原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

パウロの牧会書簡をどう学ぶか         新約聖書翻訳委員会訳「パウロ書簡」 と   和英対照聖書を推薦する

牧会ができるようになるには、原理講論と生活が結びつかないと、なかなかで来ません。

講論を生活に応用できるようになるためには、ヨハネ先生の書籍に学んで相続することが近道です。

講論は成約の御言葉ですから、旧約と新約のエッセンスを通過した上で理解すると、わかりやすいのです。

この旧約と新約の違いを説明しているのが、パウロです。

このパウロが実際に多くの宣教活動をしている教会に牧会指導しているのが、牧会書簡として知られている新約聖書の手紙類です。

そこでパウロの牧会のスタイルを学ぶことが我々にとって有効になります。

ではどうやって効率的に時間を短縮して学ぶことができ

ではどうやって効果的に我々の血肉になるように学ぶことができるのでしょうか?

何かそれぞれの手紙の解説書を求めていたら、何冊も読まなくてはならなくなります。

精々パウロの書簡で1~2冊が限度であろうと思います。

それ以上は本人の意思任せです。

本当は一冊であればとてもいいのです。

今のところ見当たりませんが、

仏典などでは、下手をすると

先ず漢文があり、次に読み下し文があり、口語訳があり、その説明文があり、さらに重要な用語や今日わかりにくい言葉などの注があります。

本当に不自由なものです。

地元の図書館でなにかないかと思ってキリスト教関連の書棚の前に立つと、

荒井献・佐藤研の両氏が責任編集された、新約聖書全5冊 がありました。

さて、この中にはパウロによる書簡の本があります。

カウンセラーの上に指導官としてスーパーバイザーがつくことがありますが、

パウロもまた牧会者のスーパーバイザーでした。

我々末端の信徒が自分の生活を聖別するための言葉であること以上に、一般信徒を養育指導する牧会者のために語られた色彩が強いものになっています。

そこで祝福二世の皆さんには、パウロによる牧会の姿を聖書を深く読み解いていくことによって、牧会者となるための基礎的素養を身につけていくことは望ましいことになります。

聖書の翻訳は平易な文章にすると、わかりやすいのですが、そのことによって真意が伝わりにくくなることがあります。

先日このブログでは、パウロがキリストの「子たる身分」をクリスチャンが授かっているというところを、英文で紹介し、子というのが「実子」の意味ではなく「養子」の意味であることをお話ししました。

ところがこの新約聖書翻訳委員会によるパウロの書簡は、カギ括弧を多用して、正確な意味を伝えるような配慮が文章に施されていて、、文章とその説明がひとつになったような形をしています。

実にわかりやすい文章で、しかも真意が伝わりやすいものです。

先に口語訳聖書を、次にこの本の文章を掲載します。

図書館でこの本を見つけた時、神が私に初めに開かせた2ページに以下の文章がありました。

 

ガラテヤ人への手紙4章21節~31節です。

 

21)律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。 :22)そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 :23)女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。 :24)さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。 :25)ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。 :26)しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。 :27)すなわち、こう書いてある、

「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、

産みの苦しみを知らない女よ。

ひとり者となっている女は多くの子を産み、

その数は、夫ある女の子らよりも多い」。

:28)兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。 :29)しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。 :30)しかし、聖書はなんと言っているか。「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。 :31)だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。

 

次は新約聖書翻訳委員会訳です。

 

 律法のもとにいた(くてたまらな)い者たちよ、私に答えなさい。あなたがたは律法を聞こうとしないのか。なぜならば、(次のように)書かれているからである。(すなわち)アブラハムは二人の息子をもっていた。一人は女奴隷から(生まれたイシュマエルであり)、一人は自由人の女から(生まれたイサクである)。しかし、女奴隷からの子は肉によって生まれたのであるが、自由人の女からの子は、約束によるのである。これらは比喩的に言われている。というのも、彼女たちは二つの契約(のことを指しているの)だからである。すなわち、一人はシナイ山から(出て)、奴隷の身分となる(子を)産むのであり、それはハガルである。ハガルとはアラビア語ではシナイ山のことであり、今日のエルサレムに相当する。それは、自らの子供たちと共に(現在)奴隷となっているからである。しかし、(天)上のエルサレムは自由人の女(すなわちサラ)であり、この彼女がわれわれの母である。なぜならば、(次のように)書かれているからである。

 子を産んだことのない不妊の女よ、喜べ。

 産みの苦しみを苦しまない女よ、歓声をあげ、そして叫べ。

 なぜなら、よるべない女の(産む)子供たちは数多く、夫をもつ女の子

 供たちよりも多いのだから。

 ここで兄弟達よ、あなた方こそが、イサクにならった約束の子供たちなのである。しかし、かっての肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害したように、そのように今もまた(同じことがなされている)。しかし、聖書は何を言っているか。女奴隷と彼女の息子をあなたは追い出せ。なぜなら、女奴隷の息子は、自由の女の息子と共に相続することは決してしてはならないのだから。それゆえに兄弟達よ、私たちは女奴隷の子供なのではなく、自由の女の子供なのである。

 

 

新約聖書〈4〉パウロ書簡

新約聖書〈4〉パウロ書簡

 

 

 

新約聖書〈5〉パウロの名による書簡・公同書簡・ヨハネの黙示録

新約聖書〈5〉パウロの名による書簡・公同書簡・ヨハネの黙示録

 

 

これは黙示録も理解しやすいです。

 

どうでしょうか。とてもわかりやすくはないでしょうか。

ぜひ地元の図書館にこの本がないか、図書館のホームページや図書館のパソコンの検索から、あるかどうか調べてみてください。良書は閲覧者が少なく通常の棚ではないところにあることもあり、棚だけでは所在がわからないことがあります。

 

せっかく神様がここを見よとお示しになったので

ここから何を受け取るべきでしょうか?

パウロの話しは

アブラハムの二人の息子は比喩的に語られている

① サラ(自由人の女)→約束によって生まれる→イサク(子)=財産の相続

② ハガル(女奴隷)→肉によって生まれる→イシュマエル(奴隷の子)=相続無し

 

「肉によって生まれる」を訳者は「アブラハムの肉欲によって」の意か。

と注しているが、これは間違いです。

人間は霊と肉からなる存在です。

霊、すなわち霊人体と

肉、すなわち肉身との

二重体でです。

「見えるところの肉身とその行為や行動によって義とされる律法によって生まれる

ということで、それにたいして「霊によって生まれる」ということは、

「見えない霊人体の表す動機=信仰によって義とされる福音によって生まれる」

ということです。

霊界は本音が現象化する世界ですから、本心から神様やキリストまた御言葉を信じていないと、その世界では生きにくく不自由になります。

前者を肉的契約とよび、後者を霊的契約と呼ぶことができます。

そこで、

「(天)上のエルサレムは自由人の女(すなわちサラ)であり、この彼女がわれわれの母である。」

ここで言う「天上」のエルサレムも霊的なもので、シナイ山や今日のエルサレムが肉的なものというのと対比されます。

この説明では、イエス様はメシアとして来られたが、堕落した人類始祖の原罪を背負った堕落人間を創造本然の人間に生み変えて復帰していくためには、人類の真の母となる花嫁を迎えて、子羊の結婚を為して、お二人がアダムとエバが果たせなかった真の父母理想を成就して取り戻さなければならなかったわけです。

主の花嫁を迎える前にイエス様が殺されてしまったので、地上天国実現への道が塞がれてしまい、それでも人類に責任を持つため、イエス様は十字架上で自らをとりなしの供え物として捧げ、その血の代価で人類に霊的な命の道を切り開き、墓中三日の地獄路程で勝利復活され、地上に君臨し続けるサタンに対して、イエス様を信じる心の世界に霊的にのみ王国を築かれました。

その際に、本来必要なのが創造本然の女性でしたが、予定されていた方はイエス様当時おられたでしょうが、実際には結婚ができませんでした。

根拠はありませんが、私には婚約まではされていたかも知れないのではないかと思うことがあります。もしそうであるのなら、復活した時に主に相見えた女なのかも知れません。しかし、人類の母になる方はそれなりの信仰の勝利を果たしていなければならないでしょう。

するとイエス様の相対者に代わって、人類を霊的に悔い改めと感謝に導き、生み返すことができる女性、聖霊の役事をなされる方は、限られてくると考えられます。

上記の御言葉はサラが聖霊の役事を為すことができる女性であることを暗示していると見ることができます。

 

 キリスト教徒はイサクの約束にならった、パウロは

「兄弟達よ、あなた方こそが、イサクにならった約束の子供たちなのである。」

と語りかけています。

 

我々も真の母の絶対信仰の勝利があって、霊肉ともなる新生に与っていることを心底より実感して、感謝しないと、霊界に行ってこんなはずではなかったと永遠の悔いを残すことになることでしょう。

 

何しろパウロが語った御霊による子たる身分とは、霊的な恵であったために、実際に生み返された実子ではなく、霊的な子すなわち養子であって、それ以上ではないのです。信徒の偽装する反対派のような主張をしていたら大変なことになります。

 

 ところで、聖書は各国の言語で訳されてきています。

そこで、例えば三大祝福に関する聖句の「生めよ、ふえよ、」の「生めよ」という言葉が英語では「be fruitfl」となっていて、日本語訳では意味が重複してまっている二つの言葉が、実は違った意味であることがわかり、be furuitfl 「成熟せよ」と「ふえよ」との二つの意味であることが、我々にもわかるのです。

私のように中学英語のレベルで留まっている者にも、わかるくらいの平易な英語で聖書は書かれています。さらに既に日本語でなじみのある文章を知っていて、その上で英語の文章を読むのはとても楽だというのが実感です。

この文がここに相当するのかと辿ればよいし、日本語の言葉もこれが英語のそれかと非常にわかりやすいのです。

そこで、国際舞台で活躍される機会の多い、祝福二世の皆さんは、和英対照聖書をもって学習されては如何でしょうか?

私は昔の中学英語程度ですが、平易な英語を読んだ方が文意がわかることがしばしばあることに驚いています。ですから若い皆さんには、聖書ばかりか原理講論も日英対照原理講論や日韓対照原理講論がずっと前にできていなければなりませんでした。

光言社の努力不足といわれても仕方がないでしょうし、教会責任者もそれを下支えして信徒に普及するようすべきでしょう。

お母様が二世とただ声を挙げただけではありません。

重要な資産を売却して、二世教育に傾斜投入しているのです。

ラスベガスには誰が宣教に行くのでしょうか?

 

和英対照の聖書は自分が実際手にして選ぶのが一番ですが、いくつかポイントをあげると

 

1,伝道や聖書の内容を比較的普及している表現で学びたいですか?

2,中学生や高校生で英語の学習、特に基本動詞と前置詞をどのように使ってあらゆることが表現されうるかを知るために学んでもみたいですか?

3,携帯性が必要なら、重さや大きさは大丈夫ですか?

4,文字の大きさが自分にはちょうど良いですか?

5,ハードカバーとソフトカバーを気にしますか?

6,原理講論に引用されている新欽定訳の英語が良いですか?

7,残念ながら日本語口語訳の和英対照ものは無いようです。

 

個人的には、バイリンガル聖書なんかがどうでしょうかと思います。

 

 

 

 

バイリンガル聖書・新約 2nd Edition

バイリンガル聖書・新約 2nd Edition

 

 

現在大変普及しているNIVという英訳が用いられています。高校のテストみたいに難しい英文ではありません。

 

 

新約聖書―英和対照新改訳/新欽定訳

新約聖書―英和対照新改訳/新欽定訳

 

 

 

私が手持ちの原理講論は70年代後半か、80年代前半のものなので最近の事情は確認しないといけないかも知れませんが、新欽定訳が原理講論に今も用いられているとすれば、この本は新約だけはあるようです。

 

 

新共同訳―和英対照聖書NITEV44DI

新共同訳―和英対照聖書NITEV44DI

 

 

 

中型和英対照新約聖書 (新共同訳/TEV)

中型和英対照新約聖書 (新共同訳/TEV)

 

 

これらは本当に親しみやすい中学英語です。

中学・高校生はこれぐらいからでも良いでしょう。

基本動詞と前置詞の使い方を最近では句動詞などとも言うようですが、

コミュニケーションの為には重要な学習の観点であると思います。

 

昔は誰かが原理講論の中の聖句を全てワープロで起こしてくれた方がいて、コピーして使ったものです。

光言社も出してはいかがでしょうか?

それ以外は割り切って日本語の部分は、口語訳以外でもよしとして、初めから和英対照の聖書を持って学んではどうでしょうか?

若い方にはお薦めしたいと思います。