原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

家庭連合の韓鶴子オモニの無原罪性の主張は詭弁 家庭連合はの異端の組織となることを決断した!

 独生子や独生女とは、それぞれ堕落と関係のない創造本然の神の息子と、堕落と関係のない創造本然のエバを表す言葉である。

罪という観点から言えば、無原罪の息子と娘ということになる。

その意味から、このカップルは結ばれて真の父母となるのである。

以下に家庭連合の例によって迂遠でまどろっこしいサンクチュアリ批判を引用し、紫の文章で批判したいと思う。

  

http://trueparents.jp/?page_id=2588 より引用。

2015年10月30日掲載の「真のお母様の『無原罪性』-『血統転換、私は母胎からなのです』の意味について」の補足説明④
神様の救援摂理史に現れる「独生子」「独生女」の復帰過程

(文責:教会成長研究院)

 

(1)「独生子」の復帰過程に類似する「独生女」の復帰過程

 神様の救援摂理史において展開される「独生子」(独り子)の復帰、および「独生女」(独り娘)の復帰について理解を深めるには、まず「独生子」「独生女」とは何かについて、その意味を明確にしておかなければなりません。
 真のお父様は、次のように語っておられます。

 エデンの園のアダムは、神様の独り子(独生子)です。エバは、神様の独り娘(独生女)です」(『真の父母經』31ページ)

 ここで語られているように、独生子(独り子)とは、エデンの園にいたアダムのことであり、独生女(独り娘)とは、エデンの園にいたエバのことを言います。すなわち、人類を代表する“人間始祖”の立場である神様の長男(長子)、および長女をそれぞれ「独生子」「独生女」と呼ぶのです。

 真のお父様は、「本来、アダムとエバは何ですか。神様の長男、長女です」(八大教材・教本『天聖經』925ページ)と語っておられます。
 それゆえ、真のお父様は、「アダムとエバを失ってしまうと、その二人でとどまるのではありません。アダムとエバを失ってしまったということは、アダムとエバの一族(全人類)を失ってしまったことになるのです。……天の国の家庭を失ってしまったのです。天の国の男性と女性、独り子(独生子)と独り娘(独生女)を失ってしまったのです。ですから、救いの歴史である復帰摂理歴史は、これ(独生子、独生女)を取り戻す歴史です」(『真の父母經』26ページ)と語っておられます。

 結局、「独生子」「独生女」とは、本来“人間始祖の立場”に立つ長男と長女、すなわちアダムとエバのことを言うのです。その“人間始祖の立場”に立つ「独生子」「独生女」、すなわち“神様の血統の出発点”に立つ彼らが成長し完成するならば、彼らこそがたった一組しかいない人類の「真の父母」になるということです。
 現在においては、文鮮明先生、韓鶴子夫人こそが人間始祖の立場に立たれ、永遠に唯一なる人類の「真の父母」となっておられます。

 さて、再臨時代において現れる「独生女」に対する3度にわたる復帰過程をどのように理解すべきでしょうか。現在、勝利された唯一なる「真の母」として、韓鶴子夫人が立っておられます。韓鶴子夫人こそが、永遠に唯一なる「真の母」です。

 その「真の母」が現れるまで、結果的に3度の摂理過程が生じましたが、第1の崔先吉女史や第2の金明煕女史も、実は「独生女」として生まれておられ、その使命を全うするなら、勝利した「独生女」になるように神様によって予定されていたのです。しかし、お二人ともその使命を途中で挫折することで、現在では「独生女」ではなくなっています。
 この再臨時代に現れた「独生女」の復帰過程は、「独生子」を復帰するための救援摂理史に現れた復帰過程と類似しているのです。これは「予定論」の問題になります。

韓鶴子オモニを擁護するために、崔先吉女史や金明煕女史も無原罪にしてしまったということである。こんなことを言って霊界でお父様に本当に褒められるとでも思っているのだろうか?地獄行きだ。自分だけならともかく10万なら10万の日本人信徒を地獄の道づれにする罪は極めて大きい。

 第一の崔先吉女史について、真のお父様は「1960年代に祝福結婚がなされました。キリスト教が支えていたならば、今のお母様がお母様ではありません。聖進君のお母さんがお母様になっていたのです。……北朝鮮から来た群れが、(韓景職牧師の)永楽教会を中心として統一教会に反対したのです」(『主要儀式と宣布式Ⅳ』332ページ)と語っておられます。

 もし、戦後の韓国キリスト教が、再臨主を支える基盤になることができていたなら、復帰摂理はスムーズに運ばれていたのです。しかし、キリスト教が摂理的基盤にならなかったために、お父様は神様の啓示に従って北朝鮮へ行かれ、金百文牧師に代わる弟子である金元弼氏を連れて、再び南に帰って来なければなりませんでした。

 しかし帰ってきた後、ご自分の家族よりも、より遠い立場の“カインの子女”である弟子たちを愛し尽くして牧会される真のお父様に対して、崔先吉女史は理解することができずに批判的になり、やがて、1953年9月17日、真のお父様がソウルへ引っ越しされて以降は、崔女史はお父様に従わず、再臨主に侍る「真の母」の位置を離れることによって、その使命を挫折してしまったのです。

 

(2)「聖婚式」の挙行には、三弟子の基盤が必要

 本来、人間始祖の堕落がなければ、アダムとエバの「結婚式」は、エデンの園において神様が主礼をされ、三天使長が立ち会うなかで挙行されるべきはずのものでした。
 それを蕩減復帰するには、三天使長に当たる洗礼ヨハネをはじめとする「三弟子」を復帰した基台が必要です。真のお父様は、崔先吉女史と1943年12月に「約婚」をされ、1944年5月4日に、李浩彬牧師が主礼を務める中で「結婚式」を挙げられました。しかし、キリスト教が再臨主を支える基盤になることができなかったため、結果的に「三弟子」が立たず、神様が主礼をされる「聖婚式」を挙げるまでの勝利基準に至りませんでした。

 真のお父様は、その失敗を蕩減する道を開拓されるなか、金明煕女史を経て、真のお母様・韓鶴子夫人の3度目に至って、やっと三弟子の基台を立てられたうえでの「聖婚式」を挙行することができたのです。このような復帰過程は、救援摂理史において展開されてきた「独生子」(独り子)の復帰過程と類似する側面があります。

 神様の救援摂理史において展開された「独生子」の復帰過程は、結果的に3度の摂理が展開され、やっと再臨主の3度目に至って勝利することができました。実は、「独生女」の復帰過程も、これと同様のことが言えるのです。

6000年前のアダムから2000年前のイエス様、そして現代の文鮮明先生に延長された「独生子」の摂理と、同時代に立てられた「独生女」の三次に渡る使命の延長は、本質的に同様な意味を持つものではなく単に3度延長したという類似性にすぎない。拡大解釈して、三次のアダムがすべて無原罪であったように、崔先吉女史と金明煕女史と韓鶴子女史が皆無原罪であるということを主張する根拠とはなり得ない。意図的に誘導しているような文章である。

 エデンの園のアダム(第1アダム)は、神様の「独生子」(独り子)として予定されて、エデンの園に生まれました。しかしながら、アダムは堕落することで「独生子」ではなくなったのです。
 このことについて、真のお父様は、「独り子(独生子)とは、アダムのことです。堕落したので、独り子がいなくなり、独り娘がいなくなったというのです」(『真の父母經』35ページ)と語っておられます。

 そのアダムの失敗を蕩減復帰するために、イエス様は第2アダムとして来られました。イエス様は、第2アダムとしてお生まれになったがゆえに「独生子」です。しかし、イエス様は「独生女」を探し出すことができずに、その「独生子」の使命を地上において果たすことができないまま、十字架で亡くなられました。

 真のお父様は、「イエス様は、『私は神様の独り子だ』と言いました。独り子に必要なのは、独り娘です。イエス様がこの地上で世界を救うために出発しようとすれば、<u一人ではできません< u="">。家庭の土台を整えなければなりません」(同、31ページ)と語っておられます。

 また、「イエス様は『再び来る!』と言われました。神様は、4000年ぶりに独り子を探して立てましたが、独り娘は探し立てられなかったのです。神様がアダムとエバを創造したように、独り子がいれば、独り娘もいなければなりません(同、33ページ)と語っておられます。

 さらには、「イエス様は、使命を完結することができませんでした。……イエス様が独り子だと語ったので、神様は彼のために独り娘も送られたでしょう。神様の2000年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です。エス様は、真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がないので、神様のみ旨を成し遂げることができませんでした。ですから、2000年のキリスト教の歴史は、娘(独生女)を求めるための歴史です(同、69ページ)とも語っておられます。

これは普通に読めば、ユダヤ教4000年の歴史が第一義的には真の息子を求めてきた歴史ではあるが、真の息子が来たとしても、男性だけで真の娘がいなければ、三大祝福成就という神の御旨を成し遂げることができない。そこで第二義的には、アダムが祝福結婚する相手である真の娘を求めてきた歴史だということもできるという意味である。エバが全般的復帰摂理の中心人物になれる原理はない。エバの責任分担上における中心でしかない。

 それゆえ、イエス様が果たせなかった使命を代わりに果たすために、第3アダムである真のお父様が「独生子」として、三度目に地上に遣わされたのです。再臨主も、エデンの園のアダム、さらにイエス様と同じく「独生子」としてお生まれになりました。
 真のお父様は、結果的に新婦(独生女)である韓鶴子夫人を探して立てられ、人類の「真の父母」となられたので、神様の長男、すなわち人間始祖である「独生子」としての使命を果たされ、完全に勝利された「唯一の独生子」となられました。

 それゆえ(クリスチャンは躓くかもしれませんが…)、イエス様は「独生子」としてお生まれになられましたが、結果的に実体の「真の父母」となることができなかったため(ただし、十字架と復活の後、「霊的真の父母」になられました)、今現在は「独生子」でなくなっているのです。独生子とは、人間始祖である「長男」を意味します。したがって、その方は、たった独りだけの存在なのです。
 再臨時代において、真のお父様は、イエス様が立てられなかった「真の母」を探し立てられたがゆえに、文鮮明先生ご夫妻こそが唯一の人類の「真の父母」になっています。そして、イエス様は、人類の「真の父母」から祝福を受けて、その“子女の立場”に立つことで(イエス様は人間始祖の人物として予定されてはいましたが…)、今では、真の父母様の“子女の立場”になられることで、真のお父様こそが唯一の「独生子」となっておられるのです。

 

(3)「真の母」を立てるための三度にわたる摂理

 「独生女」の場合も「独生子」と同様に、3人までで勝利できるように複数の女性が「独生女(独り娘)」になるよう、神様によって予定されてお生まれになっています。

 ところで、神様によって予定されてお生まれになる「独生女」は、誰でもがなれる女性ではありません。その女性は、まずアダムの近しいところに準備され、お生まれになります。
 アダムの“あばら骨”からエバを神様がお造りになったように、エバは兄弟姉妹として、アダムとごく近しい関係にありました。

 それと同様に、エス様の場合も、親族であるザカリヤ家庭の洗礼ヨハネの妹が「独生女」として準備され、生まれていました。しかし、その洗礼ヨハネの妹が難しくなった場合は、イエス様と近しい関係にある“同郷”の女性が「第2の母」として準備されていたものと言えます。
 真のお父様の場合、第1の崔先吉女史、および韓鶴子夫人の実母であられる洪順愛・大母様は、お父様と同じ定州の出身者であり、また、第2の金明煕女史も定州に近い朔州の出身者であり、いずれも近しいところに準備されています。(しかも、第1の方の実母は「韓家」出身です。)

洗礼ヨハネの妹は、家庭連合が言うような無原罪の女性としては生まれて来た証拠は見当たらない。「独生女」として準備され、生まれてはいないのである。

堕落の時の逆の経路で蕩減復帰はなされる。イエス様の場合は、エデンにおいてアダムの婚約期にあったエバを天使長ルーシェルが奪って堕落させた。これを元返していくために、天使長的使命を持ったヨセフから婚約期にマリアを神の愛するザカリアが奪い返すことによって身ごもって生まれたので、イエス様は無原罪となった。

だが、洗礼ヨハネの妹は根本的に違う。血統転換の公式を経ていない。したがって無原罪で生まれたとは決して言うことができない。神のために死線を越えて聖霊によって身ごもったマリアと、エリサベツでは天地の差がある。したがって、イエス様の相対として洗礼ヨハネの妹がマリアではなくエリサベツから生まれたのであれば原罪を持っていることになる。家庭連合の理屈はこじつけとしか思えないのである。

  さらに、「独生女」は、アダムの近しいところに準備されるというだけではなく、血統的に見ても、サタンの讒訴のない血統であるというのです。真のお父様は、次のように語っておられます。

「サタンの讒訴のない血統」というのが、前回のブログでお話しした、正妻と妾の逆転摂理によって勝利した血統なのである。

家庭連合が言うように夫婦関係では「血統」は繋がらないが、韓鶴子オモニはお父様と復帰されたエバ崔元福によって生み返され原罪を精算された - 原理講論を読む

 「再臨主は何をしに来られるのでしょうか。再臨時代は完成基準の時代であるために、再臨主は人類の母を探しに来られるのです。すなわち、新婦を探しに来られるのです。新郎であられる主がこの地上で探される新婦は、堕落圏内で探す新婦ではありません。堕落していない純粋な血統をもって生まれた方を探すのです」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』909ページ)
 このように、「堕落圏内で探す新婦ではない」「堕落していない純粋な血統をもって生まれた方を探す」と語っておられるように、堕落圏内にいない、そのような女性であるというのです。韓鶴子夫人も、そのような純粋な血統圏に生まれられた「独生女」であるということです。
 そのようにしてお生まれになった「独生女」ですが、その中から神様の長女、すなわち人間始祖の立場である唯一の「独生女」が現れたなら、それ以外の女性は、たとえ神様に予定されて生まれていたとしても「独生女」(独り娘)ではなくなるのです。これは、「独生子」として生まれていたアダム、およびイエス様が、現在では「独生子」ではなくなっていることと同じことなのです。

 事実、使命を途中で挫折され、「真の母」の使命者としての位置を離れて勝利することができなかった崔先吉女史、金明煕女史は、その後、勝利された真の父母様(文鮮明先生、韓鶴子夫人)から「祝福」を受けることで、真の父母様と“父子の関係”を結んでおり、その子女の立場に立っておられます。そのことによって、お二人は、「独生女」ではなくなっているのです。
 したがって、今現在においては、永遠に「人類の真の父母様」は、文鮮明先生と韓鶴子夫人の一組だけになっています。

 ここで、知らなければならないのは、「独生女」が「独生子」の場合と異なっている点があることについてです。

 「独生女」の場合は、「独生子」によって3度目までは、何度でも探し立てて再創造していくことができるという点に、その違いがあるのです。
 真のお父様は、「アダムが堕落していなければ、エバはいくらでもつくることができたのです」(「ファミリー」1999年11月号、17ページ)と語っておられますが、これはエデンの園において、アダムの“あばら骨”からエバが造られたという原理から来ていることです。
 それゆえ、第1アダムの時にも、たとえエバが霊的堕落をしたとしても、アダムが堕落しなければ、アダムがそのエバを“エデンの園”の中において「再創造」していくことができるというのです。

「アダムが堕落していなければ、エバはいくらでもつくることができたのです」とは、「アダムが堕落していたら、エバはつくれない」ということである。つまり、もともと原罪のないエバが、アダムの堕落しているしていないに関わらず何人もいた、というのではないということを語っているのである。

エバはアダムの堕落するしないに関係して、つくられたりつくられなかったりするというのである。つくるとはエバの再創造であり、教育である。お父様がお母様を教育してきたと度々言われてきた所以である。

 また、第2アダムの時も、洗礼ヨハネの妹が難しくなったとしても、「第2の母」とも言える代わりの女性(独生女)を探して立てて、エバを「再創造」していくことができるのです。
 洗礼ヨハネの不信によって、その妹が難しくなりましたが、真のお父様が「イエス様は約婚式を行っただけで、結婚式ができませんでした」(「ファミリー」1991年12月号、33ページ)と語っておられるように、イエス様はその代わりの女性を立てられ、約婚の段階にまで至っておられました。

家庭連合は、原罪がないとするお母様が何故「再創造」されないといけないのと言うのか?再創造の「再」とは、堕落や原罪を前提とする言葉である。

 そして、第3アダムである真のお父様の場合も、神様に予定されて生まれている第1の崔先吉女史が難しくなったならば、第2の金明煕女史を代わりに探して立てられ、そのかたも難しくなった場合には、第3のかたを探して立てられ(注:3度以上の延長摂理はありませんので、この3度目の独生女こそが神様の準備された最終的な「切り札」的存在であり、この女性なら絶対に失敗しないという基準で準備されていた独生女)、その勝利された「独生女」が、唯一の人類の「真の母」として勝利していかれたということになるのです。

「この3度目の独生女こそが神様の準備された最終的な「切り札」的存在であり、この女性なら絶対に失敗しないという基準で準備されていた独生女と言うのは、願望としては同意するが、人間に責任分担がある以上は、残念ながら失敗もありうるのである。

 ちなみに、ここで間違ってならないのは、「エバはアダムから造られた」という意味についてです。この「エバはアダムから造られた」というのは、「相対理想絶対圏」のことを語っているのであって、決して、アダムがエバを生んだわけではないという点を理解しておかなければなりません。「相対理想絶対圏」とは、アダムにとって絶対になくてはならない「相対」としてエバが創造されたことを表現する概念です。
 そのことを、聖書は、「神は人(アダム)から取ったあばら骨でひとりの女(エバ)を造り」(創世記2章22節)と象徴的に記しています。聖書に書かれてあるように、アダムもエバも、共に神様が創造した人間であって、決してアダムがエバを生んだわけではないという事実を明確にしておかなければなりません。

難しい聞きなれない言葉「相対理想絶対圏」を使うね。「エバはアダムから造られた」ということで重要なのは、アダムは主体格で、エバは対象格であるということである。

神は性相的男性格主体で被造世界は形状的女性格対象。天の父、母なる大地。さらに、無形実体世界は有形実体世界に対して性相的男性格主体で有形実体世界は形状的女性格対象。無形実体世界が先に造られ、そこから有形実体世界が造られた。この内容と関係性を代表している人間がアダムとエバ。主体と対象という格位が厳然として存在して、且つ愛によって統一しているのが創造本然の世界。この格位性が天倫の秩序をもたらしているので、アダムとエバを同格とすれば、天地が崩壊する。家庭連合の韓鶴子オモニや誉進様の神学や善進様の思想は店の秩序の破壊行為である。

誉進様の間違いは、われわれ人間が求める平等を格位の平等、すなわち対等に求めるところであるが、実際には格位における平等ではなく、愛における平等こそが本心の求めるところである。確かにわれわれ男性には、イエス様やお父様のような真の愛が体恤されておらず、天使長的主管で女性を蹂躙する堕落性が克服されていないことは、強烈に反省するべきである。だが、女性は主体的対象となることはあっても、男性を主管する主体格位には立つことができない。特に三代の伝統を築くまでは、エバが主管性転倒をして罪悪歴史をつくってしまったことを蕩減復帰しなければならない。

 真のお父様は、「血統は、父母が子女だけに与え得る特権中の特権です」(『平和神經』39ページ)と語っておられますが、血統とは“親子関係”によって初めて相続させていくことができるものです。アダムが、エバを生んだわけでもないのに、どのようにしてアダムがもっている血統を、エバに相続させることができるでしょうか。それは不可能です。

血統は、父母が子女だけに与え得る特権中の特権です」とは、血統とは父が母を媒介として与えうる特権中の特権です」という意味である。

 真のお父様は、「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません(『訪韓修練会御言集』12ページ)と語っておられますが、アダムとエバの関係は横的関係であるために、アダムがもつ血統を、夫婦関係によってエバに相続させることはできません。
 また、アダムとエバの関係は、アダムがエバを生むという“親子関係”ではないため、アダムは、エバにその血統を連結させられません。血統を考えるときに、重要な点は“親子関係”という点にあります。

「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません

そこで、復帰摂理は神の精子を聖別して復帰するべく、中心人物の男性を導いてきたのである。父から息子に伝えられてきた。それはとんでもないほど難しい道であった。ところが、家庭連合は、女性が原罪を精算するのはいとも簡単に、しかもあのひともこのひともと3人もが同時期に無原罪で生まれていたのだというのだから、神様もさぞ驚かれて腰を抜かされたことだろう。いったい復帰摂理の難しさや苦労とは何だったのだろうか?

教会成長研究院の奴らは、統一原理を破壊する悪魔である!

 『原理講論』に「神は、人間を子女として創造され、被造世界に対する主管権を賦与された」(107ページ)と明記されているように、アダムもエバも共に、神様によって創造されたとき、すでに神様の長男、長女として、神様との“親子関係”によって、それぞれが生まれたときから神様の血統をもっていたのです。

 すなわち、最初に引用した御言に、エデンの園のアダムは、神様の独り子(独生子)です。エバは、神様の独り娘(独生女)です」(『真の父母經』31ページ)とある通りなのです。
 したがって、復帰摂理の過程のなかで現れるにおいても、「独生子」と「独生女」とは、それぞれが生まれたときからすでに神様の血統をもっておられたのです。
 しかし、崔先吉女史と金明煕女史は、真の父母様から「祝福」を受け、その“子女の立場”になることで、今では「独生女」ではなくなっているのです。

家庭連合は、「独生女」の二つの意味を巧みに使い分けて詭弁を構築しているのである。ある時は「独生女」を無原罪という意味で使い、ある時は真のエバという意味で使い分けている。ここでは、真のエバではなくなったという意味で使われている。

大母様は再臨主を迎えるために、腹中教にいたころ三歳のお母様を連れて準備していたのであった。大母様はご自分の娘がまさか無原罪の独生女だとは、聖和されるまで気づかなかったようだ。どうしてなのであろうか?

それは正しい信仰者であられたからである。

教会成長研究院のような詐欺師ではなかったからである。


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