原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神山元会長をパウロが叱る!

コリント人への手紙第1章10節~13節には、

 

10 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧めるみな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。

11 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。

12 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。

13 キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。

 

パウロは当時の牧会者たちが、それぞれの意見を主張して分派活動を展開して、言い争うことの非を諫めておられる。

 

このことは、我々信仰を持つ者にとって大切なことは

論点がどうのとか、

論拠がどうのとか、

そうしたことの重要性よりも

主張する者の立場がどこにあるかということを示唆している。

信仰においては二つの立場のいずれかしかないことは

我々信徒のすべてが知っていることである。

「神の立場」と「私の立場」のいずれかである。

天使長ルーシェル(ルシファー)は仕える霊でありながら、

「私の立場」をとった。

人類始祖の誕生と成長以前においては、天使界や被造世界の愛の基たる存在であり、神の愛が彼を通して全ての存在に行き渡るような立場であった。

ところがこの立場は僕として神様から預かった「愛の基」としての立場であり

神様の実子としてアダムとエバが誕生してからは、彼らに引き継がれるものであった。

ところが天使長ルーシェルは「神の立場」に立つことができず

「私の立場」をもって堕落失墜しサタンとなって変わり果てたのであった。

「私の立場」は部分の立場、分裂の立場であり、

「神の立場」は全体の立場、統一の立場である。

難しいことではない。誰もが知っていることである。

 

神山が教会に討論を求めて、今日に至っている。

彼の立場は如何なる立場であろうか?

それを信徒の皆さんはしっかり見極めなければならない。

彼の主張をみていると

1,御言葉の実体であられる真のお父様

2,そのお父様が語られた御言葉

3,真のお母様

という序列が読みとられるように思われる。

お母様の序列が御言葉より下位にあるのは

お母様がお父様の御言葉を逸脱していると主張し、根拠としてお父様のお言葉を挙げている。

ところが、神山はお母様に対するお父様の言葉には故意に普遍性をもって語り非難し、一方自分がお父様によって叱責を受けた件については、一般に自分に限らずよくあることであり、自分はお父様の指示に従いその場で「私の言葉ではなくお父様の言葉にしたがって下さい」言ったので問題ないとしている。

仮にお母様に対するお父様のご注意があったとしても、どうしてずっとお父様の指示にお母様が従わないと言えるのか?神山自身はその後指示に従い、お母様は違うというのは、図々しい自己弁護の何ものでもなく、公平さを欠く卑怯な方法である。

私は彼は本当の意味においては悔い改められなかったと見ている。

お父様の叱責は神山が日本を代表しているので、「日本が失敗した」というような内容になっている。しかもその損害は想像を絶するものである。

もし神山がこの点を神の前に悔い改めていたならば、今日遅まきにでも反論文の中に、日本の信徒全員にむかって、「ただし、私の責任不履行によって、日本全体の失敗だとお父様が審判されたことは、皆様日本の全信徒に対して心よりお詫びし、取りかえすことができない結果をもたらした責任全ては、私の不徳の致すところであったと、告白し心より悔い改めます。」と一筆加えるべきであった。

従って、ことの重要性を一つも理解していない神山を信用できはしない。

またお母様には、神山自身擁護の論理が同様に用いられないのはどういうことであろうか?情けない。

<教会の「声明文」と「第三弾」に対する反論と提案> という神山の文章は

講演を始めた頃のしどろもどろな感じからは、随分違ってきて、巧妙になってきている。参謀たちがついているのか、サタンがついにどっぷりは入ってしまったからであるかも知れない。

かっては神の次に御言葉や御旨を知る存在であったのが天使長ルーシェルであった。

そのためにお父様の祈りの第一番目に挙げられてきたものは

「神よ、我にサタン以上の知恵をお与えください」であった。

仮にお母様を非難する根拠としてあげられている事柄があったとして、

どうしてその後お母様がお父様の指示を無視し続けたと言えるであろうか?

神山が自身を擁護した論法で、何故お母様は擁護されないのか?

保身のために真の母を売り飛ばす情けない奴め。

 

神山は追いつめられているので、初めの頃は、お母様を愛していると言っていたのに、ついにはお母様批判の急先鋒に立ってしまったのである。

哀れな男よ。

本部は、私が会議の後で話したこととして、「神山氏は、『自分は目から鱗(うろこ)が落ちた。お父様は、顯進様のことをあきらめておられることが分かった』とまで語り・・」(ボート会議の否定に対する反論)と書いています。


まず私は、「目からウロコが落ちる」という言葉を、今まで一度も使ったことがありません。この情報を提供した人の思い込みではないでしょうか。さらに、私はお父様に近くで接して、お父様が何かをあきらめることなど決してしない方であるのをよく知っています。お父様は最後の最後まで、「顕進が帰って来なければ、基元節はあり得ない」といっておられた方です。

 

 神山はいつもやる手だが、質問には直接答えることをせず、質問の周辺に答える手法を頻繁にとる。つまり、かたすかし、はぐらかしである。

 

「目からウロコが落ちる」という言葉は使ったことがないとはいうが、それに続く肝腎な「お父様は、顯進様のことをあきらめておられることが分かった』とまで語り・・・についてははっきりとは否定しない。言ったからであろう。その代わりにお父様の言葉、「顕進が帰って来なければ、基元節はあり得ない」をそこに持ってきて、目くらましという語り口である。

 

 お父様は最後の最後まで、「顕進が帰って来なければ、基元節はあり得ない」といっておられたということが、事実であったとしても

 

間違った支え方する者たちと別行動が続いたので

代わりに先に、国進様と亨進様が歴史的な一体化を勝利されて

特別な儀式がなされたのである。

神山よ、とんでもない侍義の結果をどうしてくれるのだろうか?

 

お二人の勝利によって紀元節を迎えることができたのである。

亨進様が後継者となった次には、

顕進様と国進様とが見事に勝利されるようお仕えしお支えするのが、

神山に対する神の御心である。

何人も真の御家庭が一体化する道を塞いではならない。

 

お父様が名誉会長の称号を下さったというのなら

誰が何と言おうと剥奪しようがどうでも良いことではないか?

お父様が私の心をご存知であると思うのなら、

言いたいものには言わせておき、

剥奪したいものには剥奪されるままにし

天下晴れた心で暮らせば良いではないか?

父とあなたの秘密で良いではないか?

何故じたばた足掻き続けるのであろうか?

見苦しいと思わないのであろうか?

 

御言葉は統一のため使い

分裂のために使うべきではない。

パウロはあなたにそう語っているのである。