原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

夜の神様で居続けるのがいやで昼の神様になることに希望をいだいた神様

創造以前の夜の神様は、自己完結していて自己充足しているような自己愛的神様だったのではないでしょうか?

自己愛的な神様。自分が好きで満足している神様。

 

創造以降の神様が動的な神様であるのに対して、創造以前の神様は静的な神様のイメージがします。

孤独を楽しむような、孤高を楽しむような神様の姿がそこにはあります。

 

修行僧や仙人のような人が山にこもって一人生活しているような感じでしょうか?

それにしても、彼らには自然という対象がありました。

花もあれば草木もあり、そこには鳥も空を飛んで、きれいな声でなくこともあるでしょう。 

神様が夜の神様としておられた時には、御自身以外はなんにもないような世界ではなかったでしょうか?

ご自分しか愛する対象がありません。

そこは沈黙の世界であり、もしかすれば絶対零度のように完全な世界だったかもしれません。

分かち合う愛の無い完璧な自己愛の世界。

ナルシズム。

そのような神様は、なかなか想像ができません。

 

ある時点から、神様は対象を求めるようになられるます。

人格的な神様の段階に進まれたのかと思います。

若い頃には「人格神」というと、四大聖人のように欠点のない円満な性格を思い浮かべましたが、そういうこともあるのでしょうが、年を経てみると、コミュニケーションをとって協働作業をなさることに喜びを感じるというような、相手の存在価値を認めながら相互交流するという意味での、人格的交流に重きを置く神様という方に関心が向かいました。

自分という主体の価値から、相手という対象の価値に注目する、神様の心情転換が起こったのではないかと思われます。

ところが相手がいません。

一人で満足していた神様に変化が起きて、対象を求めるようになったようです。

 

お父様はたしか希望の日フェスティバルで、「愛と理想と生命」は相手と分かち合うことを通してしか得ることができない、というようなことを話されていたかと思います。

神様においても、その3つを手に入れる時には、ひとりでは難しいということになります。

お父様は全能の神様の創造の創造の目的を、一人では売ることができない3つの内容をもって説明されました。

 

お父様はご自分が夜の神様に属すると言われますが、

一言で言えば、堕落と関係のない存在だということなのでしょう。

堕落と関係のない存在が、夜の世界からやって来て

昼の世界にも昼の神様として 生きることを願われるようになりました。

夜の神様が対象を愛し始められました。

愛の神になられました。

創造以前の夜の神様は愛を知りませんでした。

対象を持たなかったからです。

 

人類始祖の堕落は時間と空間のある世界で起こりました。

昼の世界は罪悪に満ちてしまいました。

神様が人と共に住まわれる理想は流れ去ってしまい、

神様は再び、創造以前のときのような孤独な環境に追いやられました。

 

その時は孤独と言っても、孤高を楽しむような世界だったかもしれませんが、

アダムとエバという対象を造り、愛し育てた後に

この愛する対象を失った神様は、創造以前の夜の神様のときとは違う孤独を味わうことになりました。

かっての御自身が望んでいた孤独な神様ではなく、 

望みもしないような、愛する対象を奪われて囲われの身として閉じ込められてしまった

囹圄の神様として生きていくことを強いられました。

もはや全能の神の威厳は根こそぎ剥ぎ取られてしまわれました。

 

夜の神様はお一人の神様。

お一人の神様がすべての世界でした。

夜の神様を求めれば、孤独な孤高の神様に出会うことでしょう。

ですが、そこには愛を知らなかった神様がおられるばかりです。

夜の神様は天地創造を始められて以来、愛と理想と命を味わうことができるようになっれました。

 

夜の神様に奥義を求めることは虚しいことです。

 

夜の神様は昼の神様である、アダムとエバが真の父母として完成するときを夢見ました。

天地が和動し得る、天地人真の父母としてアダムとエバが完成されるとき、

昼の神様が地上に現れ、夜の神様もそこに住まわれるはずでした。

ところが、堕落によって夜の神様と昼の神様が別れてしまいました。

堕落によって、夜だの昼だのと神様を区別しなければならなくなってしまいました。

 

夜の神様には、神の奥義のようなものがあるのではなく、

成長される以前の神様の姿があり、それは神様の原点ではありました。

自分を充分に愛する神様が、次に対象を愛する神様に成長されたように、

われわれ人間も幼子のときに、自分を充分愛することを満喫して、対象を愛する人格を形成していきます。

まさにそれは神様が歩まれてこられた道だからであり、

神様が人の父であるからなのでしょう。

 

創造以前の神様は愛を知りませんでした。

真の愛を知りませんでした。

ですが、神様は自己超越、自己超克されて愛の神として変身されました。

われわれもまた神の子女として、自己を越えて神の性禀を現さなければ、

父なる神様の面目は丸つぶれになってしまうことでしょう。

 


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