原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

縦的重生と横的重生について         子女様と共に生まれ子女様と共に生きる

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素晴らしい講義がアップされていた。

14講話というから、もしかしたら見逃している講義があるかもしれない。

 

せっかく勅使河原さん初めとする講座制作チームが素晴らしい動画をつくられたので、

重生について考えてみたいと思う。

重生という言葉を初めて知ったのは、教会で777だったと思うが、その方が重生についてお父様が語られたと言って分かる限りの説明をしてくださった。

ところが、777の方は正直に自分にもこのくらいのことしか分からないと言って、

「どなたかここに説明ができる方はおられますか?」

と謙虚に尋ねられたことを思い出す。

その時、自分にはあることが重生という言葉から思い出されてそれについて話そうかと思ったが、話すには至らなかった。

今日はその話しを含めて、重生について考えてみたいと思う。

 

重生という言葉が日本語に無いものだからややこしくなったのだ。

日本も韓国も中国の漢字文化圏の影響下に暮らしているが、韓国の時代劇を見ていて発見したことの中に、同じ漢字を用いてきた日本と韓国だが、時折中国と韓国が共通して使う漢字の言葉が出てくるが、それを日本では違った言葉で表現しているということであった。

亨進様の説教にも出てきたように思うが、「冊封」という言葉なんかもそうだ。

日本語で言えば「封建」にあたるという。

海を隔てて守られていた我が国とは違って、宗主国と属国の関係であった中国と韓国には、天命によって立てられたとされる君主のいる宗主国である中国が、属国である韓国の身分にお墨付きを与えて任命するということだ。

冊 すなわち認定証をもって、何々という身分を保障し任命するといのである。

例えば李朝で世継ぎの世子が、何らかの事情によって他の王子によって取って代わる際にも、中国の君主の認定と任命が必要だったという。

陸続きであった中国と韓国の方が、また同じ儒教世界の宗主国と属国であった両国には共通する漢字が多く存在するようである。

重生も中国語で調べると、「再生や生き返ることであり、いったん消え失せていたものが,力や命を取り戻すこと」であることが分かる。

重生の意味 - 中国語辞書 - Weblio日中中日辞典

 

蘇りのことだという。

つまり重生に相応しい日本語を見つけるなら、蘇生になるのだろう。蘇りである。

原理講論は初め新生としたようである。

 

私が若い頃の映画で

ショーン・コネリー主演の「007は二度死ぬ」という映画があった。

死んだと思っていたのに生きていたというように、限界状況を人間の知恵と努力で突破していくのがジェームズ・ボンドの魅力であった。

ところが英語に原題は

「You Only Live Twice」

人は誰もが一度限りの人生だが、

ジェームズ・ボンドの宿敵から見たら

「まさかおまえが二度生きるとは」

というところだろうか?

「007は二度死ぬ」ではなく「007は二度生きる」

というのである。

つまり、キリスト教文化圏に住む欧米人にとっては、二度生きる方がしっくりくるのだろうが、日本人にとっては、再生復活なんて思想的背景がないから、二度死ぬ方がわかりやすい。そこでそう訳したのであろう。

なんてこった!まさかおまえが二度生きるとは!

おもしろい英語表現だ。

 

さて今までお話ししたことは一般的に、オリーブの接ぎ木や渋柿の話しでお父様が語られていることだが、これを縦的重生、すなわち時系列によって説明された重生とみると、もう一つの横的な説明の仕方もあるだろう。

これらは補完的な関係ではなかろうかということである。

横的重生が連想されたことを777の方にその時話そうかと思ったのである。

 

6000双までの祝福は、基本的にはお母様のお腹に子女様が宿っておられる時になされてくるか、前後に幾分ずれて御子女様が誕生されてきた。

我々6,000双の時は情進様が近いのである。

 

1960年4月16日 3双 1961年1月27日 誉進様御誕生

1961年5月15日 33双 (1961年1月27日 誉進様御誕生)

1962年6月4日  72双 同12月29日 孝進様御誕生

1963年7月24日 124双 (1964年7月28日 恵進様御誕生)

1968年2月22日 430双 (1067年12月24日 恩進様御誕生)

1969年2月28日 43双 アメリカ 1969年5月25日 顕進様御誕生

1969年3月28日 同43双 ドイツ 1969年5月25日 顕進様御誕生

1969年5月1日  同43双 日本 1969年5月25日 顕進様御誕生

1970年10月21日 777双 1970年7月17日 国進様御誕生

1975年2月8日 1800双 1975年3月2日 権進様御誕生

1977年2月21日 74双 アメリカ 1977年7月11日 善進様御誕生

1978年5月21日 118双 イギリス 1978年6月21日 栄進様御誕生

1982年7月1日 2075双 (1982年6月14日 情進様御誕生) 

1982年10月14日 6000双 (1982年6月14日 情進様御誕生)

 

 

漢字は表意文字である。

そこには天からの啓示性があると思われる。

重生という言葉で重というのを「重なる」と捉えてみると

ルカによる福音書第1章に出てきたことが思い起こされる。

アベルの子女様の命とカインの子女である我々の命が、重なり生まれる。

祝福の価値に代わりはないが

6,000双までが、厳密にはカインの氏族であると言われているのは

末っ子の情進様と共にあって生まれ変わった最後の信徒たちだからではないのか?

アベルの氏族を支える使命を果たさなければ大変なことになる。

御子女様方がアベルの子女なら我々は彼らを守るカインの子女である。

逆とでは決してありはしない。

総会長も会長も6,000双であった。

アベルの子女様を支えるのが6,000双までの祝福家庭の責任であり、使命である。

 

復帰原理がアベル・カインでなされていくことが原則であるから、

重生といってもやはりアベル・カインの原則的公式があるはずだと誰でも思うことだろう。横的重生とはこのことを言っている。

別に公式見解ではない。良く吟味してお読みくだされ。

 

:28)御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。  

:29)この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

:30)すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。  

:31)見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。  

:32)彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、  

:33)彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。  

:34)そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。  

:35)御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。  

:36)あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。  

:37)神には、なんでもできないことはありません」。

:38)そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。  

:39)そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、  

:40)ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。

:41)エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、  

:42)声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。  

:43)主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。  

:44)ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。  

:45)主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。  

 

胎中で主に喜び侍り

エス様の立場→子女様(アベルの子女)

洗礼ヨハネの立場→祝福を受けた男性(カインの子女)

主の花嫁である相対者の胎中にて喜びによって生まれる変わる

 (母が喜ぶ時、子も喜ぶのである。胎教のことである。相対者の情が主体者を決める。)

 

地上でも主に喜び侍る

エスの立場→子女様とその家庭(アベルの家庭)

洗礼ヨハネの立場→祝福を受けた男性とその家庭(カインの家庭)

主の種である心情と血統を相続した代身者である子女様に喜びによって仕え生まれ変わる 

 

洗礼ヨハネは別行動をした。

お父様とひとつになる道は

アベルの子女とひとつになる道である。

 

祝福とは神の種である。

神の種には心情と血統が入っている。

これを相続し神の代理人として管理するものが出て、繁殖させることが御心であった。

「生めよ、殖えよ」である。

だが 大地にはもとより種はない。

大地の土壌が種の中にある設計図どおりに展開されるほど、よい土壌であるか否かが問題である。

如何に神の種を持った父がいても、それをしっかり受けとめることのできる肥沃な大地がなかったら、何倍にもなって実りを得ることはできない。

お母様は種ではないし、種にはなり得ない。

 

新潟のコシヒカリが寒の入りのはいる北陸や東北で育ってこそ、糖度を増してうまみを出すように、亨進様も寒さ極まる山籠もりで、お父様から相続された味わい豊かな人格に磨きをかけられた。

さて、九州のような暖かい土地でコシヒカリをどんな土壌で作っても本家のようにはならないことだろう。

だが 土壌ではなく種が暖かな地でもおいしく育つよう改良されたなら、本家に近づくことができるだろう。

良き土壌として余すところなく、種の持ち味を伝えるように、お母様もまたお父様の神価を子女様に見事に伝えられた。

「良い地」であられた。

真の母として勝利された。

だが 世子が立ったら、王妃から王后にへりくだって仕えるのが原理。

 

実った種である子女様が今度は主役になられる。

そして伝統が三代によって不動の確立をする。

 

畢竟祝福は種のことである。

したがって種をもつ者が取り仕切るべきものである。

 

:3)イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
:4)まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった
:5)ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
:6)日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった
;7)ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
:8)ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
:9)耳のある者は聞くがよい」。
:10)それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
:11)そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
:12)おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろろう。
:13)だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
:14)こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
:15)この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。 
:16)しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
:17)あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
:18)そこで、種まきの譬を聞きなさい。
:19)だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
:20)石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである
:21)その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。 
:22)また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
:23)また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

マタイに四つ福音書13章

 

イザヤよ、エレミアよ、神の預言者よ。

だから、アンナ・ホイットニーは天に召され行く中で何度もつぶやいたのだ。

 

見えざる手を我は見る

彼方へと、手は我を招く

聞こえざる声を我は聞く

そは命ず、とどまるなと

 

では 何故清平の堕落した天使長をお父様は放っておかれたのか?

続いて記されている聖句に、キリストであるイエス様が語らた譬え話ではどうか。

 

:24)また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである
:25)人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った
:26)芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた
:27)僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。
:28)主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。
:29)彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
:30)収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。  

 

審判の時が来た!本来必要の無かった審判が!

われわれは本当に重生できたと言えるだろうか?

それが問題だ。

 

いまこそイザヤの言葉を衷心から拝受すべき時である。

 

『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。

見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。

それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、

悔い改めていやされることがないためである』

 

アベルの子女様と一体化せずして、

どこに重生の道があるというのだろうか?

摂理的人物たちの血と汗と涙の血統転換の歩みに恥ずかしくはないのだろうか?