ドラマ「大王世宗」は韓国ドラマの白眉であろう。
「ホジュン」や「チャングム」が人格完成の道を教えてくれるのに対して、
「大王世宗」は王とは何か、王妃とは何か、民とは何か、政治とは何か、忠誠とは何かを考えさせてくれる。
我々は如何にして天一国を神の御前に捧げていくことができるのであろうか?
忠臣ヨンシルが大王世宗を
「この世で最も高貴なお方 そして最も低きにおられる」
と評された。
この言葉は、聖和された父にこそ相応しい。
:1)サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。
:2)長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。
:3)しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。
:4)この時、イスラエルの長老たちはみな集まってラマにおるサムエルのもとにきて、
:5)言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。
:6)しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、
:7)主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。
:8)彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。
:9)今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。
:10)サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、
:11)言った、「あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。
:12)彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車の装備を造らせるであろう。
:13)また、あなたがたの娘を取って、香をつくる者とし、料理をする者とし、パンを焼く者とするであろう。
:14)また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え、
:15)あなたがたの穀物と、ぶどう畑の、十分の一を取って、その役人と家来に与え、
:16)また、あなたがたの男女の奴隷および、あなたがたの最も良い牛とろばを取って、自分のために働かせ、
:17)また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう。
:18)そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。
:19)ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。
:20)われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。
:21)サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。
:22)主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。
民が王を選ぶしくみのことを民主主義という。
天一国憲法を堕落天使長が既に発表したが、天意を無視した民主主義そのものであった。神主義とは言い難いものであった。
神の国とは神の支配の意味である。
従ってこの世の王が民を治めるのではなく、神人合一した者が治めなければならない。
宮崎県には「八紘一宇の塔」がある。
法華経を信仰する者が、仏と一体となった天皇によって、仏法と王法を統一して、現世の政治に具現されるべきであるという思想を生み出した。
かって2000年前に、イエス様が殺されてしまったので、神の法と人間の法の統一者たるメシアが失われてしまったことが思い起こされる。
そのため預言者のような使命を持つ神の国の法王と、地上の王との国王が分離独立した歩みを続けてきた。
それが西欧の歴史であり、政治史である。
神は特に「自分たちのために選んだ王」を憎んだ。
:9)イスラエルよ、わたしはあなたを滅ぼす。だれがあなたを助けることができよう。
:10)あなたを助けるあなたの王は今、どこにいるのか。あなたがかつて「わたしに王と君たちとを与えよ」と
言ったあなたを保護すべき、すべてのつかさたちは
今、どこにいるのか。
:11)わたしは怒りをもってあなたに王を与えた、また憤りをもってこれを奪い取った。ホセア書13章
大王世宗は偉大な善王であったという。
その世宗が語った次のような言葉がある。
尹貞蘭、 金容権著「王妃たちの朝鮮王朝」から引用する。
「中国の婦女子は文字を知っていたから、政(まつりごと)に参加でき、国を誤らすことがあった。ところが我が東方(朝鮮)では婦女子は文字を知らないから、政に参加できなかった。これは実に幸いなことである」
驚きの言葉である。
韓流ドラマからは想像することができない。
韓民族は摂理的民族である。
従って女性はエバが失敗し攪乱した御旨の収拾を蕩減を払って払拭して天の伝統を取り戻し確立継承していく使命がある。
主管性転倒して三大祝福をひっくり返して、神の地上における政を崩壊させてしまったエバの罪状を償うためには、サタンの死亡の血を流す屈辱に満ちた自己否定の道を行かざるを得なかったのである。
そこで最終的な勝利者となるべき天一国の王妃たるお母様が誕生されるまで、
地上の歴代の王妃たちの運命は、やはり苛酷な道を行かざるを得なかったのである。
ある者は勝利しある者は葛藤と怨念に死に絶えたことだろう。
上記の本の著者は以下のように王妃たちを語っている。
朝鮮王朝(李朝)500年を支配した儒教思想が、女性たちに一方的に強いたのは「男女有別」と「烈女」の生活態度、生き方だった。烈女とは、ありていに言えば二夫に事(つか)えないこと、貞操の観念の教えである。
女性たちはひたすら家庭だけを守らなければならず、国政はもちろんのこと、社会生活にさえ参加することはできなかった。また一度結婚すれば、女性は離婚も再婚もできないように強制的に規制されていた。
しかし朝鮮王朝の開国当初は、高麗(コリョ)時代の仏教的な風習が色濃く残っていたために、儒教的な女性観は厳しくは守られなかった。寡婦の再婚禁止という制度の下でも、二回以上結婚した母から生まれた功臣たちも少なくなかった。その当時はまだ、女性たちは離婚や夫に死に別れた後も、再婚することは珍しくなかった。
当時、女性たちの権限がそれなりに自由だったのは、結婚制度と相続制度の影響によるものだった。当時はそれ以前から続いてきた風習により、結婚後は婿が長い間、妻の家で暮らす「男帰女家婚」という慣わしが支配的だった。高麗時代は、結婚後10年以上妻の里で暮らす場合もあったと言うから、朝鮮時代の初めにはその影響は、そのまま残っているようである。
また、当時は財産相続と祭祀奉仕においても、男女の区別はなかった。財産にしても男女が同じく均等に相続した。祭祀の場合も、息子と娘の区別はなく、子供は誰でも順番に祀る「輪廻奉祀」と、財産相続などで特恵を受けた子供だけが祀る「分担奉祀」が原則だった。これもやはり高麗の風習がそのまま続けられたからである。高麗時代は、人が死ねば火葬をしたり、拾骨してお寺に安置して仏教儀式で祭祀を執り行った。それで敢えて嫡長子が表に立つ必要はなく、かえって女性たちが祭祀を主導する場合も少なくなかった。
このように結婚や相続制度で、女性が男性と同様な地位を確保していたために、朝鮮の士大夫(読書人、貴族、両班)たちの儒教的政策がまだ女性には適用できなかったように思われる。儒教的女性観を社会全体に拡散させようとしたが、現実的には無理だった。それでまっさきに、その見本として適用対象となったのが王妃たちであった。彼女たちは朝鮮社会の基盤の確立を固める生贄(いけにえ)となったのである。王妃たちは、朝鮮王朝の開国と初期の体制確立に多くの功を打ち立てた。しかし、国政からは排除された。それは、朝鮮が強力な儒教的家父長体制を標榜したからである。
王妃の中の王妃として降臨された真のお母様は、歴代の李王朝の王妃たちが慟哭するような道を行ったその果てにある境地で、お父様をお支えするべく天命を与えられたのであった。
涙も枯れ果て声も枯れ果て無残に打ちひしがれた如何なる王妃であったとしても、
お母様の行かれた歩みの前には言葉もなく額ずかれるばかりであろう。
人類が蘇生されるべく行かれた、孤高の前人未踏、空前絶後の十字架の道であったからである。
仁進様は神山氏に動画で訴えられたお言葉は
まさに全ての食口の思いを代弁してくださっていた。
お母様に何か充分ではないと思われる点があったとしても
お母様に何か問題があったとしても
それを我が身が共に受けてお支えしたいと思うのが
孝心ではないか?功臣ではないか?
ごもっともである。
全く正しい。
だが その先に真のお母様が勝利されてきた一切が失われてしまう時には
その心情さえ踏み越えて行かなければならないであろう。
歴代の王妃の恨とともに、もう一つお母様が歴史的に背負っておられる韓家の恨がある。
お母様!どうか超えてくださいませ!
お母様は誇り高い韓氏である。
韓氏とは何者なのであろう?
大祖・李成桂には二人の正室がいたのである。
韓氏の先祖には李成桂の正室がいるのである。
朝鮮王朝時代は一夫一婦制が法制化されたので、後で迎える婦人は側室となった。
ところが高麗時代の慣習には一夫多妻制が法制化されていたため、高位の官職に就いた者が開京(開城)に上がると、事と次第によってはもう一人の正室を迎えることができたという。
開京に何時妻だから京妻と呼ばれ、都育ちで垢抜けていて若く、夫の気持ちは京妻に傾く傾向があったという。
韓氏の方は郷妻であった。康氏が京妻であったというが、李成桂と康氏の結婚は政略結婚であったようだ。
一方郷妻は若い頃から夫と苦楽を共にして夫の影で一生を捧げたのだが、丹誠込めて精誠を尽くし築き上げたものを、結果として京妻に奪われる形となり、二人は犬猿の仲となるのが普通だったという。
この著書では韓氏のことが詳しく書かれているが、こんなふうにまとめている。
韓氏は政局の動揺に心を痛め、病に臥せって55歳を一期に世を去った。彼女の葬儀は海豊郡治粟村で執り行われた。韓氏は、朝鮮王朝が開国される10ヶ月前に没したので、王后の位に就くことはなかった。だが朝鮮が開国した翌日の7月17日、し号(おくり名)を節妃と追尊し、陵号(陵の名)を斎陵とした。その後、朝鮮二代国王の定宗が即位した年に節妃韓氏を、神懿太王后に追尊した。ところでずっと時代が下がり、神懿太王后の廟号は粛宗代に学舎、宋時烈(1607~1689)が適切ではないと上訴し、、神懿王后に修正された。
韓氏は李成桂の最初の妻であり、多くの子をもうけたが、結局朝鮮王朝の最初の王后としての栄華に浴することはなかった。懸命に内助の功を務めたが、その当然の見返りはとどのつまり康氏のものに帰してしまった。しかし、その報いは後に五男の芳遠によって取り替えされることになる。
ウィキペディアではその政局の動揺を以下のように伝えている。
李成桂は、八男の李芳碩(神徳王后康氏の子)に後を継がせようとし、神懿王后韓氏を後宮(側室)にした。建国に奔走した神懿王后韓氏の生んだ王子たち、特に五男の李芳遠はその仕打ちに激しく反発し、1398年に反乱を起こした(第一次王子の乱)。これにより、芳碩と功臣鄭道伝が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は芳遠の奨める次男の李芳果(定宗)に譲位し、退位してしまう。その後も李成桂の王子達の反目は続き、1400年、今度は四男の李芳幹が反乱を起こす(第二次王子の乱)。この乱は李芳遠によって鎮圧され、乱後に李芳遠は定宗から王位を譲位され即位した(太宗)。 長男から六男までが神懿王后韓氏の子で、七男と八男が、神徳王后康氏の子である 李成桂は自分の息子達の争いに嫌気がさし咸興に引きこもって仏門に帰依した。1402年、神徳王后康氏の親戚であった安邊府使の趙思義がむごい仕打ちを受けた神徳王后康氏の仇を討つべしと咸鏡道の豪族たちを率いて決起した。(趙思義の乱) 太宗に恨みがあった李成桂もこれを後ろで支持したとされる。乱が鎮圧された後、李成桂は太宗と和解してソウルに帰って来て、国璽を太宗に授け正式に朝鮮王として認めた。太宗は父から後継者として認められようと咸興に使者(差使)を送ったが李成桂はソウルから差使が来る度に遠くから矢で射て殺してしまったとされ、そこから任務を遂行しようと行ったが帰って来ない人またはそんな事を示して「咸興差使」という言葉が生じた。しかしこれはあくまで伝説であり、最後の咸興差使としてもっとも有名な朴淳は実は趙思義の乱に加わった都巡問使の朴蔓を説得するべく戦地に向かい殺されている。[30]その後李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活をしていたと言う。
1408年、74歳で薨去した。御陵は健元陵(京畿道九里市、東九陵の一つ)である。また李成桂は自分を神徳王后康氏と一緒に葬るべしとの遺言を残したが、神徳王后を恨んだ太宗はこれを守らなかったため神徳王后は健元陵に葬られることはなく、御陵は都の外へ移された後破壊されその墓石は橋の修理に使われ民がこれを踏みにじると言う酷い侮辱を受けた。
お母様の血統は正午定着の陰が見当たらないように、お父様の絶対対象としての格位を死守するための、天の訓練を経てきた家系である。
だが一方で天子を迎えることができた家系であったが、天女を迎えることになった歴史がある。天子として王になることができなかった。韓氏の恨。
お母様が確信して次のように言われる理由 「摂理歴史ではアジアの主人は韓王朝、東夷族」 - 原理講論を読む
「天命」というドラマで亡き王妃が生んだ世子を葬り去り、代わりに我が子である王子を擁立させようと画策する次の王妃が登場する。
その子である王子は世子をを尊敬し慕っている。
しかし、あまりにも母のなさることが酷いので。
「私は母上が恐ろしゅうございます。」
と言い、
「母上が私を王にしたいのは、本当は母上が王になりたいからです」
と震え上がって言う。
そのようなことが無きよう、韓氏は訓練されてきた家系であった。
:16)さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
:17)そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
:18)イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
:19)それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
:20)あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
マタイによる福音書28節
阿部氏によって三位一体の話が出てきた。
イエス様はご成婚することができずに殺されてしまった。
そこで四位基台の子女の部分が削られて、三位一体が強調されてこざるを得なかった。
そうはしたものの、実際に肉身を持ったもの同士の結婚ではない。
そこでバプテスマを授けてみたものの霊的な重生に終わってしまった。
続きは再臨の時を待つしかなかった。
霊的というのは実際には養子縁組と言うに等しかった。
だがお母様は違う。
韓氏は一人の天子を持つことができなかったが
多くの天子を生む母なる天女を地上に送ることができた。
万民を重生させる道を切り開かれた。
偉大な、真の御母様。
訪日のお母様に永遠の誉れがあり
栄光が永遠に続きますことを!
失礼ながらお母様の論理は既に破綻しています! 聖和されたお父様が切に言われることは 「全てを否定して出なさい」 - 原理講論を読む
対象挌位の者が主体挌位に立とうとすれば
重生の道は塞がれてしまうのである。
愛憎は判断の誤りを導くと。
それは、真のお母様や子女様に対しても然りである。
あまりにもお母様を溺愛すれば判断を見失うことがあるのである。
我々が忠誠だとして、お母様を支えたつもりで、多くのことに目をつぶりすぎた結果
お母様が霊界に行かれた時、神やお父様とどのような出会いをされるかが問題なのである。
チャングムはその胸に抱く真の愛に於いて
王妃を否定せざるを得ない道を歩んだ
また王に対しても真の愛を抱いて
やはり否定せざるを得ない道を行った。
その事により逆賊と罵られ死の道を行くとも
譲ることのできない王と王妃に対する忠誠の境で
身悶えながらも王と王妃の幸を祈る。
人を愛しすぎれば、大きく歪んで見える
人を憎めば、小さく歪んで見える。
実直だが無能な者や、有能だが不届きな者 いずれも害を為す者と考える! - 原理講論を読む
忠孝の道は険しく見極めがたい。
「大学」に警告して曰く、
人はその親愛する所において辟す。
その賤悪する所において辟す。