原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

豊田真由子衆院議員が男性秘書の何に対して怒ったのか? その理由は?

www.youtube.com 日本の力 より引用 2017/06/26 に公開

 

失敗した人がやり直して復活できる社会を安倍総理は目指してきた。

時を見て、また個人の反省を見て、復活のチャンスを

安倍総理は与えるべきである。

 

 

 


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夜の神様で居続けるのがいやで昼の神様になることに希望をいだいた神様

創造以前の夜の神様は、自己完結していて自己充足しているような自己愛的神様だったのではないでしょうか?

自己愛的な神様。自分が好きで満足している神様。

 

創造以降の神様が動的な神様であるのに対して、創造以前の神様は静的な神様のイメージがします。

孤独を楽しむような、孤高を楽しむような神様の姿がそこにはあります。

 

修行僧や仙人のような人が山にこもって一人生活しているような感じでしょうか?

それにしても、彼らには自然という対象がありました。

花もあれば草木もあり、そこには鳥も空を飛んで、きれいな声でなくこともあるでしょう。 

神様が夜の神様としておられた時には、御自身以外はなんにもないような世界ではなかったでしょうか?

ご自分しか愛する対象がありません。

そこは沈黙の世界であり、もしかすれば絶対零度のように完全な世界だったかもしれません。

分かち合う愛の無い完璧な自己愛の世界。

ナルシズム。

そのような神様は、なかなか想像ができません。

 

ある時点から、神様は対象を求めるようになられるます。

人格的な神様の段階に進まれたのかと思います。

若い頃には「人格神」というと、四大聖人のように欠点のない円満な性格を思い浮かべましたが、そういうこともあるのでしょうが、年を経てみると、コミュニケーションをとって協働作業をなさることに喜びを感じるというような、相手の存在価値を認めながら相互交流するという意味での、人格的交流に重きを置く神様という方に関心が向かいました。

自分という主体の価値から、相手という対象の価値に注目する、神様の心情転換が起こったのではないかと思われます。

ところが相手がいません。

一人で満足していた神様に変化が起きて、対象を求めるようになったようです。

 

お父様はたしか希望の日フェスティバルで、「愛と理想と生命」は相手と分かち合うことを通してしか得ることができない、というようなことを話されていたかと思います。

神様においても、その3つを手に入れる時には、ひとりでは難しいということになります。

お父様は全能の神様の創造の創造の目的を、一人では売ることができない3つの内容をもって説明されました。

 

お父様はご自分が夜の神様に属すると言われますが、

一言で言えば、堕落と関係のない存在だということなのでしょう。

堕落と関係のない存在が、夜の世界からやって来て

昼の世界にも昼の神様として 生きることを願われるようになりました。

夜の神様が対象を愛し始められました。

愛の神になられました。

創造以前の夜の神様は愛を知りませんでした。

対象を持たなかったからです。

 

人類始祖の堕落は時間と空間のある世界で起こりました。

昼の世界は罪悪に満ちてしまいました。

神様が人と共に住まわれる理想は流れ去ってしまい、

神様は再び、創造以前のときのような孤独な環境に追いやられました。

 

その時は孤独と言っても、孤高を楽しむような世界だったかもしれませんが、

アダムとエバという対象を造り、愛し育てた後に

この愛する対象を失った神様は、創造以前の夜の神様のときとは違う孤独を味わうことになりました。

かっての御自身が望んでいた孤独な神様ではなく、 

望みもしないような、愛する対象を奪われて囲われの身として閉じ込められてしまった

囹圄の神様として生きていくことを強いられました。

もはや全能の神の威厳は根こそぎ剥ぎ取られてしまわれました。

 

夜の神様はお一人の神様。

お一人の神様がすべての世界でした。

夜の神様を求めれば、孤独な孤高の神様に出会うことでしょう。

ですが、そこには愛を知らなかった神様がおられるばかりです。

夜の神様は天地創造を始められて以来、愛と理想と命を味わうことができるようになっれました。

 

夜の神様に奥義を求めることは虚しいことです。

 

夜の神様は昼の神様である、アダムとエバが真の父母として完成するときを夢見ました。

天地が和動し得る、天地人真の父母としてアダムとエバが完成されるとき、

昼の神様が地上に現れ、夜の神様もそこに住まわれるはずでした。

ところが、堕落によって夜の神様と昼の神様が別れてしまいました。

堕落によって、夜だの昼だのと神様を区別しなければならなくなってしまいました。

 

夜の神様には、神の奥義のようなものがあるのではなく、

成長される以前の神様の姿があり、それは神様の原点ではありました。

自分を充分に愛する神様が、次に対象を愛する神様に成長されたように、

われわれ人間も幼子のときに、自分を充分愛することを満喫して、対象を愛する人格を形成していきます。

まさにそれは神様が歩まれてこられた道だからであり、

神様が人の父であるからなのでしょう。

 

創造以前の神様は愛を知りませんでした。

真の愛を知りませんでした。

ですが、神様は自己超越、自己超克されて愛の神として変身されました。

われわれもまた神の子女として、自己を越えて神の性禀を現さなければ、

父なる神様の面目は丸つぶれになってしまうことでしょう。

 


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神の聖霊の働きと神の臨在される生活、神が支配され君臨される家庭生活

初めに、二つの聖句を聖書から引用いたします。

と申しますのは、聖霊という言葉が臨在ということと密接な関係を示す言葉だということをここで確認できればと思うからです。

神の聖霊がわれわれに働き、我々が神殿としてこれを受け取り、われわれの内に君臨される神の聖霊の導くままに生活し、御父の栄光を現すことが、われわれの信仰の目的であり、信徒の生活のすべてです。

 

複雑な説明は一切いりません。

聖書を見てみましょう。

 

25、 わたしは、神の言(ことば)を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。

26,その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。

27,神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。

28、わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。

29、わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。          

コロサイ人への手紙 1章

 

献身生活をしていたときにも、公務を離れ在家信仰を全うするときも、

神の御言葉を告げ広める務めを天命として拝受して、教会に奉仕する者として、

われらは父に似た者になります。

その御言葉の奥義とは一体何でしょう? 

異邦人であった日本人のわれわれが受くべき奥義とは何でしょう?

 

「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」

「それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。」

 

わたしのうちにいますキリスト、キリストにあって全き者とされるわたしです。

わたしのうちに」とか「キリストにあって」という感覚を掴むことが信仰の出発点でした。

 

「わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。」 

 

19、あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

20、あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

コリント人への第一の手紙 6章

 

 わたしのうちに神の聖霊が住む生活、神による直接主管の生活をクリスチャンも目標としました。私心の一切ない生活でした。

 

「自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。」

 

原罪を背負って生まれたわたしたちは、罪の奴隷となり、それ故囲われの囚人として生活していましたが、神の一方的な恩寵によって買い取られ、奴隷や囚人の生活から解放釈放されました。

 

あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。

 

そういうわけで、日本人の情緒では、御父の御恩に報いたい、御恩を返したいという心情がほとばしることでしょう。

 

それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

 

だが、キリスト教は個人路程で終わりました。

長成期の完成級まででした。

 

神の聖霊には男性的な聖霊と女性的な聖霊があります。

父の聖霊と母の聖霊です。

父の聖霊は母の聖霊に比べて圧倒的な存在でした。

神が性相的男性格主体であるからでした。

 

エス様が十字架を勝利し復活なさってより、イエス様の相対の立場で聖霊が人々を悔い改めと復活の新生の役事で活躍されました。

霊的救いをもたらす神の業でした。

地上で結婚して伴侶を持つことができなかったイエス様の相対者のような立場で

聖霊は働きました。

 

再臨の時代には、肉身を持った再臨主とその妻がイエス様と聖霊の役割を実体的に遂行されて、霊肉ともなる救いをもたらしました。

 

ここでいくらか整理してみましょう。

 

1,聖霊には天父の聖霊(性相的男性格主体)の意味と地母の聖霊(形状的女性格対象)の意味があります。

2,男性的父の聖霊は圧倒的で、女性的母の聖霊はより小さな存在です。

3,父の聖霊の実体が真のアダム(真の父)で、母の聖霊の実体が真のエバ(真の母)です。

4,イエス様の相対としての聖霊韓鶴子オモニ(現在はヨナ様)⇒祝福家庭の相対者

 

天を仰いで父の聖霊を求め、キリストを通して父の聖霊を求め、最後に主体者を通して父の聖霊を求めなければ完成されません。

天を仰いで母の聖霊を求め、キリストの妻を通して母の聖霊を求め、最後に相対者通して母の聖霊を求めなけれな完成できません。

新約の時代では個人路程でしたので、見えない聖霊を求めましたが、

成約の時代は、神によって祝福された家庭路程の時代なので、

見えない聖霊から見える聖霊の実体により関心と意識を注がなければならなくなるというのです。

相対者を除いて聖霊を語ることができない時代なのです。

見えない聖霊だけを追えば詐欺師になります。

あなたはこれを信じるか?

 

 それでは、新約の聖霊から成約の聖霊の理解に向けて、天聖経に学んでみましょう。

 

 

成熟したアダム、エバが愛の因縁を結べるその時になれば、神様は二性性相としていらっしゃるので、男性性相はアダムに臨在し、女性性相はエバに臨在するのです。神様が私たちの体と心の中に臨み、神様が結婚式をするのです。

 アダムの心は至聖所のようなもので、アダムの体は聖所のようなもので、その中に神様がいらっしゃるのです。そのようになっていれば、アダムは神様の体になるのであり、エバも神様の体になるのです。神様の男性格的性禀に似たのがアダムであり、女性格的性禀に似たのがエバです。この二人が結婚式をすることが、宇宙の王権を立てる式ではありませんか。それは何の王権ですか。愛の王権です。

(143−236。1986.3.19)

祝福家庭 第1章 真の父母と祝福 1)祝福の意義と価値 ②祝福から見た真の結婚観 横書き天聖経P1203

 

われわれは天一国従人でも、祝福の周辺家庭でもありません。

愛の王権の象徴である王冠をかぶるのに誰かに祝祷をしてもらう必要はありません。

お父様の祝福で充分なのです。

 

男性の責任は重大です。

アダムの心は至聖所のようなもので、アダムの体は聖所のようなもので、その中に神様がいらっしゃるのです。そのようになっていれば、アダムは神様の体になる

男性がしっかりすれば

そのようになっていれば、アダムは神様の体になるのであり、エバも神様の体になるのです。

 

 イエス様がこの地上に来て教えられた真理は、簡単です。「天地を創造した神様は、私の父だ。私は、その息子だ。あなた方は、私を信じればその息子になれる。私の父であると同時に、あなた方の父だ」と言いました。その次には、私たちに子女の道理を教えてくれると同時に、自分の父を教えてくれました。それから、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言いました。これは何でしょうか。神様を中心として家庭を築くのに必要な条件を、イエス様が来られて初めて叫ばれたのです。聖書がそうです。ほかのものは必要ありません。

(156−224,1966.5.25)

天一国主人の生活 第2章 天国と真の家庭 4)天国の基盤は真の家庭

横書き天聖経 P2099

 

 イエス様が教えてくださったのは、

1,創造主である神はイエス様の父であり、イエス様はその息子

2,真の子女の道理をゆく者の父でもある

3,イエス様は新郎であり女性は新婦

4,神様中心の家庭生活のための条件

 

創造本然の世界において、聖霊の働きというのは、家庭的四位基台における三対象目的を完成した主体的な愛、すなわち神の愛の霊的表現でしょう。

 

男性と女性の関係性に関してはどのように御言葉では表現されているのでしょうか?

 

 霊界に行けば、理想的夫婦、理想的な真の家庭は、神様といつでも共に暮らすことができます。ですから男性は、神様の性相、心の立場にならなければならず、女性は、形状となって一つにならなければなりません。これが1段階もっと大きくなって一つになるのです。この二人の心的な面が性相になり、体的な面が形状となって、ここで初めて実を結ぶようになります。それで、神様を中心として、心と体の一体圏が成されるのです。

(294−316,1998.8.9)

天一国主人の生活 第2章 天国と真の家庭 4)天国の基盤は真の家庭

横書き天聖経 P2101〜2102

 

韓鶴子オモニは形状ではなく、性相になろうとして反乱を起こしてしまいました。

お父様の御言葉を語るのではなく、何を語るのというのでしょうか?

お父様は御言葉(みことば)ですが、お母様は御言葉(おことば)なのです。

そのことを知らなければなりません。

聖霊の実体の位置を離れてしまいました。

 

では、キリスト教聖霊についてはどのように語られているでしょうか?

 

 

キリスト教における聖霊は、女性神ですが、霊的に、また実体的に二つの世界を生んで育てなければならない責任があったように、統一教会祝福を受けた女性は、二つの世界に対する責任を負わなければなりません。天国の民もつくらなければならず、サタン世界の民をすべて拒否し得るようにならなければならず、その人々を統治できるようにならなければなりません。

(216−277,1991.4.7)

天一国主人の生活 第2章 天国と真の家庭 2)真の家庭は天国の民の生産工場

横書き天聖経 P2098

 

聖霊の恵みによって聖化された家庭は、天国の終着点です。

 

 天国の終着点は、真の家庭の完成です。真の家庭の中には、真の国があり、真の世界がなければなりません。真の世界と真の国に影響を及ぼし得る真の愛の伝統として、「絶対セックス」という言葉が出てきます。絶対セックスとは、絶対、唯一、不変、永遠のセックスをいいます。神様の属性である愛を中心として連結された対象的なパートナーと、そのような観点において愛で一体化するのは、すべて性関係によって結ばれるのです。

(281−284,1007.3.9)

天一国主人の生活 第2章 天国と真の家庭 4)天国の基盤は真の家庭

横書き天聖経 P2104

 

そのような絶対「性」の家庭は、世の中に出て知られなければなりません。

 

ソロスなどの悪党が、資金を提供して7月にはアメリカ国内で内戦を起そうとしているのです。ますますエスカレートする状況を目にしています。暴力に訴えることを呼びかけています。左翼は内戦のボタンを押そうとしています。それは神様と神側のトランプ大統領が小児愛者に対して攻撃を仕掛けているからです。トランプは4か月間に3千人もの小児性愛者を検挙しました。

トランプは小児性愛者ではなく、子供を犯し殺してその肉を喰らう、ネットワークの一員でないことが分かります。サタンのカルトに属していません。全国の警察が捕まえた3千人の小児性愛者たちは小児性愛のすべての根源がワシントンDCからきていることを知っているのです、それは民主党です共和党なりすまし、とブッシュとつながりをもつ者です。お父様はブッシュに言いました「あなたはサタン世界の王だ。レバレント・ムーンの言うことを聞かなければならない。そうしなければ滅びる。」と。

【字幕映像追加】9月23日以降、家庭連合の救いはなくなるのか-5月26日質疑応答から – サンクチュアリ NEWS より

 

トランプ支援活動は、絶対「性」の純潔運動でもあります。

デモは邪悪な性犯罪者と戦うトランプ大統領と共闘することにつながります。

 

 今からは、デモをしなければなりません。デモをして、真の父母を誇り、真の家庭を誇り、真の血族を誇り、真の純血を誇らなければなりません。それは真の父母がこの地上に来られた目的を世界化させるのと同じように、皆さん個人や、家庭、氏族、民族、国家も、すべて真の父母になるためです。個人において家庭的な真の父母。家庭的基準において真の父母、真の家庭、真の純潔、民族基準において真の父母、真の家庭、真の純潔、国家基準において真の父母、真の家庭、真の純潔、これが世界化されるのです。

 国家基準において世界化し得る立場になるので、真の父母の基準が私たち個人から世界と天宙まで連結し、真の家庭基準が連結し、真の純潔の血筋が連結することによって、堕落がなかった解放の時代に越えていくのです。ですから、この全体を精算するためデモをしなければなりません。伝道よりも、このことをしなければなりません。

(299−222,1999.1.8)

天一国主人の生活 第2章 天国と真の家庭 4)天国の基盤は真の家庭

横書き天聖経 P2104〜2105

 

わたしは支援活動は、その支援団体の名で活動すればいいとは思いますが、われわれがサンクチュアリの信仰をしていることを隠すべきだとは思いません。

現実的にも法人の教会ではなく、現在はサークルのような立場です。

法人の恩恵もありません。

政治活動をして何も差し障りがあるとは思えません。

むしろ、世に明らかに出たほうが良いのでしょう。

 

さて、キリスト教サイトに聖霊についてまとめたところがあります。

参考になればと、引用いたします。

 

JapaneseWTBT より引用

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第4章

聖霊

  宗教の中で、聖霊が存在するのはキリスト教だけです。この聖霊の教義を考えると同時に、イエス様が聖書の中心主題だということを、頭に入れておいてください。私たちは、聖霊のお名前を知りません。ただ、聖霊が何であり、どんな方で、そして何をされるのかを知らされています。聖霊の個人的な名前を聖書が黙していることは、重要です。主イエス様の御名と働きが賛美されるように、あえてご自分のお名前を現わしていないのです。(ヨハネ15:26)

 I. 聖霊の人格

 聖霊を単なる物と思わないでください。聖霊は、すべての信者に宿っている人格を持ったお方です。私たちは、時々、見える人しか本当の人ではないと思ってしまいます。しかし実際は私たちは、人であり同時に、目に見えない人格も持っています。肉体は、地上で生きている間、神が与えてくださった媒体に過ぎません。人が死ぬ時、人の肉体は墓に埋葬されますが、魂は肉体から離れます。魂は、聖霊と同じく、決して目に見えません。

 A. 人間に対する聖霊の反応を見れば、人格があることがわかります。

 1. 悲しまれることがあります。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(エペソ4:30)

2. 試されることがあります。「そこで、ペテロは彼女に言った。『どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。』」(使徒5:9)

3. 逆らわれることがあります。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(使徒7:51)

4. 冒涜されることがあります。「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:29-30)

5. うそをつかれることがあります。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。」(使徒5:3)

 B. 聖霊は、聖書の何ヵ所かで神と呼ばれています。次の聖書箇所でもわかるように、聖霊は神の属性を持っておられます。

 1. 全能(ルカ1:35) キリストが誕生されたとき、マリヤとイエス様の保護者でした。私たちの保護者でもあります。

2. 全知(1コリント2:10)私たちの人生のすべてのことをご存じです。

3. 遍在(詩篇139:7-17)私たちの人生の中で、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」方です。いつも共にいてくださいます。

4. 永遠の霊 (ヘブル9:14) 新生から天国に至るまで、生ける神に仕えるよう私たちを助けてくださいます。

 C. 聖霊が、神としての働きをする象徴や実例が、聖書の中にいくつか書かれています。

 1. 鳩 -(ヨハネ1:32) 聖霊がイエス様に仕えるときの鳩は、愛と悲しみの象徴です。

2. 水 -(イザヤ44:3;ヨハネ7:38-39) 人が救われたのち、霊的な渇きをいやすのは、聖霊以外にありません。

3. 油 -(1サムエル16:13) 祭司が神のみ声を聞くように、祭司の耳に油を注がれました。次に、祭司が神のために行動できるように、祭司の親指に油注がれました。私たちの人生にも、このような聖霊の働きがあります。

4. 風 -(ヨハネ3:6-8) 聖霊は、静かで、感じ取れない風のように、救いや私たちの日常生活の中で、働いてくださいます。

5. 火 -(使徒2:3-4) 火は、聖めと試みと裁きの象徴であり、聖霊は私たちの人生に働きかけます。

6. 衣服(覆い)- 士師6:34(Amplified Versionという英訳では「着る」ということばが使われています。)衣服は、守ることを意味します。聖霊は、私たちを守る方です。

 II. 聖霊の目的

  聖霊は、聖書の中であらゆる分野で活動されています。以下は、聖霊がかかわる事例です。

A. 語られます。「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた」(使徒13:2)。

B. 執り成してくださいます。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どうのように祈ったらよいかわかっらないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)。

C. 証しされます。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)。

D. 監督してくださいます。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」(使徒20:28)。

E. 導いてくださいます。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16:13)

F. 教えてくださいます。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

G. 天地を創造されました。「初めに、神がは天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」(創世1:1-2)

H. 新生による救いをもたらします。「イエスは答えられた。『まことに、もことにあなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新たに生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。…御霊によって生まれた者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:3;5-8)

I. イエス様を、死人の中からよみがえらせました。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

J. 救いを全うしてくださいます。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:11)

K. 私たちの救いの証印となってくださいます。「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(エペソ1:13)

L. 信者を導いてくださいます。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14;ガラテヤ5:18)

  クリスチャン生活を歩むとき、私たちは聖霊が毎日助けてくださるという事実を意識しなければなりません。聖書は、私たちが聖霊に満たされ、支配されていると教えています。私たちが生活の中で罪の中にとどまっているなら、聖霊は働くことができません。心や行いの罪によって、聖霊を消してしまいそうになり、神との交わりを失いそうになるときは、1ヨハネ1:9 をさっそく実行しなければなりません。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきめてくださいます」。このようにして、私たちは、神との交わりを持ち続けることができます。この世でクリスチャンが直面する最も危険なことは、破産でも、病気でも、孤独でも、侮辱でも、迫害でも、その他どんなものでもありません。一番危ないことは、自分の人生の中に罪を入らせることです。私たちと神との交わりを断絶し、聖霊を消し、私たちの歩む道を滅びの道にそらそうとするが罪なのです。私たちが注意しなければならないことが、ガラテヤ5:19-21に書かれてあります。サタンが、私たちの魂の敵だということを悟らなければなりません。これは、私たちの毎日の戦いです。(エペソ6:11-18) 1ヨハネ1:7に書いてあるように「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中をあゆんでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。

その日の毎時間、神との短い時間を持つことで、み父との交わりを持つことができます。即座に自分の罪を告白することは、私たちの魂の敵に対する唯一の防御です。1ヨハネ1章を何度も読み、暗記してください。それが、勝利したクリスチャン生活を歩む秘訣です。

 III. 聖霊の働き

  どんなクリスチャンも、二種類の実を生活の中で結びますが、いつでもどちらかの実が明らかになります。クリスチャンとして、あなたがどう望むかによって、どちらかの実を結ぶことになるということを思い出してください。それは、肉の実か御霊の実のいずれかです。どちらの実を結ぶかは、だれに自分の人生をご支配してもらうかによって決まります。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです」(ガラテヤ5:16-17)。あなたは、毎日この世で生きて実を結んでいますが、どちらの実でしょうか。この世の圧力は、肉の欲望を満足させるようにあなたを誘惑します。誘惑は、広告、メディア、雑誌など多くのものにあります。サタンは、この世の神です。 1ヨハネ5:19 この肉の行いは、ガラテヤ5:19-21 に書かれてあります。クリスチャンでない人は、紛れもなく欲望のままに肉の実を結びます。人間的には良いと思われる行いとか、世がほめる宗教的、かつ社会的な行いをするかも知れませんが、神の目から見れば、それらに永遠に残るような価値はありません。

  聖霊の働きは、御霊にあって、あなたの人生に御霊の実を結ばせることです。生まれ変わったクリスチャンでなければ、よい実を結ぶことはできません。御霊の「実」ということばは、聖書の中で使われているときに、単数形だということに注目してください。自分で実を選べません。それは、聖霊による実です。ですから、実がすべて実るのか、全く結ばないかは、あなたと神との霊的関係によっているのです。罪が入ると、御霊の実は肉の実に変わってしまいます。すべてのクリスチャンの願いが、生活の中でよい実を結ぶことでなければなりません。私たちが聖霊のご支配に委ねていくとき、聖霊が私たちの生活の中で働いてくださり、御霊の実を結ばせてくださいます。聖霊がすべての人の主でなければ、聖霊は神ではありません(ガラテヤ5:22-24)。

 私たちは、御霊の実を結ぶために、勝利した状態を得る必要はありません。すでにキリストにあって頂いた状態から、御霊の実を結びます。それでも、日々の生活の中で、よい実を結ぶように戦わなければなりませんが、私たちの勝利はこの聖句にあります。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ5:24)。  私たちの勝利は、自分の努力によるのではなく、キリストによるのだということに気づかなければなりません。肉の思いを十字架につけたのは、私たちの行ないによるのではなく、私たちの内に宿り、私たちもその内に生きているキリストによるのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身を捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)。聖霊のご支配に委ねる時、日々勝利を得ることができます。聖霊を悲しませることがあっても、聖霊は、あなたから離れることは決してありません。なぜなら「贖いの日に対して保証されているのです」(エペソ4:30)とあるからです。私たちが天国の岸にたどり着くまで、聖霊はいつもあなたの内に宿ってくださいます。

 IV. 聖霊の賜物

 あなたはクリスチャンとして、「私には何ができるだろうか?」と、自分に問いかけたことがありますか。もし私があなたに新しい車をプレゼントしたなら、私はあなたにどんなことを期待するでしょうか。ショールームにいれて他の人たちが来て、ただ眺めたり、あれこれと話したり、ほかの人たちにも伝えたり、写真を撮ることでしょうか。それとも、その車に乗って運転することでしょうか。もちろん車の目的は、運転することです。仕事に行ったり、友だちを乗せたりして運転するかもしれません。ただ田舎のドライブを楽しむだけかも知れません。神が、永遠の命とあなたの内に宿ってくださる聖霊と御霊の賜物という贈り物を与えてくださったのは、それらを神のために用いてほしいからなのです。「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていただきたいのです。...さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」(1コリント12:1,4-7)

 以下の聖書箇所に、聖霊が信者に与える賜物について書かれています。主に仕えるために、それぞれの信者に、少なくとも一つの賜物が与えられています(ローマ12:4-8)。主は、私たちに与えた賜物を、どのように用いることを期待しておられるのでしょうか。自分の回りを見たり、聖書を読んで調べたりしていると、自分にはない賜物ががありますが、他人の賜物を見て、それをうらやむべきではありません。あなたに与えられた聖霊の賜物は、神の特別な子供として、あなただけに与えられたものだと理解してください。「しかしこのとおり、神はみここに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」(1コリント12:18)「私の賜物は何だろう?」と思うかも知れませんが、それは私たちにはわかりません。神に聞いてください。自分の賜物を見つけて、それを大いに用いてください。

  ある賜物は、もはや現代のクリスチャンに与えられていません。「使徒の働き」は、教会が始まる移行期の記録だということを思い出してください。使徒の働き録は移行期の書ですから、新約聖書の残りの部分の裏づけがないかぎり、使徒の働きのみで教義を構築することはできません。ペンテコステのとき、信者は新約聖書を持っていなかったので、神はご自分の力と権威を示すために、奇跡や啓示や異言を用いられました。これは、人を贖うために来られた救い主の出現を、新しい時代において、早く知らせるためでした。それはペンテコステのときだけの奇跡であり、再び起こることはなかったのです。十字架や肉体的な復活や昇天が一度きりであるように、ペンテコステも一度しかありえません。ペンテコステの日に、世界中から来た当時の人々に対して、使徒たちは彼らの母国語で福音を語りました。そのために、それを聞いた人々は、帰ってから、死人の中から救い主がよみがえられたことを同国人に伝えることができたのです(使徒2:4,22-24)。 現代では、異言の賜物は、もはやありません。聖書は、世界のあらゆる言葉に翻訳されています。私たちのすべきことは、ただ自分の言葉を用いて、福音を宣べ伝えるという神のご命令を実行することです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。

  今は、新約聖書という書かれた形で、で神の全啓示を知ることができるので、神の教えを知識の賜物を必要とはしません。同じ理由から、預言の賜物ももはや必要ではないのです。こういう特別な賜物は、クリスチャンが、今のような新約聖書を持たなかった特別な時代に必要なものでした。神は、新約聖書が完成されるまでは、旧約聖書を通し、またご自分の民に直接語ってくださったのです。1コリント13:10が新約聖書を指して述べているように、「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」 ヤコブ1:25 にある「自由をもたらす完全な律法」とは、新約聖書のことです。今は、新約聖書という文字に書かれた神のみことばがあるので、異言や預言のような特別の賜物は必要ないのです。黙示録22:18-19に書いてある通り、神のことばに啓示や預言などを付け加えることは、神の裁きを招きます。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。またこの預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書の書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」

 V. 聖霊の証印

 聖霊ご自身が証印です。

A. 所有権としての証印です。(2テモテ2:19)

B. 身分証明の証印です。(エペソ1:13-14)

C. 保証の証印です。(エペソ1:13-14)

D. 取引成立の証印です。この証印は、法的な取引であることを証明しています。(エレミヤ32:10)

E.  義と認める証印です。(ローマ4:11)

F. しっかりと刻印された証印です。この刻印は、いつも確実に刻印されています。聖霊で刻印されるとき、私たちの心に神の刻印が刻まれます。(2コリント1:22)これは「保証」の証印です。保証金とは手付金のことですが、残りのすべては後で支払われます。内に宿る聖霊とは、ちょうど神の保証金のようなものです。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、購いの日のために、聖霊によって証印を保証されているのです。」(エペソ4:30) 聖霊は、天国で再会する日まで、永久にあなたから離れません。

 

VI. 聖霊バプテスマ
 「バプテスマ」という言葉は「浸す、入れる、又は一致する」という意味があります。聖霊バプテスマというのは、救われる時に、聖霊が私たちをキリストのからだに導いてくださることです。「キリストのからだ」とは「教会」と同義語で、すべての生まれ変わった信者の集りです。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(1コリント12:13)これがペンテコステの約束で、教会の始まりでした。

  聖霊バプテスマとは、力や経験を受けることでなく、聖霊ご自身が、人をキリストに導きいれることです。使徒の働き1:5に「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」とあります。これはペンテコステのことを指しており、まもなく来るはずの教会の始まりのことです。ペンテコステ以前は聖霊が人に下りましたが、ペンテコステ以後の聖霊は、いつも人の内におられます。救われたすべての人の内に、在住しているのです。聖書の中で「聖霊バプテスマ」という言葉が使われる時は、必ず単数ではなく複数として用いられています。「聖霊と火のバプテスマ」というのは、救いと裁きを表す対照的な描写です。(マタイ3:11-12;ルカ3:16-17)

  ある人は、「聖霊バプテスマ」を受け、異言を語ることを主張します。また、ある人は病気を治したり、奇跡を行ったり、悪霊を追い出したりする力を得たと言いますが、そういう人たちは、にせ預言者やにせ教師です。2ペテロ2章を読んでください。その人達は、聖書に基づいて自分の経験を解釈するのではなく、聖書を自分の経験によって都合よく解釈してしまいます。悪魔は、神には関係のないいつわりの奇跡を行います。真理の御霊もありますが、人を惑わす霊もあるのです。1ヨハネ4:1-6) 

  現代のクリスチャンにとって聖霊の賜物を生かす最大の鍵は、「さらにまさる道」にあります。1コリント13:2には、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。」と書かれてあります。クリスチャンが与えられた賜物を用いる動機は、愛でなければなりません。私達はいつでも、どこでも、どんな働きや証をするにしても、主が呼ばれるとき、主イエス・キリストにすべてを委ねなければなりません。聖霊の働きや人格については、まだたくさん述べたいことがありますが、キリストにあって成長していくに従って、私たちの生活の中で聖霊の臨在や働きがよく分かるようになるでしょう。

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