるだろうか、自分自身を捨てることに非常に困難を感じる」(マイスター・エックハルト:13~14世にのドイツの神学者

 

「十字架を背負うということは、自己、個人的な大志、自己中心的な目的の死を意味する。個人的な目的の達成の代わりにーそれがどれほど他者を思い、気高いものであってもー人は神の支配のみを希求すべきである」(ジョージ・エルドン・ラッド:20世紀のアメリカの神学者

 

信仰(faith)と信念(belief)の違いに我々は注意しなければならない

神中心の信を信仰といい、神が不在で人間(私)中心の信を信念という。神の立場からすれば、いかなる人間的な信念も単なる思い込みに過ぎないのである。

ブローシュは「生ける神御自身よりもむしろ、神概念への礼拝に終わることになる」ことに警鐘を鳴らしている。そのような陥穽に陥らないためには、神霊と真理による礼拝が大切であり、聖書はあらゆる新しい声を信頼せずに、「神から出た霊かどうかを確かめなさい」と真偽判定の要領を伝えている。

 

しばしば信徒は「生きた神と出会いましょう。」と説教されたり指導されることがある。だがこれは、信仰を始めたばかりの信徒に対しては良いとしても、何年もましてや何十年も信仰している人を対象にして言うべき適切な表現とは言えない。

復帰摂理を人類始祖の堕落直後より生きて導いてこられた神様が、今まさに24時間私たちに働きかけ続けて下さっているのだという実感が信仰の基礎になければならない。

「今日は神様は外出しておられて、私の所は留守であるけれども、明日はやって来て下さったらいいなあ。」と言うのでは困ったことである。

 

さて、律法主義とは御言葉を内面的に捉えることができず、表面的に守り行うことであった。イエス様はこの内外を合わせて守り行うことで律法が成就されるとしたのであろう。信仰においては動機が重要で動機が聖化されるよう学び教育しなければならない。

前述のリチャード。シッブズは天国の医師と呼ばれ「彼は天国に至る前に、既に彼の中には天国があった」と讃えられた。

 

この本で気づかされたことは、我々異邦人である日本人に限らず、キリスト教精神文化の恩恵を受けた社会に生まれ育ったキリスト者、それどころかその中でも有名な信徒に於いても、ある種の律法的な信仰観を持って生活してきた時期があり、ある時その人の心霊に火がつき大きな回心に導かれ転換して福音の世界に至るようだということである。

パウロがそうであり、ルターがパウロの言葉の中に見出し、さらにルターが講義するパウロの言葉に触発されウェスレーがというような大きな流れが、キリスト者には訪れる。

御言葉に対するかたくなな態度は、次には信仰生活のあらゆる形に影響を与えていく。これが形式主義であろう。

 

「十字架にかけられ、死より復活したキリストを知るだけでは十分ではない。その実を経験することも必要なのである」(ジャン・カルヴァン

 

ブローシュは含蓄のある言葉を語っている。

 自由主義が人間中心主義や曖昧な神秘主義に引き寄せられるように、正統主義は律法主義や形式主義に傾く、儀式的な礼拝や祈りにおいてであれ、不快な教条主義においてであれ、形式主義が正統主義に押し入る時、信仰は命を失い、人々の重荷となる。正統な教理に表面的に同意するものとして理解されている正統主義は、教会の教義の記述を偶像にさえしうるのである。

人類歴史性相と形状が統一した姿を現す予定であったが、人類始祖の堕落から始まった歴史は、人間が心と体からなるように、心を表す精神文化であるヘブライズムと体を表す物質文明ヘレニズムの二つの潮流に引き裂かれてしまった。パウロの嘆きそのままに展開してしまったのである。この引き裂かれた現実を統一した課題として解決するべく、神が人類に使わされたお方が、イエス・キリストであった。

イエス様は当初の神の国の建設を十字架によって阻止されたが、それを逆手にとって人類に霊的な救いをもたらす道を切り開いて下さった。

しかし、地上において神の御心を具現化できずに終わってしまったので、その後の信徒の信仰生活もこれらが片鱗を残すようになっているようだ。

ヘブライズムに脈打つ、聖書の神霊的な理解と体恤によって実生活に実りを獲得し、生きて私に働かれる神を礼拝するという聖化された動機で儀式に臨んで命の水の潤いに与るべきであろう。

反対に御言葉を頭で文字面で理解したり、形式の単調な反復をなせば、金の仔牛を造っているのとあまり変わることがないことであろう。

今日人間生活の外側に真理を求めたヘレニズムの継承者である科学は、人間生活に内在する真理を求めたヘブライズムの後継者であるキリスト教精神と再び邂逅し統一されなければならない時に来ている。

再臨主が降臨されたからである。

最近あるブログに人間の脳内では信仰的思考の処理も科学的な思考の処理も同一であるという研究報告があるという。一部引用させて頂くが詳しくはそちらにて確認してほしい。2009年の時点である。

科学と信仰は脳のなかでは同じ、あるいは極めて同じ: 極東ブログ

 

結論/重要性
信仰的思考と非信仰的思考は、前頭葉・頭頂葉・側頭葉中部の広域に異なる仕方で関連づけられているものの、信仰命題と非信仰命題は命題内容に依存していない。私たちは、宗教の神経心理学を形成すべく、信仰的思考と通常認識を比較している。しかしながら、世界についての各種確実記述を脳がどのように受容するかについてさらなる研究を要しているようだ。

 

このことは「知と信」を統括しているのが心情であることを暗示している。

 

さて本では、形式主義から脱却した方々のエピソードが紹介されている。14世紀のドイツの神秘思想家であるジョン・タウラーや、17世紀後半のアウグスト・ヘルマン・フランケやナチスによって処刑されたディートリッヒ・ボンヘファーなどである。

ここでは「人間は考える葦である」で有名なブレーズ・パスカルについて書かれた辺りを引用したい。

 

 彼は17世紀のフランスの数学者であり、科学者であった。まず彼は、聖書的傾向を持ったカトリック団体であるヤンセン主義の人たちとの出会いを通して、教会への回心と呼びうるものを経験した。そして、すぐに彼は正統主義の擁護者となり、異端的教師の断罪の執行に手を貸した。しかし、彼の信仰は堅く根ざしたものではなく、時折この世的な生活に引きずられていた。

 その後ある夜、パスカルヨハネによる福音書17章を読んでいると、突然部屋が炎のようなキリストの現存に満たされ、自分の罪を確信し、ただ救い主のために生きることを決心した。その経験は、彼がコートの裏地に縫い込んでいた文章からもわかるようにーこれは死後見つけられたー相当深長なものであった。それで、彼はこの世的な生活を一新し、自分の馬車と馬、立派な家具と食器を売り、その全収入を貧しい人々に分け与えた。膨大な蔵書さえ捨て、いくつかの霊想書と聖書だけを残した。救い主の栄光こそ、彼の唯一の関心事となったからである。かっては彼は正しい神学に回心したが、今や魂を取り扱う使徒の一人に任じられたのであり、かっては十字架とキリストの復活を認識していたが、今や個人的に十字架刑と復活を経験したのであった。

 

ではヨハネによる福音書17章には何が書かれていたのであろうか?

最後にその御言葉を確認して筆を置きたい。

 

1)これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。

:2)あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。

:3)永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

:4)わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。

:5)父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。

:6)わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。

:7)いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。

:8)なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです。

:9)わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。

:10)わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。

:11)わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

:12)わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。

:13)今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。

:14)わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。

:15)わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。

:16)わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。

:17)真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。

:18)あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。

:19)また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。

:20)わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。

:21)父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

:22)わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

:23)わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

:24)父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。

:25)正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。

:26)そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。