原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

また一つわたしの堕落性が抜けていく 手塚治虫の百鬼丸の話のように

神様が日々与えてくださる恵みの中で、私自身の中に

未だに残っていた堕落性が抜けていくことを感じています。

時には、ただ内的に方向転換するだけではなく、実際の環境を変化させることは実に有意義なことだと思います。

あることについて、わたしの相対者(家内)には、わたしのようには課題は無いようにずっと思ってきましたが、自分自身については、御言葉を学んで頭のなかでは解決しておりますが、ずっと根強くわたしを支配している厄介な問題があることを認めざるを得ませんでした。

以前に、このブログで権進様の動画をご紹介しました。

権進様が語るに、御父様は相手がどのような身分であるかに関わらず等しく誠をもって接せられるという内容のお話でした。

わたしにはこの言葉がひどく心に入りまして、現在に至っております。

 

この6ヶ月は、実に恵み多き日々でございました。

ようやく自分にも権進様が御父様のことを語った時の心境というものが分かってきた気がいたしました。

一言で言って、わたしと人びととの間に境界を持たないということであります。

頭のなかでそうすべき、そうありたいと思うのではなく、

すっと生じてきた感情から気がついてみるとそのようにしていたというような、

ごく自然に心の赴くままに無境界であれたらと願っていた世界が、

少しまた開かれて来たと感じたのです。

 

それは自分の感情の中にも変化を見つけることができるようになりましたし、

わたし自身が何らかの変化を勝ち取るに連れて、

相手の変化がこの人にあの人にと現れてくることにも確認できたと感じることが出来ました。

ああやっと、「ホジュン」の主人公が子供の頃に読み上げていた

貴賤によって差別しないというその漢文が手に届くかに思われました。

 

相対者にそのような話しをすると、

「人は皆このような自分になりたいと思って生まれてきたわけではない。

その意味では誰もが平等なのではないかと思う。」

そのように言いました。

 

家系的に、また歴史的に、また環境的に、何かを背負ってわれわれは生まれてきました。

エス様はその重荷を下ろしてあげようと言われました。

自分の中にどんなに醜く悲惨な問題が人知れず存在しようとも、

神は今日もわたしにまっさらな心情を与えてくださろうとしています。

そのお気持ちは痛いほど分かるのですが、

それに応えるにはどうすればいいというのでしょうか?

 

開拓伝道に出たらその村の最もかわいそうなおばあさんの話を

自分がそのおばあさんの話を聞くために生まれてきたと思って聞きなさいという御言葉を何度も思い出しながら歩んできました。

 

勿論、み旨のためには重要人物に会った再臨主は、公的にその方を格別に愛しはしたでしょう。

しかし、相手が有名人であろうが、無名の人であろうが、

人として誠によって出会い、誠によって交わることが常であられたことでしょう。

 

人の善悪、美醜、貴賤に関わらず慈雨のごとく分け隔てなく注ぐ心情とはどのようなものでしょうか?

 

ああ、神様は、

眼を与えてくだっさったのに

耳を与えてくださったのに

口を与えてくださったのに

それらをことごとく使って堪能した末には

まるでそれらを捨て去るように促しているかのようです。

 

わたしたちが息絶える時、どのようなひとすじの心情をもって

神様に会い見えるというのでしょうか?

 

 

 

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堕落性という妖怪を退治すれば、自分の本当の姿を手に入れることができよう。

 


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