原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

復帰摂理で神はひとり子を捜し求め      ひとり子はひとり女を捜し求める       真の母父ではなく真の父母の挌位で来る

 

メシアは、真の父母として来なければなりません。イエスという方を、キリスト教ではメシアと信ずるのです。救世主として信じます。
真の父母として来るには、どのように来なければならないか? 一人ではだめなのです。真なる父に代わりうる一人の男として出てこなければならないのです。今まで、数多くの宗教は、一人の男を探してきたのです。男の中でも、生活をよくする男を探してきたのが、儒教の教えと見ることができ、霊界を主にした男を探してきたのが、仏教の教えと見ることができるのです。
では、キリスト教は何か? 神様の息子になって、愛する家庭を作ろうというのです。もっと具体的な内容を持って来たのがキリスト教です。それゆえ、神様の前において「私はひとり子」だとイエス様が言われたのです。
ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたら大変なことです。ひとり女がいなければなりません。それで、ひとり女を探して神様を中心として、ひとり子とひとり女が互いに好む場で結婚しなければならないのです。結婚して、神様が縦的な父母として喜び、横的な父母として喜びうる新郎新婦になり、地上で息子娘を産まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。そういうことではないですか?
それゆえ、イエス様においてイスラエルの国に背いてでも、ユダヤ教に背いてでもいちばん必要としたのがありますが、それが何か? 再び探しうる主体的動機が何か? まさに女です。男の前に女がなくてはいけません。
イエス様は、そのみ旨を成せなかったために死んでいきながら「私は新郎であり、あなたがたは新婦だ」と言ったのです。こうして、キリスト教では二千年間新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信者たちが新婦になろうと、もがいてきているのです。
その標準が何か? それがメシアですが、真なる父母の位置を持って合わせるのです。それが子羊の婚宴です、子羊の婚宴。(五八・二一八)

天聖経 真の父母 第1章 「真の父母」とは 5)「真の父母」とは何か ①二つの石版と「真の父母」

 

宗教は「ひとり子」で止まらざるを得なかったが、

善の天使長圏の教えなので個人の救いを語るという限界を持っていた。

 

「数多くの宗教は、一人の男を探してきた」

「生活をよくする男を探してきたのが、儒教の教え」

「霊界を主にした男を探してきたのが、仏教の教え」

「神様の息子になって、愛する家庭を作ろうというのです。もっと具体的な内容を持って来たのがキリスト教

 

 とお父様が語られるように、

復帰摂理が求めてきたのは、

 

先ず「ひとり子」であり、次に「ひとり女」の順である。

神が「ひとり子」を求めだし、「ひとり子」は「ひとり女」を求め出す。

 

復帰摂理の主体が「独生子」であり

復帰摂理の対象、すなわち「独生子」の対象が「独生女」となる。

 

従って、韓氏韓族大韓民国主体格にすえて、摂理を語ることはできない

私は韓国の歴史に詳しくはないが、韓氏が国家レベルで活躍したという話を聞いたことがない。

三韓は韓国の本流ではなかったのではないか?

 

 

天地間において、天が先か、地が先か? 地天か、天地か? 父母も、父母か、母父か? 夫婦も「夫」の字と「婦」の字が逆さまになった婦夫か、正しくなった夫婦か?(正しくなった夫婦です)。地天を願う人はいません。全部天地を願います。
それゆえ、何が先になるべきか? 天が先になるべきです。その次には、何になるべきか? 地が先になるべきです。そして、父母がいますが、父母は、なぜ母が先にならず、父が先か? そうだといって女を無視するのではないのです。
聞いてみなさい。女も良くなるのです。(笑い) 父母は「父」の字が先になければなりません。「母」の字をじっと見れば、これは面白いのです。じっと見ると、このようにして、このようにして、このようにして、こうなります。(板書される) これは何かというと「女」の字を二つ持って逆さまに固めておいたものです。分かりますか? そうでしょう? それは本当に面白いのです。それが「母」の字です。
女という字は、本当に面白いです。これも女、これも女ですが、これを逆さまにこのようにしておいたのです。女を二人くっつけておいたのです。そうでしょう? 逆さまに持ってきて合わせたのです。そうではないですか? それが母です。
それゆえ、天の心を持った母にならなければならず、地の心を持った母にならなければなりません。言い換えれば、天の心を持った女になり、地の女を代表した心を持った女になって、その二つの心を合わせておいてこそ母になるのです。

天聖経 真の父母 第5章 天国と「真の父母」

 

お父様という方は、頭のてっぺんからつま先まで、全て原理である。

右手から始まるのか、右足から始まるのか、それとも反対か

我々凡人とは違い原理原則に徹しておられた。

特に「真の父母」に関しては少しもその原則を譲ることができない。

先ず、天地を例にして

 

「天地間において、天が先か、地が先か? 地天か、天地か?」

「地天を願う人はいません。全部天地を願います。」 

「天が先になるべきです。その次には、何になるべきか? 地が先になるべきです。」

 

次には父母を説明。

 

「父母も、父母か、母父か?」

「夫婦も「夫」の字と「婦」の字が逆さまになった婦夫か、正しくなった夫婦か?」

(正しくなった夫婦です)

「何が先になるべきか?」

「父母がいますが、父母は、なぜ母が先にならず、父が先か? そうだといって女を無視するのではないのです。」

「父母は「父」の字が先になければなりません。」

 

では、聖和以降早々に牧会者養成教材にある三位一体はどうでしょう?

すでに基元節以降の渡韓修の講義から違っていた?|この道どの道

 

三大王権・真の御父様に帰ろう!참아버님 문형진님 문신준님 !: 家庭連合(協会)三位一体論に対する試論、とあるサンクチュアリ人のレポート(あくまでも個人の見解・非公認です。)

 

父母の位相が母父に逆転して、天地がひっくり返ってしまった。

 

統一教会は自ら分派の道を選び歩み始めているようである。

牧会者が異常な教義、異端教義をもって教育養成され続けている現実がある。

 

何故声高に、亨進様が原理講論も聖典であると説教で激しく語るのか?

原理講論が聖典であったらまずいと思う人々がいるのである。

聖典をはずすか、せめて準聖典にでも落として、

新しい捏造された教義の妨げにならないようにするためであったことだろう。

 

独生女神学の行き着くところは「真の母父」である。

たとえ言葉では「真の父母」と語ったところで変わりはしない。

 

何故ご用意した左右の椅子が問題なのか?

重要だからである。

誰がどちらの席か?

韓国の風習だから死んだ人の写真ははずして当然?

何処の宗教団体に、創始者である教祖の写真をわざわざはずすところがあろうか?

常に信徒と共にいるのが教祖である。

教団に写真が飾ってある人が教祖である。

至極当然、当たり前の事実。

では、わざわざはずさなければならない意図は?

ひとりの写真に替えなければならない理由は?

お二人が並んでも、左右入れ替わらせた写真にしなければならない理由は?

 

お母さまに毒を盛るような忠誠は即止めよ!

見給え!

お母さまの病状は心身共に悪化し、祝福の催しを欠席するほどである。

善進様に手を引かれ支えられることが多くなり、グラスをはめてははずされる。