原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神自体内における本陰性は概念としてのみ存在 被造世界の陽陰の展開は神の絶対「性」の形象的また象徴的展開

最近はいろんな鳥がやって来る。

窓から外を眺めていたら美しい鶴が舞い降りてきた。

こんなところに何故舞い降りてきたのだろうか?

湖でもないのに。

昨日は十数羽の鳥たちが窓際にやって来た。

ツグミのような鳥がベランダの手摺に止まって鳴いている。

ガラスを隔てて立っている私がいるのに驚きもしない。

また、ツグミよりも小さな鳥たちが飛んできては飛び去り

入れ代わり立ち代わり目の前の木立に止まった。

それがずっと続く。

また白い腹と白い尾の鳥もやって来た。

さらには見たことがない蝶のような鳥が数羽やって来て不思議な飛び方をしている。

鳥なのか蝶なのか何なのか現れては飛び立つのも見せず木立の影に消えていく。

九州にオモニが来た会場に蝶のような不思議な生き物が会場の上空に光を受けて

舞っていた時を思い出した。

それは単色だった。

だが、この鳥は南米の鳥のように色鮮やかで優雅に舞っている。

飛ぶというより舞っている。

不思議な鳥だった。

 

数日前にある目的で街を歩き回った。

すると山鳩が現れた。

よく見たらもう一羽いて、番だった。

そこから見えるところに目的のものがあった。

後に行ってみると、想像以上の物があった。

 

一体、木偶の坊のようなわたしがどのようにして生涯の御恩を

神に返せばよいのだろうかと苦しむ胸の内に神は微笑まれた。

 

さて、前回は本陽性と本陰性の二性性相について、原理講論とは違った説明をしてきた。

神自体内には本陽性は実体としてあるが、本陰性は概念としてのみ存在しているとした。

神は男性器を持つが女性器は持たないということであった。

神は創造主だが、女性と女性器は被造物だということだ。

 

神の創造の核心は女性器と女性と被造世界である。

これら三者は対応している。

一言で言えば神の創造とは絶対「性」による創造のことである。

本陽性とか本陰性とか曖昧な表現を理由があってとって来られたが

絶対「性」と絶対性器による創造なのである。

本体論はそのことを明らかにする責任がある。

 

今までは以下のように講義するのが普通であった。

このような講義には、二神論的な罠に陥る危険性が若干あった。

お父様はご自身を真の父とは言わず真の父母と語った。

何故か?

 

独生女理論はこれを根拠としようとしている。

戯けたことを!

 

www.youtube.com

 

父母なる神という言葉を安易に使うと父と母が同格であるかのような誤解を招く。

神学的には解放の神学に近づくことになる。

家庭連合はそのような試練にあっている。

50年間お父様が生きているときには(叱られる)ので言えなかったという独生女の話は、アダム文化を破壊し堕落エバ文化を展開している。

 

何故神自体内では統一されてる陽性と陰性が同等展開せず、格位性をもってあらわれるのか?これが謎であった。神がそうしたとしか言いようがなかった。

ところが絶対「性」以降、本体論の必要性をお父様が訴えられてから

状況が変わってきた。

本陰性は概念としてのみ存在するので格位性が生じるのである。

神は心情である。

その心情を反転対極化した概念どおりに展開して現れたのが

形状的陰性的エバであり、形状的被造世界である。

本陰性的エバである。

このエバを標本にして被造世界の陰性は相似形をもって展開された。

そのエバは神の花嫁として創造された。

したがって神の創造目的は神とエバの結婚であった。

絶対「性」による喜びの創造である。

被造世界の陽陰の授受作用は鉱物界であれ植物界であれ動物界であれ

すべてが絶対「性」の象徴的表現である。

 

これが原理講論では曖昧であった。

 

今日はここまでに。

原理本体論は特に創造原理を絶対「性」の観点から再構築する使命がある。

 

 

 

 

 

独生女理論はカトリックの三位一体神学のように多神教の理論である

ネットに接続できない環境にいるので、なかなか更新ができません。

 

今日は、お父様が夢に現れて夜中の1時まで街頭伝道している姉妹を遠くから笑顔でご覧になっていました。

誰がみ旨に責任を持って歩んでいるかをすべてご存知なのでしょう。

胸が痛い夢でした。

 

さて表題ですが、イスラム教では三位一体は唯一神の神学ではないと見ています。

 

クルアーンの4章48節にはこうあります。「アッラーは、御自分が他の(偶像)と一緒にならべられたら絶対にお赦しにはならない。だがそれより手前のことなら[多神崇拝ほど重くない罪ならば]気のお向きになった者には赦して下さりもしよう。アッラーに仲間を認める[アッラーとならべて他の神を同時に拝む]ような者はまことに恐るべき罪を犯したことになるぞ」。これを読むと、イスラーム教の啓示は「直き道」からの逸脱、たとえば、三位一体やカトリック教会での聖母マリア崇拝といったキリスト教の考え方などを正すためにある、というイスラーム教の考え方がよく分かると思います。

イスラーム世界の基礎知識」 ジョン・L・エスポジト著

 

三位一体の神というのは、統一原理の四位基台とは

似て非なるものであると思います。

ただ、神学校を出られたであろうと思われる魚谷俊輔氏の「神学論争と統一原理」によれば、三位一体と四位基台は似ているとして親和性を認めているようです。

以下に文章が見られますが、いくらか引用してみましょう。

神学論争と統一原理の世界 - 魚谷俊輔 - Google ブックス

 

  実は「統一原理」のいう「二性性相」に非常に近いことを言った進学者がいた。それはかの有名なドイツの進学者カール・バルトである。バルトは人間の本性を他者との関係性において存在する「連帯な人間性」であるとし、その最も典型的な関係を「男と女」の関係であるとした。すなわち神が人をその似姿に造ったというのは、これを「男と女とに」造ったことにほかならないと述べているのである。バルトは人間がこのような存在としてあるのは、やはり神ご自身が孤独者ではなく「関係における存在」であることに、その原因があるととらえた。

 それではバルトにとって、神が関係における存在であるとは一体どういうことか?それは神が孤独の神ではなく「三位一体の神」であるということだ。すなわち神自体内に「父」「子」「聖霊」という関係性が存在するために、これが原因となって人間も男性と女性という関係を結んで生きるように造られたというのである。三位一体なんて、キリスト教を混乱させた非合理的な教義で、過去の遺物ではないかなどと言わないでほしい。現代神学における三位一体論は形而上学的遊びではなく、「関係性において存在する神」という重要な概念の根拠となっているのだ。事実、父と子と聖霊の関係を「心情」「主体」「対象」に入れ替えてみれば、その構造は「統一原理」に酷似していることがわかる。

「神学論争と統一原理の世界」魚谷俊輔

 

原理講論では、天地創造以前の神と創造以後の神を区別せずに二性性相を語っている。

これは読者が混乱せずに理解するために平易な表現を選んだものと考えられる。

晩年にお父様が語られた神様は、夜の神様と昼の神様、すなわち創造以前の神であるお一人の孤独な神様と、創造以後の関係性を重視して存在する神様であった。

魚谷氏によれば、

 「すなわち(創造以前の)神自体内に「父」「子」「聖霊」という関係性が存在するために、これが原因となって人間も男性と女性という関係を結んで生きるように造られたというのである。」

この表現は原理講論的には正しいが、夜の神様のみ言葉をお父様が語られてからは宜しくない。

創造以前の神自体内に、ある時点から存在するようになった「父」「子」「聖霊」とは、

神すなわち本体そのものの自体内にではなく、神の構想理想内に存在する概念である。

したがって原理本体論はこのあたりを正確に書き直すことを期待されている。

天地創造を構想される際に、神様はじっくりご自身とは何者であろうかとその性禀について思い巡らされたことであろう。

その結果、絶対尺度において「性相的男性格主体」という結論に至ったことと思われる。

さて、創造だが、

神の創造とは反転対極創造である。

神様のお持ちのものを反転させて対極にあると考えられるものを先維された。

無形である神の対極が有形であり、

男性格である神の対極が女性格の存在である。

 

<神> <女性>

無形 ⇒ 有形

本質 ⇒ 現象

男性 ⇒ 女性

凸  ⇒ 凹

 

<女性>を標本に生活環境である有形実体世界を構想された。

有形実体世界は形状的な女性の象徴的存在である。

母なる大地。

 

無形の神様は、無形のアダムを思い描く必要はなかった。

神様の創造目的は、神自体の結婚である。

だからむしろ神の理想相対の存在が必要であった。

だが、この結婚は神自体内には女性はないので、直ちに完遂されることは不可能である。

そこで神はご自身の似姿ではなく、ご自身とは全く違うエバをご自身を反転対極した存在を求め創造することによって実現しようとされた。

原理講論には、神自体内に本陽性と本陰性があるので、これが原因となって現象世界が現れたと記述されている。

だが、これは正確ではない。

本陰性は概念として構想理想としてのみ神自体内に存在するので、

神自体外に理想相対としての女性が必要であった。

自体内にあれば自動的に結婚できたことだろう。

女性は神と結婚する定めを持って生まれてきた存在である。

お一人の神様の花嫁として迎えられるべき存在であった。

 エバが天使長と堕落してしまったとはなんということであろうか!

お一人の神様がその全能をもって悠久な歴史をかけて造られたエバは神様を残して去って行ってしまった。

神様は再び孤独のお一人の神様として暮らすことを余儀なくされてきた。

 

だから、神様はアダムではなくエバを先維された。

性相的男性格主体を反転対極すれば形状的女性格対象のエバが概念として現れた。

 

何故エバが先でエバに合わせてアダムを造られたのか?

アダムの霊人体は神様の似姿に造れば良いので容易なことだった。

神やアダムに似せて造られた無形実体世界も。

問題は神に似ていないエバ、神を反転対極させて現れたエバの創造だった。

女性器 ⇒ 女性 ⇒ 有形実体世界

 

そして次には、性相的であられた神は、形状的なアダムの肉体を形状的な女性に合わせて創造された。

肉身のアダムの男性器は、エバの肉身の女性器に合わせて創造されるようになったのである。

これが、お父様が神の創造でアダムではなくエバを先維されたと語られる所以である。

 

バルトは人間がこのような存在としてあるのは、やはり神ご自身が孤独者ではなく「関係における存在」であることに、その原因があるととらえた。

 

そうではなく、神ご自身が孤独者であったので「関係における存在」となるために創造されたのである。

そのことをお父様は「お一人の神様」とおっしゃっている。

 

 事実、父と子と聖霊の関係を「心情」「主体」「対象」に入れ替えてみれば、その構造は「統一原理」に酷似していることがわかる。 

 

そうではない。三位一体の神学と統一原理の四位基台は本質的にまったくもって似ても似つかないものである。

イルカと魚が外見女似ているが、哺乳類と魚類のように違うように、似て非なるものなのだ。

 

平たくいうと、三位一体とは一神教ではなくて多神教的表現である。

統一原理では、神を中心として、アダムという主体とエバという対象が授受作用して一体となり四位基台を造成する。

ここで重要なことは、神(心情)もアダム(主体)もエバ(対象)も

別人格として独立した存在である。

単なる属性ではない。

もしかしたら一方では属性とし、一方では実体と言うような相反する表現をしているのかもしれない。

三位一体とはキリスト教の禅問答である。

 

さて、カトリックの三位一体の神、聖三位とは、

3つのペルソナのことである。

3つの人格である。

神の人格としては一つだが、実際存在としては3つに分かれているという

常識的には受け入れがたい考え方のことである。

創造主も神ならば、イエス様も神、聖霊も神。

この聖霊はマリアの姿に変貌してまた新しい神を産んでいくのである。

三位一体の神は多神教である。

 

神を中心に他二者が一体化している状態と行動の四位基台とは違う。

三位一体では3つとも神とされている。

 

三位一体の神。

おかしな表現である

四位基台の神とは全く別物である。

 

世の中の方はどのように考えているのか?

例えばこんな記事があった。

イスラム教からの意見であろう。

 

三位一体論を発明したのは誰なのか(前半) - イスラームという宗教

===

キリスト教における三位一体論の根拠とは何なのか

ユダヤ教キリスト教イスラームの3大一神教は、いずれも同一の基本的概念を共有しています。それは、神が至高の存在であり、かつ宇宙の創造者・維持者であるということです。それはイスラームにおいて「タウヒード」として知られているもので、神の唯一性はモーゼの「シェマ」、つまりユダヤ教の信仰教義によっても強調されています。

 “聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。”(申命記64

それは、およそ1500年後に、そのままイエスによって復唱されています。彼はこう述べました。

 “…第一のいましめはこれである、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。”(マルコ1229)

ムハンマドはさらにその約600年後に現れ、同一の教えをもたらしました。

 “あなたがたの神は唯一の神である。かれの外に神はない…”クルアーン2:163)

しかしながら4世紀になると、キリスト教では神の唯一性の概念が曖昧で謎めいた教義に置き換えられてしまいました。今現在もキリスト教の内外で論議を巻き起こしているその教義は、「三位一体」と呼ばれています。キリスト教の教義である三位一体を簡単に説明すると、神は父、子、聖霊の三位格を併せ持つ一人の神であるとされています。

もし簡潔に述べられたその概念が混乱させるものに見えるのであれば、美辞麗句を連ねた教義のテキストはその混乱にさらに拍車をかけます。

 “…惟一の神に三位あり…三位は一体なり…父一位・子一位・聖霊一位なり…されど三つの神にあらず。惟一つの神なり三位は皆倶に等しきなり…救われんと願うものは三位一体をかくの如く思わざるべからず…”(アタナシオス信条からの抜粋)

これを別の形で表してみましょう。父としての神、子としての神、聖霊としての神を足して合わせて一位格になるということは、1+1+11ということになるのです。

この教義を体系化したとされるアタナシオスという司教は、この件について書けば書く程、彼は自らの思想を明確にすることが出来なくなったと告白しています。

このような混乱した教義はどのようにして始まったのでしょうか。

バイブルにおける三位一体

バイブルにおける三位一体についての言及は、ひいき目に見ても漠然としたものです。

マタイ28:19において、イエスは弟子たちに全世界に布教をするよう告げています。この「大いなる任務」では、実際に後に三位一体を構成することになる三位格について言及されてはいますが、「…彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…」という部分は、明らかにバイブルのテキストへの追加であり、それは以下の2つの要素からも分かるように、イエスの実際の言葉ではありません。

1)初期教会における洗礼は、パウロが書簡のなかでも述べているように、イエスのみの名において行われていました。

2)また「大いなる任務」は最初の福音書であるマルコのものにおいて見い出すことが出来ますが、父・子・聖霊についての言及はありません(マルコ16:15)。

他に三位一体について言及されている唯一のものは、第一ヨハネ5:7においてです。しかし、現代バイブル学者たちは以下のフレーズについて:

 “…証しするのは三者であり、それは父と御言葉と聖霊である。そして、この三つのものは一致する。

…間違いなくバイブルのテキストに施された「後世の追加」であり、現在ではどの版本のバイブルにおいても見つけ出すことは出来ないと述べています。

それゆえ、神の存在における三位一体論はイエス、あるいは他のいかなる預言者たちによっても提示された概念ではないということが分かります。現在世界中のキリスト教徒たちによって採用されているこの教義の起源は、完全に人為的なものなのです。

教義の発展

キリスト教の真の創設者であると見なされるタルソスのパウロは、その教義の多くを形成させましたが、三位一体はその一つでした。実際に彼はイエスが「神の子」であるという概念を提唱し、そうした基礎を築いたのです。結局、子は父を必要としますし、神の啓示を人間に運ぶ役割はどうだったのでしょうか? 本質的には、パウロは重要な役割を果たす人物の名前を挙げ、後世が教会はそれを発展、体系化させたのです。

カルタゴ出身のテルトゥリアヌスという三世紀の神学者が子と聖霊が神の存在における同位者ではあるものの、それらはそれぞれ父と共に一つの存在であるという「三位一体」という用語を最初に使用した人物です。

===

 

ちなみにカトリックの見解は、

三位一体はキリスト教の中心的な教理を示すために採用された語である。

……したがって,アタナシウス信経(信条)の用語によれば,『父は神であり,子は神であり,聖霊も神である。しかし,三つの神がいるのではなく,一つの神がいる』。この三位一体において……それらの位格は共に永遠で,同等である。いずれも創造されたのではなく,万能である

 (カトリック百科事典)

 

わけがわからない説明である。

独生女同等に通じるものがある。

 

プロテスタントでは、日本ホーリネスによれば、

三位一体 より如何に引用

 

2.三位一体


 唯一の神は、父と子と聖霊の三位格を持つ三位一体の神であり、その本質において同一である。

 キリスト教信仰において、その中心にある大切な教理は、「三位一体」の教理です。「三位一体」という言葉自体は、聖書にはありませんが、聖書が明らかに伝えている信仰内容です。「三位一体」とは、聖書に啓示されている神は、「父なる神」、「子なるキリスト」、「聖霊」という三つの位格を持つ、「唯一の神」であるということです。つまり、「三=一」ということですので、理性では理解しがたいことであり、この「三位一体」の教理が確立するまで、教会で真剣な議論が交わされました。それは単に理性で理解できるかどうかという問題ではなく、旧約聖書の時代から明らかにされた「神は唯一である」という信仰に対して、イエス・キリストはどのような方で、どのような立場をとられるのか、また聖霊はどのような関係にあるのかという、文字通り「神」を問う真剣な信仰の問いでした。
 そこで、「三位一体」の教理の確立にいたる、歴史的な事柄をはじめに紹介します。
この「三位一体」という言葉は、テルトリアヌス(二二〇年頃没)が最初に使ったと言われていますが、「三位一体」についての議論は、アリウスという人物の次のような主張が発端となりました。
「神だけが神であり、子は神ではない。子は存在しなかった時があり、子と神は異質的である。また、父は創造者であるが、子は、他の被造物と同じく、先在において神の意志によって無より造られた。すなわち父なる神と子なるキリストとの間には、差別があり、キリストは第二義的なものである。ところが、そのキリストは、全ての被造物の最初で最大のものとして父なる神から創造され、そのキリストが宇宙を創造した。つまりキリストは神の仲介的代理人であって、全ての被造物はキリストを通して創造されたのである。キリストに与えられた力と栄誉のゆえに、キリストは神として仰がれ、礼拝されるべきである」。
 この主張によって教会の中に混乱が起き、事態を収拾するためにコンスタンティヌス皇帝は、三二五年にニカヤという場所に教会会議を開きました。その席上でアリウスの説に反論したのは、アレクサンドリヤの監督アレクサンドロスでした。三一八人の教父が出席したと言われるこの会議では、激しい議論の末、「御子と父なる神は同一本質(ホモウーシオス)」であると宣言しました。この告白が「ニカヤ信条」の中核をなしています。
しかし、異端の宣告を受けたアリウス派の人々は、皇帝に中間的な立場をとるよう説得し、力を盛り返します。そこで三八一年、コンスタンティノポリスにて教会会議が再度召集され、アレクサンドロスの後継者アタナシオスらの主張する「三位格同一本質」が正統的信仰として勝利を収めます。こうして、キリスト教信仰の根本である「三位一体」の教理が確立しました。この時に制定された信条を「ニカヤ・コンスタンティノポリス信条」と言い、通常この信条が「ニカヤ信条」と呼ばれています。西方教会の流れにある教会では、使徒信条、ニカヤ信条、カルケドン信条、アタナシウス信条を、基本信条として尊重しています。特にニカヤ信条は、これがなかったなら、キリストが神であることや、聖霊が神であることが曖昧にされ、その後のキリスト教会は、聖書に即したキリスト教ではあり得なかったと言われるほど、大切な信条です。
以上のことをふまえて、わたしたちの信仰告白について考えてみましょう。

① 唯一の神

 聖書は、一貫して「神は唯一」であると伝えています。旧約聖書において重要な信仰告白は、《イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である》(申命記六・四)との告白です。新約聖書においても、《世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アーメン》(Ⅰテモテ一・一七)とあり、神が唯一であるということが旧新約聖書を一貫して告白されています。それはまた、今も変わらない教会の大切な信仰告白なのです。
 使徒パウロは、《偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている》(Ⅰコリント八・四)と記し、この唯一の神以外のものを神とすることは、偶像礼拝であると述べています。

② 三位格

 それでは、唯一である神と、イエス・キリスト及び聖霊との間にはどのような関係があるのでしょうか。確かに神は唯一の方ですが、実は父、子、聖霊の三つの位格(ペルソナ)においてご自身を明らかにされたのです。言葉をかえると、三位一体とは唯一の神の本質のうちに、父、子、聖霊としてそれぞれ知られている三つの永遠の区別がある、ということなのです。
 先に引用した申命記のみ言葉のように、旧約聖書には神の唯一性が強調されています。三位一体を暗示する言葉はありますが、むしろ、神の唯一性に強調点が置かれていると言えるでしょう。
 それに対して新約聖書には、父、子、聖霊なる神についての明確な記述があります。《あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである》(マタイ二八・一九~二〇)と主イエスは語られました。また、わたしたちの礼拝の終りにささげられる祝福の祈りは、《主イエス・キリストの恵みと、父なる神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように》(Ⅱコリント一三・一三)で結ばれ、三位一体の神の祝福とその神による世への派遣が明らかにされています。
 唯一の神が三つの位格(ペルソナ)においてご自身をお顕しになったということは、人間の理性から生まれた事柄ではなく、神ご自身の決断と方法によって、ご自身を明らかにされた「啓示」なのです。永遠なる神が、有限なる世界にご自身を明らかにされるとき、それを受け止める人にとっては、矛盾と思えることも起きます。なぜなら、人は永遠なる神を充分に理解できないからです。
  しかし、そのような永遠なる神が人にご自身を明らかにされたとすれば、そのことはまさに「救い」そのものなのです。なぜならば、人間は本来、自分を救うことも神を知ることもできない存在だからなのです。聖であり、義であり、愛である神は、罪に汚れた人を救うために御子をお遣わしくださいました。そして御子の十字架と復活によって救いは成就し、聖霊によって罪を悔い改め、イエスを主と信じる人に救いが届けられるのです。御子が遣わされ、人の罪を負って十字架上で神に捨てられるというこの驚くべき出来事は、三位一体の神の完全な交わりに亀裂を生じさせた出来事でした。しかしそこに神の愛が現されたのでした。《神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある》(Ⅰヨハネ四・九~一〇)とあるとおりです。
 ですから、わたしたちが罪赦され、救われて神の子とされるとは、この神の完全な交わりに招き入れられることでもあるのです。《わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである》(Ⅰヨハネ一・三)。

③ 本質において同一

 「本質において同一」という言葉は、先に紹介した「ニカヤ信条」で、「父なる神」と「子なる神」の同一性を表すのに用いられました。後にこの言葉は、三位一体の神の同一性を意味するものとなりました。「ニカヤ・コンスタンティノポリス信条」より後の、四〇〇年代前半に制定されたと言われる、基本信条の一つである「アタナシオス信条」の一部分を紹介し、この言葉の真意について考えてみましょう。

公同の信仰は唯一の神を三位格において、三位格を一体において礼拝する。
三位格は混同せず、一実態を分割しない。
父と子と聖霊は、それぞれ別の位格である。
父は造られず、子も造られず、聖霊も造られず。
父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠。
しかし三つの永遠ではなく一つの永遠者。
父は全能、子も全能、聖霊も全能。
しかも三つの全能者ではなく、一つの全能者。
父は神、子も神、聖霊も神。
しかも三つの神ではなく、一つの神。

 ここには父も、子も、聖霊も、神であり、造られず、量りがたく、永遠であり、全能であり、主であると告白されています。このように、言葉を尽くして神の「三位一体」について語られていますが、これは神が人に啓示としてお与えくださった奥義であり、有限な理性では、とても受け止め理解することはできないことなのです。それはまた、わたしたちの信じる「神」は、理性で理解し尽くすことのできない方であることを表しています。まさにそれは信ずべき信仰の事柄なのです。

 このような三位一体の信仰は、教会が歴史の中で異なる教えと戦い、勝ち取ってきたものなのです。それは、教会が受け継いできた神の贖いのみ業を正しく受け継ぐ中で育まれ、確認され、大切にされてきたものなのです。贖罪こそは、三位一体の神の最重要事であったのです。贖罪は三位一体の神が、人の救いのために計画され、十字架と復活によってそれを実行され、わたしたち一人一人に、今、ここでそれを成就していてくださるのです。
 それですから、三位一体の神への信仰告白は、わたしたちの深い喜びの賛美であり告白でもあるのです。

 

まあ、普通に考えたら詭弁でしかないと思われる。

 

最後に、独生女理論という詭弁は、カトリックの三位一体多神教理論に通じるものがある。

お父様が生きておられるときに原理本体論において、二性性相の本義を充分に明らかにすることができなかったことは、堕落訓母が韓鶴子オモニを偽の言葉で堕落させる余地をもたらす事になってしまった。

実際、性相的である神とアダムにはみ言葉が存在するが、形状的である女性には本源的には存在しないのである。

アダムのみ言葉をエバは語らなければならず、

さもなくば、お一人の神様の統治からお二人の神様の統治に変わってしまうのである。

 

神と再臨主の文化の否定である。

韓鶴子オモニもみ言葉は存在しないし、存在してはならないのである。

もしこの偽の言葉を語る真の母を擁護すれば、

それ自体が真の父を否定することになる。

反キリストになってしまうのである。

 

韓鶴子オモニの堕落行為に干渉するどころか擁護すれば、

サタンが喜ぶ新しい原理が誕生することになってしまう。

堕落エヴァ文化の創造が人類始祖の堕落以降のように繰り返されてしまうのである。

このような存在、堕落エバたる韓鶴子オモニの祝福は

絶対「性」の祝福でなく、

サタン主管の淫乱の 祝福になる。

そこで、彼女は「バビロンの淫婦」と呼ばれるようになるのである。

 

オモニの個人的な誤りや失敗を擁護したり支えることは好ましいことである。

だが、それによってみ旨が破壊されてしまうほどの問題を引き起こしてしまったときには、われわれはオモニを去りアボジに従わなければならないのである。

それが、これ以上オモニが犯罪行為を累積せずにする道であり、ご本人のためでもあるのである。

 

原理本体論は、絶対「性」と二性性相の核心を語るべきであり、

それゆえアボジはオモニも学ばなければならないと言われたのである。

 

 

 

 

 

 

信仰生活の幾つかの点について

アベルカイン>

 

内的アベル:子女様

内的カイン:祝福家庭

 

外的アベル:教会長など職位者,自分の直上者

外的カイン:直下者

 

祝福家庭においてはアベルは子女様であるが、

恵まれて実際に侍って生活する食口は稀である。

そこで、子女様の代理のような立場としてアベルとして立たされているのが

教会長などの上位者である。

 

<責任分担>

存在物はすべて全体目的と個体目的の二重目的を併せ持つ連体、

したがって責任分担も全体目的の摂理が主体で

個体目的の神氏族メシア活動は対象

 

全体目的から 現在の摂理活動

個体目的から 神氏族メシア活動

 

 

では、父母主義とは何でしょうか。 地上において、アダム、エバが完成すべき真の父母主義です。その次に、神主義とは何ですか。真の父母が横的な父母なので、縦的な父母も必要なのです。それゆえ、縦的な父母主義が「神主義」です。ですから、「頭翼思想」という言葉は、真の父母主義であり、縦的な「神主義」、このようになるのです。横的真の父母主義と縦的「神主義」の縦横が一つになって、天の生命、地の生命、天の愛、地の愛、天の血統、地の血統がつながって人間が生まれるために、人間は二重存在になっているのです。内的人と、外的人とになっています。内的人は縦的な自分であり、外的な人は横的な自分だというのです。実になるのです。(224-277,1991.12.15)

天聖経271ページ

 

 

<秩序と主管>

創造本然: 神 ⇒ アダム ⇒ 天使長

           ⬇     ⬇

堕落時の結果 :堕落アダム ⇐ サタン

           ⬇     ⬇

復帰路程:     アベル ⇒ カイン

 

<実体基台>

カインの側から:堕落性を脱ぐための蕩減条件の成立

アベルの側から:天使長を主管する条件の成立

 

<教会長や教育部長> 

ヨハネ先生は、み言葉を語るものは天使長だとされた。

言い換えるなら、教育者は善の天使長だということであろう。

従って彼らは支援職である。

真の父母である文鮮明師は、三大主体思想を発表されています。

 

人間の願いとは何でしょうか。堕落した人間の願いとは何でしょうか。息子、娘を生んでも、その息子、娘がサタン世界から迫害されず、天国に直行するよう育て得る、真なる父母になるべきだったのです。ところが、そのよ うになれなかったのです。真の息子、娘を生んで、天国に直行させ得る真の父母の身代わりになるのが願いです。 皆さんも全部良い息子、娘を生みたいでしよう? 世界で一番優れた子女を生みたいでしょう? それができませんでした。それを、どのようにするかが問 題です。
 その次は何でしょうか。天使長が神様の息子、娘であるアダム、エバを育てることができませんでした。我々がどのようにしてでも、我々の子女たちを神様の息子、娘として育てて、神様に必要な人として教育するかということが、最も重要な問題です。
 皆さん、みんな先生になりたいでしょう? 手本になりたいでしよう? それで、皆さんは、熱心に働いて、国を代表し得る大統領の身代わりになりたいし、その国の会社とか、すべての行政省庁の主人になりたいと思うのです。 出世しようというのです。それは何ですか。真なる主人になろうということです。
 これが我々の三大念願です。一つは真なる父母、その次には真なる師、真なる主人です。出世して地域の指導者になりたいし、大統領になりたいでしょう? そうなる前に、家の主人にならなければなりません。家庭の伝統を相続して、先祖に代わり得る、神様に代わり得る主人の立場に立たなければならないのです。そうすることによって、すべての家庭と国が尊敬するのです。この三つには、世の中のすべてが入るのです。真なる父母、真なる師、真なる主人です。
 皆さんがすべて真なる父母になるべきであり、真なる師になるべきであり、真なる主人になるべきです。これが「三大主体思想」です。この三大主体思想」の根とは何でしょうか。真の愛です。この真の愛とは何かというと、自分の100パーセント以上を投入し、また投入し、また投入しようということです。そのような思想をもった父母であり、師であり、主人であるということを知るべきです。根は一つです。
 それゆえ、「真の父母」と言うときは必ずその右に師が来て、左には主人が来なければなりません。いつもついて回るのです。息子、娘を生むからといって、誰でも真の父母になるのではありません。息子、娘を生んで、育てなければなりません。息子、娘がお母さん、お父さんに乗っていかなければなりません。教えなければならないのです。(205-19,1990.7.15)

天聖経286ページから287ページ

 

アダムとエバには父母がいなかった。

そこで天使長が教育係となった。

ところが、真の父母が立った以降その子女は、天使が教育する必要はなくなる。

父母が担当すればよい。

さらに第2世代の子女が夫婦になった際には、神の座には祖父母が就く、

そこで若い夫婦の不備を祖父母が教育することができる。

むしろ真の父母であられる文鮮明師は孫の信俊様を父母である亨進様やヨナ様以上に教育されてきた。

われわれ食口が祝福を受け家庭を持ち成長するに連れて、天使長的教会長や教育者から、父母的な教育者に自然に移行するようになる。

 

「三大主体思想」の中心思想は、真の父母思想です。ここに、なぜ真の父母が中心になるのでしょうか。垂直を 通じた縦的基準は、一つしかないのです。真の愛の垂直は一つであるために真の父母と縦的な神様の決着点をもった家庭が代理基盤になるのです。
 それゆえ、父母の思想を模範として、父母の愛を模範としてまねた主権者は、天国の環境的与件を指向するようになりますが、ここにはサタンが侵犯できないのです。悪魔の愛の圏の内容をもって侵犯できないために、解放圏が繰り広げられることによって、地上に天国が形成されるのです。(213-124,1991.1.16)

天聖経269ページ

 

教会長が天使長であるということは、

お父様のみ言葉「これはみ言葉の実体ではなくて、実体み言葉である」を思い起こせば

容易に理解できることだろう。

教会長が天使長というのは、み言葉を知っているが、実体がないということである。

み言葉の実体になっていない。

エス様もお父様も、先に実体があってその姿を現すみ言葉が続くのであるが、

我々堕落人間は実体がありもしないのに、み言葉を受肉しもしないのに、

み言葉を語っている。

このことを李ヨハネ先生は天使長だと語られたのだと思う。

だが、天使長だとしてもアベルである。

サタンに対応するのはカインだが、

サタンとは悪の天使長である。

善の天使長である教会長はアベルとなる。

 

<お父様の組織論>

1,フラットな血統組織

真の父母 ⇒ 各祝福家庭

したがって目標は均等割が基本

2,ピラミッドな機能組織(教会組織など)

真の父母 ⇒ 事業部制のようなピラミッド組織

 

ただし、ピラミッド組織は機械的な命令組織ではなく

機能的でありながら有機的な連帯を持つ組織であるべきだろう。

堕落世界ではゲマインシャフトゲゼルシャフトの区別があるが、

おそらく本然の世界ではどのような組織も両方の様相を兼ね備えているのではないかと思われる。

ただ、どちらの性質により多く振れているかの違いは千差万別にあるものと思われる。

堕落によって心と体が引き裂かれたように、そのような個人の集合によって成り立つ組織も、テンニエスのいうように二つのタイプに分離したものと考えられる。  

 

<絶対信仰、絶対愛、絶対服従

ノアを代表とする不変という旧約の絶対信仰

エス様を代表とする恩讐を愛する絶対愛

再臨主に侍る絶対服従

旧約の絶対信仰は、神からの要精に対して絶対信仰という受け身の形をとるが、

成約の絶対服従は、神や再臨主の願いである御旨に対して、誰から強いられたのではなく自ら喜んで服従する点において相違がある。

旧約では神と人が主人と下僕の主従関係だったが、

成約では神と人の関係は父と子の親子の絆である。

その服従に強制感があるはずもなく、もしあるとすれば侍義と認定され得ないであろう。

お父様が「孝子の孝子」と言われる所以である。

 

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