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日常生活の中で 考える糸口を求めて

聖霊体験と重生について 3 ラウレンシオ修士の神の現存の体験

 

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 エス様はニコデモに対して、「あなたが生まれ変わらなければ、天国に入ることができない」と言われました。今まで生きてきた私は、いずれにせよ歴史的に否定されなければなりません。どんなに「良くやった」と弁解し、自ら立てた何かがあるとしても、私自体は、否定されなければなりません。堕落人間であるがゆえに、そのような圏内を抜け出すことができないのです。否定されるべき生涯であり、否定されるべき生活であり、否定されるべき屍(しかばね)の人生であったというのです。(6-278,1959.67)

天聖経 祝福家庭 第1章 真の父母と祝福 2)

真の父母と重生と血統転換 ➁重生摂理の核心

 

 

エス様はニコデモに対して、「あなたが生まれ変わらなければ、天国に入ることができない」と言われました。

重生されなければならない。それも徹底して過去の自分を否定しきらなければならないというのです。過去の自分が残ったままで接ぎ木しても、新しい命が宿り重生されたことにはなりません。

すべての宗教が自己否定を求めるのには意味があるというのです。

 

カルメル会の修道士、ご復活のラウレンシオ修士は、彼に初めて会った人にこう言ったという。

 

 まだ世間にいた18歳のころ、改心に際して、神は特異な恩寵を彼に賜わった。それは冬のある日、すっかり落葉した一本の木を眺め、しばらくたてば、この木にもふたたび葉がもえい出で、花が咲き実がなるということを考えているうち、神の摂理の機能についての高度の悟りの賜を受け、それは、もはや霊魂から、消え去ることがなかった。

 

エス様がニコデモに重生の必要性をとき、また

「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきである」と語ったように、

そして真の父文鮮明恵父が

否定されるべき生涯であり、否定されるべき生活であり、否定されるべき屍(しかばね)の人生であった

と教示されたように

ラウレンシオ修士も「すっかり落葉した一本の木」を眺めながら、天啓を受けたのです。

徹底した神以外のものを削ぎ落とさなければ永遠の命がわたしの内に宿ることは決してできないと彼は確信し、生涯をこの神に与えられた賜とともに生き、臨終に際して、

「ああ、もし、私の心が神を愛さないことがわかったら、私は即座にこれをえぐりすてよう」と言いました。

 

 

さて、私があなたに申し上げられることは、次のとおりです。

 いくつかの書物の中で、神にいくための様々の方法、霊的生活のいろいろの修行を見ましたが、それは、私が望み求めていたこと、すなわち、まったく神のものとなる道を、容易にするよりは、むしろ私の精神を混乱させるに役立つものだと思われました。そこで私は、すべてにたいしてすべてを与えようと決心しました。こうして、自分の罪の償いとして、神に自己をことごとく犠牲として捧げた後、私は神の愛のため、神ではないいっさいを捨て去り、この世には、神と私しかいないかのように生活し始めました。

 

神の臨在、現存を体験するには、この世には、神と私しかいないかのように生活」

を実践することが重要だと指摘していることは、特にわたしの心には響きました。

神こそはすべてであるとするならば、そのような意識になることは当然のように思われたからです。

彼は霊的修業においてもっとも重要なことは、神の現存の体験だと言い切っています。

神の現存とは、私たちの精神を神に集中すること、あるいは現存する神を思い起こすことであって、それは想像あるいは、悟性をもってするのだといいます。

さて、この修行にとりかかろうとする者には、例えば次のような言葉を内的にして、自分が被造物の方に戻ることなく、神のみに、神とともに、留まるようにするといいと言います。

 

「我が神よ、私はまったく御身のものです」

「愛の神よ、御身を心を尽くして愛します』

「主よ、御心のままに私になし給え」

 

単なる心の表現ではない。それは霊魂をして、神を愛し、礼拝し、名伏し難い愛情をこめて、これを抱くよう迫る静かな、平和な、霊的な、尊敬に満ちた、謙遜な、愛深い、きわめて単純な何ものかであって、ただ体験のみが私たちにそれを了解させることができる。

 

形状的なやり方ではなく、手段であるというよりも、それ自体が目的であるかのような心情によって発せられる言葉が願われているのです。

 

 このように、日に何千回となく、すべての被造物を離れ、自分の内部に退いて、神を礼拝する以上に神の御心にかなうことがあり得ようか? それに、これは自愛心を砕くことにもなる。自愛心というものは、被造物のあいだにおいてしか存続し得ないもので、このように、内的に神のほうにたびたび向かうことは、知らず知らずのうちに、私たちをそれらから解放させる。

 最後に、私たちは造物主を、しばしば楽しむために、被造物を何千回となく放棄し、軽んじる以上に、私たちの忠実の大きな証明を、神に捧げることはできない。

 それだからといって、私はあなた方に、外的な事がらを全部捨て去るよう強いる意図は毛頭ない、それは不可能である。

諸徳の母である賢明が、あなた方の則(のり)となるべきである。しかし私は言う、自分の内部において、神を礼拝し、その現存をしばし平安の中に楽しむため、時おり、外的な事がらを離れ去ることをしないことは、霊的な人々の中に通常見うけられる誤りである。

 

自愛心というのは、我々で言う「肉心」のことでしょう。

結局のところ、我々の意志の求めるところは二つしかない。

神か、それ以外かです。

本質である神をとるのか、現象である内的な思いわずらいや身体や生活環境に現れる被造世界にとらわれるのかです。

それは一日中何千回も御父を求める修行の実践によってもたらされるという、人間の5%を抜きにしては考えられなうい世界です。

この世のあらゆることも、この道の信仰も努力如何にかかっているということでしょう。

以下からに二つの引用をします。

「沈黙を破って」より先に語られた新年挨拶 「神様の賜物」|この道どの道

 

とにかく皆さん、今まで多くの内容がありますが、本当に感謝しています。お父様が霊界で私たちを見守り驚くべき聖霊の役事をされ、熱い炎で示してくださって、私たちの人生は最初から最後まで、皆さんすべてが、特に女性!特に男性!お父様を高めれば高めるほど、祝福を受けることになるでしょう。お父様を讃えれば讃えるほど、アボジアボジアボジ!讃えれば讃えるほど、お父様は、熱い聖霊の役事を見せてくださると確信しています(アジュ)

私たちは爆発的な胸が張り裂けるような心情世界でアボジアボジアボジ!真の父母様億万歳!億万歳の涙を流しながらお父様の驚くべき霊界の役事を見れることを信じます。(アジュ)

 

亨進様の体験から確信された世界もそうでした。

 

皆さん!私たちは神の炎の中に住まなければ生きていけません。全く同じです。このような冷たい世の中に生きる理由がありません。聖霊の熱い炎と生きておられるお父様の炎の中に生きていなければ、乾いて死にます。エス様もそう言われました。私は命のパンであり生命の泉である。主がいなければ、(私たちは)何でもありません。地位と権力とお金がいくらあっても何もないのです。

 

ラウレンシオ修士は我々にこう説明する。

 

 私たちがなすこと、言うこと、企てることのいっさいにおいて、常に神とその光栄とを目当てとすること、私たちが達成しようと望む目的は、私たちが永遠を通じてそうありたいと希望している完全な礼拝者に、すでにこの世においてなることでなければならない。霊的生活において遭遇するあらゆる困難に、神の恩寵の助けをもって打ち克とうという堅い決心をすること。

 

 私たちが霊的生活を営もうとする時、まず自分が何者であるかを徹底的に省察しなければならない。そうすれば、私たちは自分があらゆる侮辱にふさわしく、キリスト信者の名に価せず、私たちの心を乱し、健康、気分、内的外的傾向を変わりやすくさせるいろいろの惨めさや、数しれない事故に陥る可能性をもち、また神が、内部においても外部においても、数限りない苦悩、苦労によって、私たちをへりくだらせようと望まれるということを認めるであろう。

 

 霊的生活において、もっと聖なるもっとも通常な、そしてもっとも必要な修行は神の現存である。それは、いついかなる時も、とくに誘惑、苦悩、乾燥、いや気を感じる時、また、さらに、不忠実や罪に陥った時でさえ、儀礼にしばられたり、とりつくろったりすることなく、謙遜に話しかけ、愛深く語り合いつつ神とともにいることに慣れ、これを楽しみとすることである。

 最後に、「この世に神と私しか居ない生活」の他もうひとつ私が共鳴したことは、

神の知られざるところで、神に尽くしたいという心情です。

 神は、神のためにするすべてのことをあまりに速やかに、あまりにもすばらしく報賞されたので、彼は時として、自分のしたことについて何も報いを受けずに、何事かを純粋に神のためにしたという喜びを得るために、神の愛のためにすることを、神にかくしたいと望むほどであった。 

 

神もお父様もわれわれの知られざるところで、真の愛を完全投入されました。

そのような神やお父様をもつわれわれは、当然おなじようにありたいと思う心情があふれてくるとしても不思議はないことでしょう。

 

今日は「主の花嫁」に続いて、「神の現存の体験」をキーワードに

聖霊体験する道をラウレシオ修士に学んでみました。

引用は以下の本に依ります。

 

神の現存の体験

神の現存の体験

 

 

この本にはデジタルで無料で読める英語版があります。

関心のある方はご利用ください。

  

 

 


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