原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

家庭連合のサンクチュアリ批判はラビリンス   触りだけ見てみましょう

9月21日22日のサンクチュアリ対策集会について報告がありました。

 

三代王権・真の御父様に帰ろう!참아버님 문형진님 문신준님 !: サンクチュアリ教会を支持する人々の言説の誤り  2015.9.21、22の修正資料

 

 

以下文章を引用します。

私の意見は青い字で書き、黒字は引用ですが、私が引用した聖書や原理講論の文も黒字にしました。ほんの少しだけ私の意見を書きます。

もうこれくらいで今後は書かないですむことを祈ります。

他の方が書いてくれることを期待していましたが

もはや家庭連合の批判は信徒にも響かなくなっているようです。

 

 

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一、正統か異端か
1.分派の特徴  「自分たちだけが正統、他は異端」
 
分派の特徴は「自分たちだけが正統、他は異端」という論理だそうですから
われわれ家庭連合は「自分たちが正統だなんて言い切りません。他は異端だとも言い切りません。なにしろ我々は分派ではありませんから。」
そう言う主張のようだ。
わけが分かりません。この論理。論理性が高い団体ではないようです。
ラビリンスです。
自分たちの論理で正統を定義したら、意図せざる結果が生じて、異端を容認せざるを得ないという論理的破綻に陥っています。
これは下のB図でいうと論理性の高い主張や団体には、家庭連合がたして当てはまるのでしょうか?

 

A.「正分合作用」が教えている、神の創造目的を実現するために必要な要素
a.神の御旨成就のためにという心情の動機に基づいた目的観と主体性
b.神の御旨成就のために最も適切かつ必要な方法手段としての思考・原理観・摂理観に基づいた計画・戦略・組織・実践
 
 
 
 
 
何故これが出てきたのかは判りませんが、四位基台の図があるので、これからの話しの理解がしやすくなったと思います。
どうも、上記の点を重視してサンクチュアリの主張の誤りを語ろうということでしょうか。
 
この四位基台に下の独生女三位一体をどう説明できるのでしょうか?
 
VimeoThe Burning of Babylon   Sept. 20 00 2015   Rev. Hyung Jin Moon   Sanctuary Church Newfoundland PA
 
お母様を主体にし、お父様を対象にする
三位一体の神学は上図の四位基台と違和感がないのでしょうか?
 
原理講論のここを読んでいないようです。
 
神のすべての実体対象に備えられている主体と対象において、その対象の中心がその主体にあるので、主体と対象の合性体の中心も、やはりその主体にある。しかるに、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三対象が相対基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三対象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。
(4)四位基台の存在様相
 
お父様が真の父母の名で語っていることは、お母様を対象として、主体に立っているお父様という意味で使われることが多いのです。
お母様がお父様の対象挌位に立たれ、あらゆる試練の中にあっても見事に勝利され、主体であられるお父様を支えられるお姿こそ我々万民の誇りです。
 
合成体、すなわち「真の父母が一体化している」状態とは
お母様が黒子のようにお父様を支えておられる状態です。
主体であるお父様の姿が、全面的に現れ、その見えないところで内助の功を働かせておられるお母様の輝きがあるという一体化です。
けっして、今までなかったのに祝福リングの内側にお母様の名前だけが彫られるとか、御父母様の御写真が下げられ、お母様の御写真だけ飾るとか、お父様の席に頻繁にお母様が座られるとか、10以上の不自然なことが今も増え続けて存在しているのは悲しい事実です。
 
 
詳しくは以下のリンク先で
 
そのような伝統は復帰摂理の中心人物の女性の信仰に見ることができます。
 
アブラハムの失敗を蕩減復帰するサラが絶対「性」を死守する試練をアビメレクやパロから受けて勝利しました。
 
神との割礼の契約
:22)神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。
:23)アブラハムは神が自分に言われたように、この日その子イシマエルと、すべて家に生れた者およびすべて銀で買い取った者、すなわちアブラハムの家の人々のうち、すべての男子を連れてきて、前の皮に割礼を施した。
:24)アブラハムが前の皮に割礼を受けた時は九十九歳、
:25)その子イシマエルが前の皮に割礼を受けた時は十三歳であった。
:26)この日アブラハムとその子イシマエルは割礼を受けた。
:27)またその家の人々は家に生れた者も、銀で異邦人から買い取った者も皆、彼と共に割礼を受けた。 
創世記17章 
 
 8日目に割礼する伝統
 :4)アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。
創世記21章
 
アブラハム(妻ケトラ)→ミデアン→・・・→エテロ→チッポラ
 
:1)アブラハムは再び妻をめとった。名をケトラという。
:2)彼女はジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシバクおよびシュワを産んだ。
創世記25章
 
さて、神様がモーセにエジプトに行けとおっしゃられたのに、その神様に、主(天使)に、モーセは殺されそうになりました。
 
:18)モーセは妻の父エテロのところに帰って彼に言った、「どうかわたしを、エジプトにいる身うちの者のところに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているか、どうかを見させてください」。エテロはモーセに言った、「安んじて行きなさい」。
:19)主はミデヤンでモーセに言われた、「エジプトに帰って行きなさい。あなたの命を求めた人々はみな死んだ」。
:20)そこでモーセは妻と子供たちをとり、ろばに乗せて、エジプトの地に帰った。モーセは手に神のつえを執った。
:21)主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。
:22)あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。
:23)わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」。
:24)さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。
:25)その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子(ゲルショム)の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。
:26)そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。
 
モーセは息子ゲルショムに神がアブラハムと契約したイスラエル選民の条件である割礼を施していなかったようです。
そこで主体者を支えて相対者であるチッポラが絶対「性」の象徴である割礼をゲルショムに施して、モーセを証しして助けたわけです。
亨進様が堂々と6マリアの絶対「性」を証言し、その夫と一体化して、信俊様に敬礼を捧げられた李妍雅様は、亨進様同様にお母様が勝利された絶対「性」を
お母様の代わりに死守したような信仰の祭物となられました。
本来のお母様の威光と威厳を取り戻して頂くためです。
ところがこの勝利が揺らいできています。
天使長たちの馬鹿げた不忠によってです。
 
 
ですから、復帰摂理上に登場する中心人物の妻たち、将来来られる真の母のような立場の女性は、絶対「性」に関わる何らかの信仰を立てなければならず、当然お母様の場合は、お母様以前に於いてもお母様以後に於いても超えることができない勝利を神様は期待されておられるのです。
それを清平の堕落天使長が木っ端微塵に破壊しようとしてきたわけです。
 
B.正統性の根拠は神霊と真理との一致
「自分たちの心情の動機に基づいた目的
 
もう一つがこの図になりますが、
これがラビリンス。
先ず右の図が意味不明です。
丸で囲まれた正統の外側に「自分たちだけが正統」とあります。
この言葉は3つの象限の異端に対する説明かも知れません。
 
すると心霊と心情の高さや深さと、真理の理解の論理性の正確さを
持っている主張が正統であり(左の図)
真の父を受け入れる認定度と真の母を同様に受け入れる認定度が高い主張が
正統ということでしょうか。
 
ボストン・コンサルティングみたいな図解ですが
真理はともかく心霊(心情?)とは何か、先ず定義をしないと
明晰判明とは言えず、説得力が生じないですね。
 
サンがサンクチュアリか。なるほど。
 
すると家庭連合のサンクチュアリの理解は
論理性が甚だしくなく、またお母様の否定度が著しく酷い主張のグループ
ということだそうです。
 
お母様の主要な責任は果たされ勝利されていて不動であるとサンクチュアリは考えています。
その内容は最低12人以上の、できれば男子が望まれるが、お子様をお生みになられ、お父様の心情と血統を相続させたことにあります。
御子女様の中に一世として出発された方々が出たことは誠に残念ですが
既にそういう選択をされた以上は、心よりお幸せをお祈りしたいものです。
12人ぎりぎりの攻防です。
亨進様が大反対されたひとつの根拠があります。
真の母の偉大な勝利が失われかねません。
 
したがって、お母様が対象挌位に戻られればなんの問題もございませんが、
対象挌位を離れ主体挌位で祝福を実行されてきたことは、蕩減復帰しなければならなくなってしまいました。
決して真の母を否定するのではなく、かえって他に誰も勝利できない存在であられるので頭を抱えているわけです。
神様が6000年かかって捜され、3人目にして初めて捕まえた女性がお母様です。
神様もお父様も
「お母様を失いたくない。」
とおっしゃられるわけです。
 
聖進様のお母様のことを持ち出されました。
出されるべきでしょうか?
神経が知れません。
また原理原本という一般信徒が見ることができないものを根拠に批判するのもフェアではないと思います。
 
聖進様の御家庭は喩えるならば
日本の国家の守護神のように私は感じ信じてきました。
特にロシアが北海道を占領するかも知れなかった時代に
お父様が日本を守る為に、心情の対象である聖進様を
日本の運命共同体として住んでくださっている大恩を忘れることができません。
聖進様の御家庭に心より感謝いたします。
 
さて家庭連合は聖進様のお母様を取り上げられました。
びっくりしました。
お母様の勝利を信じていないのは家庭教会の方です。
 
3.サンクチュアリ教会の「祝福式」の、もうーつの矛盾
真のお母様が失敗しても、真の御父様と一体化した子女様がおれば、その子女様に、すべての権能を相続させることができるのであろうか。
もしそのような事が可能であれば崔先吉女史が不信しても、真の御父様と一体化された聖進様を中心とする人類救済の摂理が推し進められたはずである。そうすれば、それ以降の延長された摂理は一切必要なかったということになる。しかしそのような摂理は一切なされることはなかった。
 
上述したように、
「お母様の主要な責任は果たされ勝利されていて不動であるとサンクチュアリは考えています。その内容はたとえば最低12人以上の、できれば男子が望まれるが、お子様をお生みになられ、お父様の心情と血統を相続させたことにあります。」
一代ではなく伝統の確立の道を切り開かれた。
 
ところが聖進様のお母様は、現在の韓鶴子お母様と同様
支える基盤がありませんでしたので試練を超えることができませんでした。
そこでお父様は望まれませんでしたが、離婚せざるを得ないよう迫られ離ればなれになりました。12名以上の氏族編成をすることができる子供たちを神の前に捧げる道が塞がれてしまいました。
 
韓鶴子お母様は勝利できたが、聖進様の崔先吉お母様には勝利できなかった世界があるのは事実です。
それを否定しますか?
否定すれば異端だということではなかったでしたか?
 
信徒の支えのなかった母が勝利できなかったので、聖進様には資格があったでしょうが、神には如何ともしがたかったのでしょう。
新たにお母様を立てて人類を生み返していかなければならないことはご存じの通りです。
また、廃妃された子女に相続権がなくなるのは韓国のドラマでお馴染みのことです。
 
どうして真のお母様を侮辱されるのでしょうか?
どうして聖進様のお母様をわざわざ出して辱めるのでしょうか?
必要のないことです。
真の母を愛する心があるというのなら、別の方法ですむようにすべきではありませんか?
 
さて図ですが、ふつうは、文章より図にした方がわかりやすいので図解すると思いますが、
文章よりわかりにくい図ですね。
ただ図を見せながら言葉で説明するぶんには問題がなかったのでしょうね。
 
 一番上の文が家庭連合の主張でしょう。
 
「自分たちの心情の動機に基づいた目的観と方法手段は神霊と真理に一致している」と考える。
 
 
四位基台の主体と対象が逆転して、どうして論理性が保たれるのでしょうか?
元気のない批判でしたので、サラやチッポラに登場して頂き、恵を確認しました。
 
李耀翰先生はこのチッポラの行為が描かれている前の文章に注目したのでしょうか。
モーセは神によって行けと言われたけれども、本来は自らが同朋のためにエジプトで苦労する様子を偵察するなりして、他律的な神に言われて出発するのというような信仰ではなく、言われなくても自発的信仰によって、自発的動機によって出発すべきであったとされ、エジプトに「行け「という主が、行かせず、殺そうとするのは、自発的動機と自発的的信仰を持ってほしかったのだというようなことを語られています。
 
:1)モーセは言った、「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。
:2)主は彼に言われた、「あなたの手にあるそれは何か」。彼は言った、「つえです」。
:3)また言われた、「それを地に投げなさい」。彼がそれを地に投げると、へびになったので、モーセはその前から身を避けた。
:4)主はモーセに言われた、「あなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。――そこで手を伸ばしてそれを取ると、手のなかでつえとなった。――
:5)これは、彼らの先祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、あなたに現れたのを、彼らに信じさせるためである」。
:6)主はまた彼に言われた、「あなたの手をふところに入れなさい」。彼が手をふところに入れ、それを出すと、手は、らい病にかかって、雪のように白くなっていた。
:7)主は言われた、「手をふところにもどしなさい」。彼は手をふところにもどし、それをふところから出して見ると、回復して、もとの肉のようになっていた。
:8)主は言われた、「彼らがもしあなたを信ぜず、また初めのしるしを認めないならば、後のしるしは信じるであろう。
:9)彼らがもしこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声に聞き従わないならば、あなたはナイル川の水を取って、かわいた地に注ぎなさい。あなたがナイル川から取った水は、かわいた地で血となるであろう」。
:10)モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。
:11)主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。
:12)それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。
:13)モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。
:14)そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。
:15)あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、
:16)彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。
:17)あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」。

 

 モーセは躊躇する傾向があり、神様に頼るところがありました。
他律的ではなく、自発的になれと神は願われたのかも知れません。
 
したがって、我々の日々の信仰も、アベルの御言葉待ち、教会の指示待ちであってはならず、自発的信仰が重要であるというわけです。
自発的信仰を持った者だけが
ミデアンを出発することができ
エジプトを出発することができるのです。
 
最後に天聖経に関する家庭連合の主張を見ておましょう。
 分 派 の 多 く は 、 新 た な 天 ー 国 の 経 典 と し て の 『 天 聖 経 』 の 出 版 に 対 し て 、 御 言 を 改 ざ ん し た と し て 批 判 す る が 、 「 御言 の 改 ざ ん 」 と は 、 御 言 そ の も の を 、 意 味 の 異 な る 別 の 言 葉 に 勝 手 に 書 き 変 え て し ま う こ と を い う 。 真 の お 母 様 は 掲載 す る 御 言 を 必 要 に 応 じ て 入 れ 変 え ら れ た だ け で あ る 。 ニ 冊 の 『 天 聖 經 』 に 掲 載 さ れ た 御 言 は ど れ も 貴 重 な 御 言 集で あ り 、 『 マ ル ス ム 選 集 』 に も と も と 掲 載 さ れ て い る 御 言 を そ の ま ま 引 用 し た も の で あ る 。

 た だ 八 大 教 本 の 『 天 聖 經 』 ( 初 版 ) が 出 版 さ れ 、 何 度 か 修 正 さ れ た 後 に お い て も 、 さ ら な る 修 正 の 必 要 性 を 真 の 御父 様 は 語 っ て お ら れ た 。ま た 『 天 聖 經 』 の 続 編 の 出 版 に つ い て も 言 及 し て お ら れ た 。

① 「 今 日 は 、 『 天 聖 經 』 に 対 す る 内 容 で す が 、 私 が こ れ に 修 正 す る こ と が 多 い の で す 。 『 何 ペ ー ジ 、 何ペ ー ジ を 正 し く

直 す の で す 』 と い う 声 が 聞 こ え て き ま す 」 ( 2009.4.27 )

「 『 天 聖 經 』 、 こ れ が 先 生 が 今 、 出 版 し た の が 、 400 巻 を 中 心 と し て 抜 き 出 し た の で す 。 今 か ら1200 巻 と な る のであり、・・・・
 
『 天 聖 經 』 1 巻 、 2 巻、 3 巻 ま で 出 て こ な け れ ば な り ま せ ん 」 ( 2007.11.27 )

③ 「 ま だ 発 表 し て い な い 『 天 聖 經 』 2 巻、あ る い は 3 巻 と な り 得 る も の が 待 っ て い ま す 」 ( 2008.9.25 )
 
家庭連合が
 「 御言 の 改 ざ ん 」 と は 、 御 言 そ の も の を 、 意 味 の 異 な る 別 の 言 葉 に 勝 手 に 書 き 変 え て し ま う こ と を い う 。
 
 
と言ってお父様文章を引用しています。
証拠だというのです。
まさにその通りでした。
 
 
お父様が願っておられたのは、
「天聖経」で一巻・二巻・三巻と出版されることだったというのです。
まるでお母様の実績として強調するために、お父様の遺志である「天聖経」に統一せず、いろんな名前をお父様とは関係なく、つけて出版されたと言うことではないですか。
 
経典の名称の改竄は嘆かわしいことです