英雄たちの選択「明治憲法への道~伊藤博文が目指した“国のかたち”~」
伊藤博文が権力の分散とバランスを強く意識して、ドイツ、イギリス、アメリカなどの憲法を下敷きに、民主主義に不慣れな日本で機能する憲法を求めて、日本の文化や歴史に合わせた仕様の独自の憲法を、いろいろな立場の主張も踏まえ、国民が政治に参加できるところまで落とし込む事ができたというようなお話でした。
以下におおよその内容を記して、アメリカ憲法のみを下敷きとすることのリスクを皆さんと感じてみたいと思います。
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1889年に公布された明治憲法は天皇大権のもと、大きく国民の権利が制限された憲法と考えられてきた。
近年の研究によって起草者である伊藤博文は、国民が広く政治に参加する立憲国家を目指していたことが明らかにされてきました。
「国民を背景にして憲法に基づいた政治」を目指していたと伊藤之雄教授は語る。
「伊藤は国民が憲法を運用するのに成熟していないとみた」としています。
「国民という基盤がない上に法律だけ作っても機能しない」と考えました。
「日本の国民が理性的に議論できるようになって、その国民を背景にして憲法に基づいた政治を作りたいと思っていた。」
初代総理大臣となっていた伊藤博文には憲法制定をする道のりにおいて、様々な難問が待ち構えていたという。
自由民権運動と歩調を合わせる急進派や専制君主制を目指す勢力などとの国会でのせめぎあいの只中で伊藤は苦悶していた。
神経症のような症状を伴い毎夜不眠の日々を送るほどであったという。
だがそんな伊藤にも転機は訪れる。
西欧の訪問によって各国の憲法の性質やその理由を学習し、憲法立案によって何が大切かということが見えてくるようになっていくのです。
彼はベルリンやウィーンやロンドンを訪問する中で少しづつ問題が整理され、彼なりの解決の道が見え始めてくるようになったようです。
彼の頭のなかにあった主要な問題意識のひとつは、権力の分散による調和であったようです。そのような前提で立憲国家を模索していたらしい。
大日本帝国憲法の厳めしいイメージとは随分違いますね。
1871年(明治4年)岩倉具視率いる使節団が欧米先進国で視察
アメリカの工業力に圧倒され、この国力を支えているのが憲法であることを知った。
続く西欧の訪問でこの確信は深まっていった。
「国の興廃存亡はひとえに憲法のあり方にかかっている」 木戸孝允
1873年(明治6年)帰国
政府は憲法策定の準備にとりかかり、伊藤博文は豊富な留学経験と英語の能力を買われて、その責任者に任命されることになります。
薩摩や長州の藩閥の出身者が政府の要職を占める藩閥政府に対して反発していました。
建白書を提出して国民が主導する「民選議員」の必要性を訴え、一気に階層を超えて多くの賛同を得ました。士族から始まった自由民権運動が平民にまで広がていき、自分たちの手で新しい国の形を築こうという機運が訪れました。
それは民間事人による憲法試案が次々に提案されるほどでした。
代表的なものとして「五日市憲法」があるが、条文の内容の殆どが国民の権利や自由の保証についてでした。
1880年(明治13年)参議たちに憲法制定に関する意見書を述べるよう要請されることの。
伊藤博文:時間をかけて国民の成熟とともに作るべきとした。
大隈と裸の付き合いで憲法論議をしてきたはずの大隈が伊藤を出し抜いて行動に出ます。伊藤は裏切られたような感じで大きく傷つきました。
1881年(明治14年)大隈重信の意見書提出で事態は一変することに
民権派と接触を待つ大隈は議会が大きな力を持つイギリスをモデルにしたものでした。
国民が選挙で選んだ議員で議会をつくり、その中で多数を占めた党で内閣を組閣するというもので、議会を国政の中心にするものでした。
しかも、翌年1982年に選挙を実施し、さらに次の年には議会を組織するという急進的なものでした。
伊藤の考え方とはだいぶ違います。
当時政府の実権を握っていた岩倉具視にとっては青天の霹靂でした。
すぐさまヨーロッパの憲法に詳しい井上毅(こわし)に代案を作らせます。
井上は皇帝が大きな権力を持つドイツの憲法を参考にします。
井上案は天皇が内閣のを構成する大臣を選んだり罷免する任免権を持つなど大きな権限を持ち、議会の解散権を持つという議会の力を抑えたものでした。
伊藤はこれらの案を受け入れることができるはずもありません。
だが、天皇の政治権力を憲法の中でどのように位置づけるか悩んだといいますが、打開できないままにいます。
1973年(明治6年)征韓論をめぐって政府が分裂した際に、参議が意見を明治天皇に上奏して良しとされれば、その政策が通ってしまうことに味をしめたと思われる節があり、そういうことがなきようにと伊藤は危惧していたといいます。
さて、そんな状況の中で
1890年(明治23年)に国会開設を政府が公約することになります。
伊藤は他の主張者に後を越され、しかも時間が残り少なくなりました。
伊藤は大久保や木戸からは憲法はお前が作るんだと期待されていました。
では何故そんなに政府は急がなければならなかたかというと、徳川幕府時代の不平等条約の問題がありました。一つには治外法権の問題があって問題が起きても外国人をこちら側が裁くことができません。もう一つには関税の自主権がありませんでしたので財政や国内産業に影響がありました。交渉で改善していきたいと思っては見ても、憲法すら制定されていないわけのわからない国としてなかなか日本は相手にしてもらうことができずにいたようです。
対等に物を言うためには、そのような条件の整備として憲法の制定は最優先課題であったようです。そうしてはじめて条約改正に進むことができる状況でした。
それは人が人を支配する時代から法が人を支配する時代への転換点であったといいます。
1882年(明治15年)3月に伊藤をヨーロッパに派遣する勅命が渡った。
文明国の憲法調査としてベルリンから滞在し活路を見出す転機が訪れます。
ドイツでは皇帝に大権が集中し、その下で議会が開催されていました。
伊藤はベルリン大学の憲法学の大家であるルドルフ・フォン・グナイスト教授に学びます。グナイストはこう伊藤に講釈をたれました。
「憲法は条文ではない、憲法は国民の精神である。未熟な国民に議会運営などできるはずがない。たとえ議会を設けても軍備や予算には口出しをさせず、極めて弱い権限しか与えないほうが良い。」
ドイツの議会は憲法で保証された議決権を振りかざし、度々政府と対立していました。
鉄血宰相ビスマルクも国のタバコ専売化法案を議会に否決され苦しんでいました。
グナイストの考えは井上の描いた天皇大権を認めるビジョンに通じるものがあり、未熟な議会運営では機能しないことを一時的にはうまくいくかもしれないが、議会が力を持たない国民不在の君主制で真の立憲国家と呼べるのだろうかと苦悶が続いたのです。
困惑のなかで次に訪れたのがウィーンでした。ウィーン大学でローレンツ・フォン・シュタイン教授の教えを受けるためでした。
シュタインは行政の充実を重視していました。
伊藤はここから、天皇の君主権と議会の横暴を制御する行政中心の憲法という第三の道を見出していきます。
君主:天皇
行政:内閣総理大臣からなる各省
議会:国民選出の議員
伊藤はそこで最終結論を持たず、「君臨すれども統治せず」という国王が権力を持たない国、イギリスのロンドンにも赴いている。
国民が政治に参加する議会政治を目の当たりにします。
一人の人間に権力を集中した場合、機能しやすいことはいいとして、もしその人が大きく判断を間違った時にはどうすればよいのかという問題があるといいます。
そのリスクを分散するためには、議会政治に比重を移さなければなりません。
帰国後伊藤は10の省庁を作り、初代内閣総理大臣に就任しました。。
1885年(明治18年)内閣制度の創設
1887年(明治20年)本格的に憲法の草案に着手
神奈川県横須賀市夏島において機密時に井上毅を含む精鋭の官僚が集まって、伊藤を中心に四つに組んで討論が深夜まで行われました。
伊藤巳代治は伊藤公から思う存分意見を家と言われ、実際いくども反論したといいます。「天皇は神聖にして侵すべからず」という条文は彼によって主張され、ヨーロッパの憲法のように取り入れられることになります。(明治憲法第三条)
草案の中身には次のような2つのポイントがありました。
1,天皇の権限が巨大になることがないように(補弼)という天皇にたいする助言し補佐することを意味する言葉が大臣に与えられ、天皇に対する内閣の比重は増します。
天皇といえども内閣の意見を聞かずに独断で決めることができなくなりました。
補弼という言葉を条文に加えた成果でした。
大臣は積極的に使命を果たし天皇を補弼する、つまり実際上は彼らに任されることになりました。
井上毅の考えていたような天皇を中心とした内閣ではなく、伊藤は内閣総理大臣を中心とした内閣を目指すようになります。天皇ではなく総理大臣が国の政治に権限に比例して責任を持つことになりました。
2,国民の政治参加を見据えて議会の役割に役割を与えます。
法案を政府が議会に提出するだけではなく、議会も提出することができるよう配慮します。
国家予算についtも議会に諮って同意をとることにします。万が一承認されずに終わっても行政が滞り無く行われるために、否決されても前年の予算で自動的に行われることにして、国民生活に支障が無いよう工夫しました。
議会の権限と行政の施行のバランスをとりました。
1888年6月(明治21年)枢密院憲法会議に憲法草案がかけられる。
明治憲法第二章 臣民の権利義務について議論が起こります。
「財産や言論の自由は人民が生まれながらに持っている権利である」として条文に必要なしと主張します。ルソーの天賦人権論を背景にそう訴えたのです。
これに対して伊藤は立憲思想を持って答えている。
「憲法創設の精神は第一に君権の制限である。そして次に重要なのは臣民の権利を明記することなのだ。」
天皇の大権を制限し、国民の権利を守るという憲法政治の理念を伊藤は貫きます。
1889年2月11日(明治22年) 大日本帝国憲法が発布されます
東アジア最初の憲法であり、日本が文明国の第一歩を歩み始めたけ契機でした。
天皇は建前上は立法権をもっているわけで、議会はこれを協賛するとなっています。実際に作るのは議会で、これを天皇は拒否することもできますが、そのような発動は一度もなかったそうです。
その後伊藤は要職を歴任して、全国各地に遊説にでかけ、広く国民に憲法精神などを伝えている。絵に描いた餅にならないよう、投げっぱなしにはしなかったのです。
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旧約時代は律法が中心でしたが、イエス様が「律法の完成者」あるいは「律法の体現者」として降臨されました。
イエス様は油を注がれた者であり、王であられました。
人類始祖の堕落によって、人と真理が分離してしまいましたが、メシアによってこれが統一されました。
東洋の聖君による徳治政治は、残念ながら神ではなく天という絶対的価値によって召命を受けた者が、擬似「律法の完成者」として「人による政治」を進めてまいりましたが、メシア思想の統治に通ずるものがあったと言えましょう。
真理とは引き裂かれてしまった人間は、法を仰ぎ見る存在でもありました。
そこで不完全な王と不完全な法の下に人々は暮らさざるを得ませんでした。
初期には地上の王も油を注がれる儀式を受けていたそうですが、キリストを身に宿して神の国の建設に邁進すべき理想を王が放棄してしまえば、法によってのみ人は神の国の替りである祖国を模索しなければならないことでしょう。
近世400年は苦難の道のりになりました。人々にとって霊的王国の父王である父法王や地上の国家の父王の堕落によって、父を失った子、全体を失った個が、連体を見失って自由を求めて彷徨いました。
1920年、再臨主であられる文鮮明お父様の降臨によって、イエス様時の機運が再び巡ってまいりました。
お父様は「天法の体現者」として我々の前に現れてくださいました。
「私の誓い」や「家庭盟誓」の体現者として天道を歩む神の子たちの原器となり、基準となってくださいました。
法に解釈の余地があるため人により立場によって異なる見解を持つことが起きることがあります。その時最終的な判断を決めるものは法の条文ではなく法の体現者たる天一国の王ではないでしょうか?
キリスト教が次第に失っていった王による神の愛の徳治政治は、神の人格を知らない東洋の儒教を中心に探求されていきました。
天という絶対的価値の背後に愛の人格をもった神の存在があることに気づかず、イエス様が殺されて人類に提示することができなかった個人と家庭と国家のあり方を探求してまいりました。
お父様はキリスト教ではなく、先ず儒教的環境の家庭に育ちました。おそらくそこに天一国を創るためにどうしても相続すべき内容があったからでしょう。
子女教育もお父様に習って儒教的内容から始めるべきなのかもしれません。
伊藤の場合は、政治を行う様々な機関やその長のいずれかに権力が集中することを避けるよう大変な思索や討論また欧米歴訪による実情の分析と憲法の核心を掴むことに奔走されました。
彼が悩んだ課題のもともとの出処は、我々信仰を持つものからすればエデンにあると言えます。
父と子と僕
神(王)とアダム(王子)と天使長(側近)
これが変形して様々な形で現れてくるものと思われます。
法王と国王と家臣
天皇と総理大臣と大臣
アダムとエバが神の戒めを破って堕落したので、本来は神の一つの血統からアダムが生まれ人類が生まれ、大家族世界になるはずでした。
したがって本質的には家庭問題ですから、韓国の宮廷時代劇を参考にして、権力の分散を考えることから、憲法問題もとらえたほうがいいのではないかと思われます。
統一家においても、韓国の歴史的教訓がそのまま当てはまりました。
「サタンは外戚から内戚に侵入する」
外戚こそインベーダーです。
外戚が権力を握ると必ずと言っていいほど問題が生じます。ドラマも統一家も同じでした。
おそらくお父様は外戚がサタンの誘惑に負けてお父様を窮地に追い込むことをすっかりご存知の上で、歴史的罪の精算を果たし蕩減復帰されようとしたのでしょう。
ふところにサタンがいることを許容されました。
ドラマ「イ サン」では、イ サン王の王妃に子供が恵まれません。そこで王の母は、王の右腕となって活躍する側近の妹を王の側室として迎えるように整えました。
すると次第に「一族繁栄主義」が働き始め側近は王の心情の相対ではなくなっていきました。
父親が権力の中枢にいない娘を王は后として迎えた方がリスクが少なくなります。
蕩減復帰を考えなくてすむ二代目以降はそのほうがいいことでしょう。
イ サンが子供時代にひょんなことから竹馬の友ができました。男の子と女の子がひとりずつです。彼らが生涯王を真に支えるものとなりました。本物の家臣になりました。
このことはご子女様においてもお孫様においても大変重要な示唆を与えていると思われます。
真のご家庭のためにそのような竹馬の友を持つことができる環境の整備を我々は果たすことができませんでした。
「権力の分散を考える前に心情一体の竹馬の友を用意せよ!」
と天の声が聞こえるようであります。
心情が一つでないので、一心ではなく二心なので、権力を奪取しようとする者が現れました。そこで権力を持つ地位を与える以前から生涯の友が現れなければならないというのです。
亨進様や信俊様と同世代の信徒で、「父や母よりも愛する者」が整わなければなりません。天はどれほど深刻でしょうか。
天一国憲法が機能し天一国が成熟していくためには、先ず以て亨進様やそのご家庭の心情の相対となる個人や家庭が必要になってまいります。
さて、このブログでは二性性相から導き出される相対思考が活学として有効だとしてきました。「見えるものから見えないものへ」という思考の視点の移動が役に立つこともお話いたしました。
なかなか良い例が思い浮かばなかったものですが、ここにいい例が出てまいりました。
グナイストの言葉です。
通常は各国の憲法の条文の比較という視点で論文やその種の本は考察されるのでしょう。だが、条文というのは目に見えない憲法の精神が目に見える条文という形になって現れてきたものだと、統一原理によればそう捉えることができます。
「見えない」 「見える」
本質 現象
原因 結果
性相 形状
ではアメリカの憲法に流れる精神とはどのようなものなのでしょうか?
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