原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

韓鶴子はお父様から講演文を通して原理を教育された、原理原本もである。

 史吉子は今年聖和されたようだね。

彼女は今まで表には出なかった「原理原本」の内容を
お父様が韓鶴子の講演をとおして少しずつ現されたと語った。

つまり、これこそが、またすべての韓鶴子の講演文こそが、

お父様が韓鶴子に原理を教育した証拠である。

青い字で書かれた各講演の名称をクリックすれば、公演文があるサイトに行くようリンクされている。

 

 

「原理原本」においては、イエス様の母である
マリヤの問題が一番深刻です。
それで私はいつも、その時を今か今かと待っていたのです。
ところが近年、お母様が講演された
救援摂理史の原理観というみ言には、
エス様の血統が明らかにされています。
お父様は、原稿をほとんどご自身で書かれますから
“ああ、お父様はお母様を通して『原理原本』の一部を
少しずつ出しておられるのだ”と悟った瞬間がありました。
また、お母様の真の家庭と私の講演にも、
私は大変感動しました。
その内容は、心と体の問題、良心の問題、人生の目的等々、
人間だれもが考えることが語られています。
そこでお父様に、「これこそ本当に、だれもが一度は考えるものです。
その人間の心の悩みがお母様によって語られ、
導かれて、本当にうれしかったです」と申し上げると、
「それは先生が、四十年間み旨の道を歩きながら、
ずっと経験してきたものだ」と言われたのです
救援摂理史の原理観」と宇宙の根本を探して
という重要なみ言に加えて、
今回の講演では、真の愛を中心とした真なる家庭と真なる宇宙
という題目で語られました。
お父様は、真の家庭と私を基礎としたこの三つの講演文を合わせて、
「成約聖書の本をつくるように」と言われました。
ここにおいて結論は皆、出ました。
お父様の「原理原本」は、このように
お母様を通して、今地上に現れてきたのです。

(史吉子)

 

 もう少し長い文章はこちら。

 

すでに述べたように、『原理講論』は一言一句にわたってお父様の監督と指示のもとに書かれたものです。ですから、もし私が、「『原理講論』は私の夫が書いた」と言えば、お父様は怒られます。「おまえの夫が書いたのではない。先生が書いた」と。そのとおりです。それでは、お父様がどうして直接、書かれなかったのでしょうか。統一原理とは「創造」、「堕落」、「復帰」という三つの部分から成っています。堕落した罪深い人間は、この原理によって罪を清算し、罪から解放されて神様に帰ることができるのです。ですから原理とは、堕落した人間の中から代表を一人選んで、“罪を告白させる”という形で書かせなければならないというのです。真のお父様は、堕落とは関係がない、完成したおかたですから、ご自身が原理を執筆することはできなかったのです。けれども、神学博士とか神学者、またはクリスチャンが無条件にお父様を認めて従ってくるときには、お父様ご自身が「原理原本」を書くと言われました。「原理原本」においては、イエス様の母であるマリヤの問題が一番深刻です。それで私はいつも、その時を今か今かと待っていたのです。ところが近年、お母様が講演された「救援摂理史の原理観」というみ言には、イエス様の血統が明らかにされています。お父様は、原稿をほとんどご自身で書かれますから“ああ、お父様はお母様を通し『原理原本』の一部を少しずつ出しておられるのだ”と悟った瞬間がありました。また、お母様の「真の家庭と私」の講演にも、私は大変感動しました。その内容は、心と体の問題、良心の問題、人生の目的等々、人間だれもが考えることが語られています。そこでお父様に、「これこそ本当に、だれもが一度は考えるものです。その人間の心の悩みがお母様によって語られ、導かれて、本当にうれしかったです」と申し上げると、「それは先生が、四十年間み旨の道を歩きながら、ずっと経験してきたものだ」と言われたのです。「救援摂理史の原理観」と「宇宙の根本を探して」という重要なみ言に加えて、今回の講演では「真の愛を中心とした真なる家庭と真なる宇宙」という題目で語られました。お父様は、「真の家庭と私」を基礎としたこの三つの講演文を合わせて、「成約聖書の本をつくるように」と言われました。ここにおいて結論は皆、出ました。お父様の「原理原本」は、このようにお母様を通して、今地上に現れてきたのです。ですから私は、このように考えるのです。『原理講論』の中に入っている原理は、家に例えれば骨組みであり、そこにきれいに壁を作り、屋根をつけて、肉づけしていくのがお父様のみ言なのだと。
★史吉子先生の証(三家庭)「私は慕わしさのあまり悲しみの涙に濡れて生きる人である」より 
(ファミリー97年10月号)

 

<追記> 

何故、引用したのか充分に書かずにいたことは大変不誠実であったと反省いたします。
わたしはもう書かないはずだったのですが、何度もこの史吉子の言葉が思い出され、「成約の聖書」の話が出てくること、それは4つのみ言葉を基本につくるよう指示があったということが新鮮に感じたからです。

 

二つ目の長い方の引用文は、出典を明らかにするのが目的でした。
短いほうの先の文章の後尾に(ファミリー97年10月号)を付け加えればよかったのに、余計なものまで加えたのが間違いのもとでした。

 

「原理とは、堕落した人間の中から代表を一人選んで、“罪を告白させる”という形で書かせなければならないというのです。」

だから、

「真のお父様は、堕落とは関係がない、完成したおかたですから、ご自身が原理を執筆することはできなかったのです。」

という史吉子の論理展開には疑問を持ちました。

 

つまり、その前後の史吉子の主張は私の考えとは違っているので邪魔だったので、

トルソのように切り落としたのに、その前の状態を提示しては元も子もありません。

これが私の落ち度かと思います。

 

独生女以前の食口の理解では7年路程がお母様の教育期間でした。

それ以降では、世界的檜舞台にお母様が立たれて講演をされるようになったその講演文は、一般の人々の教育ではありますが、より内的にはお母様の教育でした。

ですが、これを口頭で言うことは不謹慎なことと理解され誰も表では言わなかったのだと思います。

自信がなかったお母様をお父様は見事にサポートされました。

私は誰からも教育されたことがないとか、教育されたことがないがなんでも知っているというのは傲慢不遜の言葉です。

講演文はお父様がつくられました。

お母様と人類のために。

 

何故お父様が直接書かないのか?

お父様が書いた「まるごとの原理」をわれわれが知った時に、

信じられなかったり、理解できなかったりすれば、

サタンの讒訴にあって引っかかるからだと思います。

蕩減を負ってしまうからです。

原理講論がその内容を、お父様が書いたようでもあり、劉先生が書いたようでもあるのか?はそこに理由の一つがあると思います。

 

サタンがこのみ言葉を知った者が、「信じないじゃないか!理解しないじゃないか!」と讒訴する時に、「いや、あれは私が直接書いたものではないからだ、だからこの者は信じないのであって、理解しないのだ」と擁護し弁護することがお父様にはできることになります。

サタンが「あなたが指導して書かせたではないか!」と言ったとしても、

「あれには間違いも書かれている、わたしの思想そのままではないのだ」

と救いの道を開くことができる。

 

だが、原本はお父様が直接書いたので許しの道がない。

一般食口が心霊と心情がそれを受けるにふさわしい時の到来を待っていたといえる。

史吉子が、罪人が書くというのは、罪人が受け入れたということである。

だから、罪人の頭が受け入れたように他のすべての罪人も受け入れよというのです。

 

後半はこの部分が私とは意見を異にしています。

 

「私は、このように考えるのです。『原理講論』の中に入っている原理は、家に例えれば骨組みであり、そこにきれいに壁を作り、屋根をつけて、肉づけしていくのがお父様のみ言なのだと。」

 

わたしは彼女の主張の真逆だと思っています。

「原理講論」ではなく、「原理原本」の間違えではないかと思います。

「原理原本」が元になって「原理解説」や「原理講論」が出てきたのは誰もが知るところです。

 

考察の参考までにいくらかみ言をご紹介します。・・・

私は整理整頓が苦手で、几帳面な食口のようにみ言を収集して、整理してもいません。

90年くらいからファミリーも祝福も中和新聞も読みませんでした。教会の礼拝にも生きませんでした。25年位ブランクがあります。

こうしてブログに書いているみ言はだいたい神様がその時その時連れて行って教えてくれるものです。

霊連世の時代が来ました。

 

 

お父様とイエス様の違いについて書きましたが、堕落観念のつきまとうアベル・カインという言葉のアベルですが、アベルを主体とみて三大主体思想がこれに変わるべきだと主張しました。

 

「劉孝元氏もすべて成し遂げることができずに逝きました。ですから、『原理解説』という言葉が出てきて、その次に『原理講論』、その次に「原理本(体)論」が出てこなければなりません。真の父母、真の師、真の主人です。そうしてこそ終わるのです。そのような家庭的基盤ができなければなりません。」

2008年8月31日 天正宮博物館 に於ける訓読会

 

「講論」は劉孝元氏も分かりません。

 

 今まで生きてきた女性たち(のおなか)はサタン世界のおなかでしたが、これから再びへそを蕩減してそれ以上の歴史を残さなければ、天の眷属、一つしかないその世界の歴史を相続することのできる家庭の主人になることはできません。どれほど厳格でしょうか?

 そのようなことを望んでいくにおいて、『原理解説』も実践できない群れ、『原理講論』も知らない群れ、「原理本体」を知らない群れが、天の国の全体の覇権、天の全権を相続し、それを母親の体を通して子孫万代に相続させなければならないのです。子孫たちが生まれるにおいて、本体と同じ血筋を受け継いだ息子、娘にならなければならないのですが、それができていなければ、それは母の責任です。ところが、すべて正しく生まれたと思っています。

 『原理解説』という言葉をだれがつけたと思いますか?それを劉孝元氏がつけたでしょうか、先生がつけたでしょうか?「解説」です。その次に『原理講論』です。「講論」は劉孝元氏も分かりません。1日に前編、後編を7,8時間教えてあげれば、それですべて終わるものではありません。

2008年8月31日 天正宮博物館 に於ける訓読会

 

 

 

「本体論」です。その「本(体)論」を成した人が出てこなければならないのです。「原理」の主人が出てこなければなりません。

 

『原理講論』が出てきたので、「原理本(体)論」が出てこなければなりません。「本論」ではありません。「本体論」です。その「本(体)論」を成した人が出てこなければならないのです。「原理」の主人が出てこなければなりません。そうではないですか?

 『原理解説』、その次は何ですか?学ぶ『原理講論』でしょう?『原理講論』を聞いただけであって、『原理講論』に相応する人にはなることができていないではないですか?分かりますか?

2008年8月31日 天正宮博物館 に於ける訓読会

 

 

 

今現在、分捧王は、『原理講論』ではなく「原理本(体)論」の事実を分かっている立場に立っている

史吉子さんも、『原理講論』を中心として、「覚えて何々しなければならない」と言っていますが、それは『原理講論』です。

 

「講論」も解説することのできない人が、国家の王たちが守る実体圏をどうして指導できますか?今現在、分捧王は、『原理講論』ではなく「原理本(体)論」の事実を分かっている立場に立っているので、それを歴史で見れば、イエス様の前の洗礼ヨハネと同じです。

 400年前のエリヤの代身として来たのがイエス時代の洗礼ヨハネです。その後継者の復活体として現れ、その理想の世界を、神様の本体的事実を教えてあげるべきなのにもかかわらず、それを考えることができませんでした。

 史吉子さんも、『原理講論』を中心として、「覚えて何々しなければならない」と言っていますが

、それは『原理講論』です。実体はどこに行きましたか?自分はかかしのようなことをしているのです。かかしに頼って生きるのではありません。鳥も、行き来する主人が来れば逃げていかなければなりません。逃げずに主人になろうと史吉子さんも考えるでしょう?「本体」である真のお母様以上の位置に立とうという話です。自分が、お母様のように堕落していない本然の息子、娘を生むことができますか?それは真の父母の種を受けて一体圏にいなければ不可能です。永遠にありえないことだというのです。

 ですから、「本体論」を受け入れなければなりません。思想、「本体論」、神様に関することを知ろうとすれば、、先生がすでに説破した家庭理想の内容があります。真の愛を中心として宇宙内外のすべてのものが、その中で魅了されるようになっているのです。ほかの所で成功して輝くことのできる道はありません。

 世界平和統一家庭連合とは何ですか?先生の代身者がサタン世界で金城鉄壁の、万年たっても壊すことのできない城を築くものではないですか?

 天城旺臨宮殿の「旺臨」というのは、まだ本当の王ではありません。ここで教育を受けたとしても実体になることはできないということです。「降臨」とはそのようなものです。

 個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代、天宙時代、神様まで、平面的にならしていくのです。その次には、僕の僕から僕、養子、庶子、子女、夫婦、父母、神様までの8段階です。家庭と世界の問題が定着するのです。それはどれほど貴いことですか?天父主義です。

2008年8月31日 天正宮博物館 に於ける訓読会

 

 

『原理講論』という「原理」の本があるではないですか?それは、劉孝元氏を中心として出てきたのですが、『原理講論』という言葉は、自分を中心として12巻を代表して書いた言葉ではないですか?

 

(「原理本体論」の基となるものは)内容が欠けずにすべてできています。7大条件の解説から7代条件の内容を把握してつくったのですが、先生の未来に関することを添付して、この最後の『原理講論』の骨子をそのまま入れて新しい時代と連結させておいたというのです。

 ですから、この本は貴い本なのであり、「講論」ではありません。『原理講論』というものは・・・・。今、『原理講論』という「原理」の本があるではないですか?それは、劉孝元氏を中心として出てきたのですが、『原理講論』という言葉は、自分を中心として12巻を代表して書いた言葉ではないですか?そうではないですか?(「今までわたしがいるときに、お父様の御言集を750巻つくりました」)。ああ、ですから、すべて分かっていますが、『原理講論』より「原理本体論」を書かなければならないというのです。史吉子さんはそれを知りません。「講論」時代の主役をする人と「本(体)論」時代の実体とは違うではないですか?

 ですから、「原理講論」よりも「原理本(体)論」という言葉にならなければならないというのです。それは何かと言えば、真の父母様の内容を一番守った者において、アロンのようにモーセのみ言を代わりに代表できる人、今の統一教会では、郭錠煥氏とあなた(黄善祚会長)ではないですか?あなたはアベル的分捧王です。何のことか分かりますか?(「はい」)。カイン的分捧王がいくら優れていても、アベル的分捧王に、分捧王のように侍らなければなりません。

 「講論」の時は女性が先頭に立ちました。真のお母様が出てくるでしょう?創造的女性時代に連結するためには、一般の人たちではだめです。真のお母様が生んでくれた息子、娘と一つになり、お母様の息子、その次に娘たち、カインとアベルの娘たちが生んだ息子、娘を一つにして抱き、エデンで堕落のなかった父母が、アベルUNを中心としてカインUNを一つにして即位式を終えなければならないというのです。

 4年残っています。2013年1月13日には、即位式をしなければなりません。だれによってですか?世界の国家が一つになり、分捧王たちが自分の国の分捧王を代表して、彼らが推戴する精誠を集めて宮殿を建て、宮殿に準備されたその時代にふさわしい歴史時代の伝統を受け継いできたその骨子に橋を架けるのです。これが切れてはいけません。新しく決定した重要な部署の責任者たちは天が任命するようになっているのです。自分たちが選出するのではありません。そうするのは、すべてどろぼうたちです。天使長の時代と変わるというのです。

 アダムとエバをすべて殺しました。その次に、4000年目のイエス時代にメシヤが来るといって、国家基準を中心として、ヤコブが勝利して選民圏となったイスラエル血族が、イエス時代に国の大統領を立て、副大統領を立てなければなりません。ところが、洗礼ヨハネは分捧王になることができなかったではないですか?

 今回(平和メッセージ16章)の最初のページに「洗礼ヨハネ」という言葉を掲げたことは驚くべきことです。それ一つ自体が蕩減復帰歴史において人々が誤ってイエス様を殺したので、これからは、人々が分捧王を中心として、わたしがつくった教育材料を中心として、これが新しい祖国光復の旗印を立てなければなりません。そのために(アベル)UNまでつくるのです。

 ですから、この旗印を立てるときは分捧王ではありません。実体王権です。その王は、自分が王宮をつくり、民をつくることを、すべて一人でするのですか?

 その分捧王自体が、第1イスラエルが第2イスラエルの王権を推戴して侍らなければならず、第2イスラエルは第3イスラエルに侍り、アダム時代を中心として第4次アダム心情圏時代が定着してこそ、カイン・アベルに分かれていた理想的家庭の血筋が一つになり、一つの父母が一つの子女の権威を持って天上世界にそびえ立ち、永遠に灯台のように輝くことができる祖国光復の土台が決まるのです。そのようになれば終わりです。

2008年8月31日 天正宮博物館 に於ける訓読会

 

 

コメントで私の不備を指摘してくださった方のお陰で、

こうして皆様と重要なみ言を再び共有できました。

神は愛なり!

 

 

 


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