原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神側が不正ではないが上手くいかないことを隠せば、サタンは政権を何か隠しているだろうと疑惑で打つことができる

www.youtube.com

 

 

 

あくまで憶測による疑惑であって、立証されたものではない。

八代弁護士が立証されてもいないのに疑惑疑惑で、ありもしないことに対して責任を追求するのはおかしいというように反論している。

 

www.youtube.com

 

 疑惑!

エデンの蛇は言った。

「本当に神様がそうおっしゃったのですか?」

 

さて、

人間はうまくいっていることは人に話したがるもの。

だが、うまくいっていないことは人にはあまり知られたくない。

これは誰もが経験していること。

 

どんなことだってうまくいくこともあれば、

そうでないこともある。

それが普通。

 

天のためにかくあれと期待して選択したことが

思いのほか前に進まない情況になって座礁するようなことになっても

それは悪なる動機でなされた不正とは違う。

それは不本意なことかもしれないが道義的に非難されることではない。

だが、これを明らかにせず隠すことによって

しだいに わたしの中に負債が積もってくる。

 

失楽園の物語では人は下部を隠した。

淫行を犯したからであった。

 

神側が不正ではないが上手くいっていないことを隠したり、

不本意にも効果的に使われなかったことを隠せば、

サタンは自分の「隠す」という本性をわれわれにの中に見つけたとして

讒訴条件を得ることになる。

その讒訴条件はゆるやかなものなので、

天意がどこにあるかという判断を中心者ができないように

少しづつ少しづつ「隠す」ようになり、

時間の経過とともに、結局のところ大きく軌道をそらすことに成功してしまう。

中心勢力の視野が阻まれた時

サタンは今度は政権の中心人物に対して

何かを隠しているだろうと

立証して裁くことができなくとも

ありもしない隠されている疑惑をふくらまして国民を扇動していくことができる。

 

わたしたちは正午定着の時代を生きている。

太陽が頭上に輝き、わずかな影すら生じない生活。

日々神は我が魂に訪れ、これではまだまだだと語られる。

厳しくおだやかに語ってくださる。

神は讃むべきかな!

 

神よ!

もし右手の中に捧げるものがあるならば

右手ばかりか左手をも握りしめますように。

もし左手の中に隠し事があるならば

どうか 左手ばかりか右の拳も開いて天にかざせますように。

 

 

 

 


にほんブログ村

 応援して下さる方は上のロゴをクリックして下さい。