国賓として真の御父母様を初めて迎えたジョナサン大統領とその国家がどのような試練の道を行かざるを得ないかを思うと、その至誠に対してそれ以上の心を彼の地に残さずば動くことも次の予定も考えることが出来なかった真の御父母様であったと思われる。
また、人知れず誰かの訪問を待っていたのかもしれない。
ご自分に注がれる真の愛に対して、応えられぬ身であるならば、それは地獄でしかなかったことであろう。
お父様の一見理解できない行動に人々は、ついにお父様は気が触れた。ついにお父様もボケ始めもうろくされてしまったと心騒いだ。
ティモシー・エルダー氏の証言を振り返る。
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お父様の聖和前後で、どのようなことが起こり、あなたにとって、はっきりとしたことは何でしょうか
世界中のメンバーは、30-40年も信仰暦があったとしても、そのほとんどは、真の御父母様、お父様とお母様を、個人的に、近くで見たり、公式でない、カメラがないときの、お二人の関係を身近に経験する機会は、ほとんどありません.
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2011-2012年、訓読会でのお父様とお母様の引っぱり合いの闘い
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私は、2011年と2012年に、お父様がヨーロッパに行かれたときに、いくつかの経験をしました。私は、お父様の訓読会、イベントの公式の通訳として、同行していました。
私は、毎日の朝の訓読会やイベントにおいて、韓国語から英語への同時通訳をしていました。
そこで、私は、途中で、お母様が立ち上がり、出て行かれるのを、毎日のように見ました。
お母様は、お父様が、お話を早く終わられるのを望んでおられました。
お父様は、、、彼はアダムであり、毎日のように、このように言われるのをを聞かされていました。”聞きなさい、私の体は、行かなければならないときには、自ら体が起き上がるのがわかります。まだ、その時間ではない”
しかし、何度も、御父母様の、引き会う闘いが起こりました。
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ユングフラウ事件
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日程の最後の方で、お父様とお母様は、スイスのユングフラウに登る予定がたてられ、御父母様は、汽車で、ユングフラウに登っていくことになっていました。
その日も、お母様は、汽車に乗り遅れるのではないかと気にしておられました。そのときは、決められた時間に、汽車に乗らなければならなかったからです。
しかし、お父様は、抵抗され続けました。
お母様は、引っ張って早く行かせようとされましたが、お父様は、抵抗されました。お父様は、訓読会を、続けられ、お話をやめれれませんでした。
終に、お父様のお話が終わり、御父母様は行くことができ、駅に着かれたのですが、汽車に乗り遅れてしまいました
しかし、彼らが乗る予定だった汽車は、目的地までの途中で、壊れてしまい、その汽車に乗った乗客は、汽車に閉じ込められました。もちろん最終的には、何時かは、目的地にいったと思いますが、、
お父様が、この汽車が途中で、壊れたとのニュースを聞かれて、”これは証明だ!私は、言っただろう! 私の体は、いつ行かなくてならないのかと知っているのだ!
その日は、彼らは、ユングフラウには、行かれず、計画を変更して、ナーデルフォルに行かれました。それは、別の山です。
このように、私が見てきたものは、
お父様は、神霊が、お父様のなかで働いているという、ある信念と確信をもっておられました。
お母様は、それを、受け入れませんでした。お母様は、自らの、スケジュールをもたれていました。
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ナイジェリアでの行動
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ヨーロッパ ツアーの後の、ナイジェリアでのことです。2011年の7月、お父様は、ナイジェリアに行かれました。その最後の日のことです。
その日の日程は、朝5時から、訓読会をやり、そして、それは短いものが予定されていて、その後、空港に向かい、チャーターされていた、ジェット機にのり、ラスベガスに戻られる予定でした。もちろん、燃料補給のため、いくつかの場所、アイスランドとかに、寄っていくのですが、
そう、それはあくまで、予定でした! しかし、再び!!
お父様は、行くべき時間になっても、話つづけられます、、、訓読会は、続けられます。何時間も過ぎていきました。お母様は、非常に、あわてられました。
あきらかに、税関に行かなくてはならない時間に遅れて、税関がしまった後に着いたりして、一晩、飛行機の中で過ごさなくてはならなかった経験などがあるためなのか、とにかく、そのように、お母様には、彼女の理由があり、時間を守られようとされました。
お母様は、飛行機のなかで、一晩過ごさなくてはならなくなるような、不快なことを避けておられたのだと思います。
その時は、お母様は、いろんな、韓国人リーダーを使いながら、お父様を止められようとされました。しかし、お父様は、お話を止められません。
その後、お母様は、ステージから、席をはずされて、どこかにいかれました。私は、同時通訳をやっていて、お父様のお話に集中していました。そのため、私は、お母様が、何処へいかれたのか、わかりませんでした。
しばらくして、私の背後を、誰かが、突くのです。
私は、同時通訳の最中だったのですが、誰かが、私の背後を、突き続けるのです。それで、、
私が、振り返ると、それは、お母様でした。そして、お母様が、”あなたが、いって、お父様をステージからおろしなさい”と言われました。
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メシアをステージから降ろす役目ですか?
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そうです、お母様が、言われるのですから、私は、それをやるしかなかったのです。
だから、私は、目を閉じ、深呼吸をして、勇気をだし、お父様に向かって、こう言いました。 ”お父様!もう、いかなければならない時間です!”
そして、お父様は、私の方を向かれて、言われました!
”あなたは、あなたが私にしてほしいことができると考えているのか?”
もちろん、それで、お父様との会話は終わりです。
その時、お母様は、私の後ろにおられました。
今、考えれば、お父様は、私に語られたのでなく、お母様に語られたのだと思います。
お父様は、お母様がやってほしい事を、やられるつもりはありませんでした。
お父様は、神様からの使命を受けてなされていて、その国を救う為の使命をおびてなされているるのであり、また、その時、ある人々は、お父様は、ナイジェリアの政府高官が来るのを待たれておられたのだという話とか、私には、わかりませんでしたが、とにかく、お父様には、何かの理由があって、話しを続けられていたと思います。
結局、お父様は、11時か12時くらいまで話されました。予定よりも、何時間も過ぎていました。
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背中突かれ事件?にも、かかわらずですか?
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もちろん、あれは、何の影響もありませんでした。
お父様が、訓読会を終えられるのは、終る準備ができたときです。
お父様の体が、もう、行く時間だと告げたときなのです。
お父様の聖和後の報告
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お父様の聖和の後、清平パレスで、会議がありました。聖和のすぐあとです。
お母様は、セレモニーはどのようだったのか、良かったのか、どうだったか、評価のようなものです。
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それは、聖和式のことですか?
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そうです、9月3日から15日までの13日の及んだ、聖和式のことです。
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報告会のようなものですか?
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そうです。おそらく、150人から200人の人々が、部屋に集まりました。
お母様は、それぞれの人々に、聖和セレモニーの評価を、聞いていきました。
ほとんどの人々は、すごく、すばらしかったとか、良かったとか、良いことしか報告しませんでした。多くの国会議員がきたとか、有名な人たちがきたとか、何万人も、兄弟姉妹たちがきたとか、また、すべては、予定通り、順調に執り行われたとか、このような事でした。さらには、うまく、組織されていたとか、、
そして、みんなの報告が終わったあと、お母様は、みんな、もっとも重要な点を抜かしていると言われました。
お母様は、もっとも重要な点は、私の母親である、大母様が、清心平和ワールド センターを建てたことです。だから、私達は、清心平和ワールド センターで、お父様の聖和式をやれました。
そうでなければ、他の、どこかのホテルとか、どこかの会議場とか、を使わなければならなくなり、それでは、とても、みすぼらしい( SHABBY )ものになったでしょう。
お母様は、この SHABBY という言葉を使われました。
私が、受けた印象では、お母様にとって、SHABBY(みすぼらしい)とは、もっとも、恥ずかしいことなのだと、考えられているのだと感じました。
お母様が、このような、外的な面に、注視された事は、多くの人々を、驚かしました。
そのような意外な、お母様の言動に、多くのひとが、驚きを感じていました。
それは、そのような面が、他の多くの視点よりも、高い評価をされるとは、思ってはいなかったからです。
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2012年11月15日
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そして、2012年の11月15日、
お母様は、パレスで、個人的に、私に電話をしてこられました。
私は、お母様と、個人的なミーティングを 30分くらい、持ちました。
そのときの会話ですが、、、
まず第一に言えば、そのときの会話は、うまくいかなかったことです。
そのときの会話が、それからの、私の行く道をきめました。
そのときの、会話で、感じたことは、
お母様は、息子(亨進様)を、競争相手として見ておられたことです。
普通の母親が見る、誇りある息子としてでなく、競争相手として見ておられたことです。
お母様は、自分が権力を握るために、息子を、取りの除かねばならないと思われていたからです。それは、私には、非常に、ショッキングなことでした。
それに、また、お母様は、お父様に対して、尊敬を失う事になるような言動を、私に、させようとされた事です。それにも、私は、とても、ショックを受けました。
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それは、お父様に対して、反対するようなことですか、
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そのようなものです。
例えば、
私は、2009年に、韓国に来て依頼、統一教会の組織の腐敗や問題を、何年も見てきました。
そして、私は、お父様が、国進様を任命して、このような問題を解決されようとしました。
結果として、彼は、多くの、このような問題を取り除かれたのを、この3年半あまりの間、私自身見てきました、と話たのですが、それに対しての、お母様の反応は、
あなたは、2009年以前の、お父様が主管していた時は、たくさんの腐敗があったが、国進様にかわった後は、腐敗はなくなったと言う事ですね。
お母様は、私に、このような腐敗は、お父様の責任であり、お父様の間違い、失敗であるとい言わせようとされました。
それも、私を、驚かせました。
もちろん、私は、NO と言いました。もちろん、違います!そういうことでは、ありません、
腐敗や、失敗は、郭氏や、黄氏、尹正老氏達や、その他の教会を指揮していた人々、財団を指揮していた人々で、お父様から、信頼されていた人たちであると、
それは、本当に、目を開けさせられました。
お母様は、私を、そのような立場に、私に、そのようなことを、言わさせようとされました。
このとこは、私にとって、本当に、目を開けさせられたのです。
お父様を持ち上げるかわりに、、、
普通、私達は、お母様は、お父様を持ち上げるように導くのを、期待しますが、しかし、そのかわりに、お母様は、お父様を、蔑むように、導かれようとされたのです。
それは、私を、驚かせました。
私には、それは、正しくないと思いました。それは、正しくないと、
それは、2012年の11月で、私は、統一財団で、引き続き、働き続けましたが、国進様が、解雇されたのが、2013年の3月で、翌月、4月、財団を後にしました。
私は、フリーランスとして、自分で仕事を始めました。教会でないところで、約一年働きました。そして、その後、ここで(サンクチュアリー)で働くことを頼まれました。
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何か、結論は?
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争いは、カメラが無い時であり、私は、お母様が、お父様をコントロールされようとしたのだと思います。おそらく、お母様は、お父様を、
、
私が、気がついたことは、お母様は、お父様を、彼女の救い主として、受け入れていないのではないかということです。彼女の救い主として、
お母様は、決して、そのような、経験をしなかったのではないかと。
お母様以外の私達、みんなは、教会に来た時に、お父様が、私達の救い主であることを認め、受け入れました。しかし、お母様は、そのような経験はなかったようです。
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いつの日か、彼女は、人々が彼女を女神としてみるような考えに占められているのでしょうか
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私は、そのようなことは、予想してませんでした。
私は。いつも、お父様が、亡くなられた後、お母様は、お父様のレガシーを守り続け、お母様は、彼を高く持ち上げ、お父様の御言葉に従い、私達を勇気づけ、持ち上げられると、思っていました。
私は、決して、今、お母様がなされていることを、やられることは、予想していませんでした。
私が、見たものは、
お母様は、彼女が目指す目的のために、主管できる責任を持とうとされていたことです。そして、お母様は、お父様を、年老いた人のように、扱われていたことです。
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夜の神様と昼の神様が争い、
実体の神様と実体の神様の妻が争い、
聖和の日が早まってしまった。
2000年前のイエス様の教えが捻じ曲げられて
イエス様ばかりか、その母マリアまでも無原罪にカトリックはしてしまったように、
韓鶴子オモニはお父様ではなく自分こそが無原罪で生まれたとされ、
彼女を産んだ大母様を聖母マリア格にしようとした。
いつ?
お父様の聖和された儀式の最も重大な事は、お父様ではなく大母様であるかに語った。
真の父母様が一体化していれば、天運はナイジェリアに注がれたかもしれない。
ナイジェリアの苦難は続いている。
韓鶴子オモニはお父様に三行半を突きつけて離婚していたのだ。
ナイジェリアで殉教した宣教師の最期 「アメイジング・グレイス」を歌った後に : 国際 : クリスチャントゥデイ より引用
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イアン・スクエアさん(写真:スクエアさんのリンクトインより)
ナイジェリアで英国人宣教師4人が拉致され、3人が解放、1人が殺害された事件で、英国に帰国した3人のうち夫婦である2人が英デイリー・テレグラフ紙(英語)の取材に応じ、殉教したイアン・スクエアさん(57)の最期について語った。夫妻によると、スクエアさんは人質となった他の宣教師を励まそうと、「アメイジング・グレイス」をギターで演奏したが、その直後に銃殺されたという。
スクエアさんら4人は10月13日、ナイジェリア南部デルタ州の農村部で医療品を無償配布していたところを、武装した複数の男たちに拉致された。救出されたのは、デービッド・ドノバンさんと妻のシャーリーさん、アランナ・カーソンさんの3人。「イアンは信仰とユーモアと音楽と発明の人でした」と、デービッドさんは同紙に語った。
3人は銃を向けられながら連行され、解放されるまでの約3週間、沼地にある竹製の小屋で拘束されていた。医療宣教師として活動していたことを訴えたが、拉致した男らは取り合わなかったという。3人によると、実行犯らは「エグベス・ボーイズ」と呼ばれるカルト集団に所属していたという。エグベスは、デルタ州のイジャー族に伝わる古代の戦いの神の名に由来している。
竹製の小屋に入れられた後、スクエアさんのアコースティックギターを含め、所持品の一部が返却された。そしてスクエアさんは、楽譜なしで演奏できる唯一の曲だった「アメイジング・グレイス」を弾き語りし、とらわれの身となった他の宣教師たちを精神的に励まそうとした。
「彼の歌は完璧でした。またその時点では、状況はそれほど悪くはないように思えました」とデービッドさん。スクエアさんの歌により、他の3人は福音を伝える召しに忠実であろうとする決意を思い起こすことができたという。
「しかし、演奏を終えたイアンが立ち上がると、銃が連射され、イアンは一瞬のうちに殺されました。誰が銃を撃ったのかは見えませんでしたが、拉致集団の中の誰かが彼を撃ったことは明らかです」
「私たちは、次は自分たちのところに彼らが来ると思ったので、小屋から飛び出して水の中に飛び込みました。しかし、拉致集団のメンバーが来て、私たちを連れ戻し、イアンと一緒に小屋に入れました」
拉致犯がスクエアさんを殺した理由は、不明のままだ。デービッドさんは、男たちが麻薬やアルコール中毒のために妄想や恐れに駆られ、音楽の影響で無意識のうちに銃撃したのかもしれないと推測している。
デービッドさんとシャーリーさんはインタビューの中で、快適な生活から離れ、宣教師になった理由についても語った。かつて、デービッドさんは医師、シャーリーさんは教師として働いていた。
「私たちは良い仕事に恵まれ、2人の息子たちは私立の学校に行っていました。ケンブリッジには大きな家があって、望むものはすべて手にできました。しかし私たちは、自分たちがその生活に満足していないこと、また福音に真実であるためには、人生を変えなければならないことに気付いたのです」
夫妻は2003年、家を売却することを決め、子どもたちを公立学校に転校させ、医療慈善団体「ニュー・ファンデーションズ」を立ち上げた。
「子どもたちは、とにかく学校を変わりたがっていたので問題ありませんでしたが、私たちの友人は、私たちが完全におかしくなってしまったと思っていました」
その後、夫妻は、デルタ州の牧師から現地では乳幼児の死亡率が高いことを聞き、危険を覚悟でその地へ行くことを決めた。
2人は、エネコロガと呼ばれるデルタ州の貧しい地区に診療所を開設し、長年にわたって現地人の医療訓練に取り組んだ。こうした活動により、現地の住民とも良好な関係を築くことができた。
エグベス・ボーイズがカルトだという話について、夫妻は拉致される前には聞いていなかったという。しかし、イジャー族の武装勢力は、銃弾から自分たちを守ると信じられている恐ろしい儀式を行うことで、地域の住民から恐れられていた。
シャーリーさんによると、拘束されていた間に聖書からある知恵を得て、夫妻は診療所で働いている多くの人たちも貧しい環境で生活していることを、拉致犯たちに話そうと努めた。
「最初、彼らは黙っていましたが、最後には彼らのうちの2人が、聖書の教えを知りたがるようになりました」とデービッドさん。デービッドさんは、自身を拉致した男たちに医学的な支援も行ったという。シャーリーさんは次のように付け加えた。
「私たちは、診療所で働いているエルサレムさんという人の話をしました。彼は問題のある人でしたが、クリスチャンになって人柄が変わりました。彼は(眼鏡技師であった)イアンから訓練を受け、眼鏡のレンズ屈折の計算までできるようになりました。すると警備していた1人が『この話は、もうやめよう』と言いました。私が『どうして?』と言うと、『あなたの言葉が私の魂に語り掛けてくるから』と答えました。もしかしたらエルサレムさんは、彼らの仲間だったのかもしれません」
宣教師3人は、3週間にわたる極限的な状況を生き延び、同僚の死を目の当たりにしながらも、最終的には解放された。拉致犯からは、ナイジェリア政府が身代金を支払ったからだと言われたという。