原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

興進様の祝福二世教育と 早期立志の確立の重要性 ①明恵上人に学ぶ

興進様が天から帰ってこられ、アフリカの宣教師の子女教育をされたことがあった。

我々はともすれば人間的に子女を育てがちであり、そのため子女の中に依然として神性が眠り続けることになり、子供の有様がこの世の子供と何ら変わらないような横的雰囲気を醸し出すに留まっている姿を見かけることもある。

これに対して興進様の教育は徹底したものであったと聞く。

あっという間に子供たちが今まで見せたことがなかった神性が輝き始めたという。

完全なる主体が立てば完全なる対象が立つと言うわけである。

近頃のこの世の親たちは何かに付け学校に子女教育の責任を追及するが、教育の主体は常に親にある。

さて我々統一教会においてもやはり同じようなもので、教会頼り、修練会頼り、留学頼り、神学校頼り・・・・。

モーゼの頃は一切そういうものはなかった。

若い頃はモーゼが母親によって選民教育を徹底的に教えられたことをよく聞いたものである。私だけではあるまい。

ところがいざ実際に自分が子供を育てることになると、すっかりその事を忘れてしまう信徒が実に多いように思えた。祝福二世教育が選民教育であり、そのためにはモーゼの母親の如く何を教えなければならぬかはっきり自覚していなければならない。赤子の時から膝に乗せて母親の祈りを聞かせる習慣を行っていて然るべきであろう。ところが我々の実体はさにあらず、一世がその親から接せられてきた様子とほぼ変わらぬ様相で、二世は育てられることとなり、本来一直線にカナンに向かって人生を歩んでいくはずのものが、親によって迂回の道を与えられているようなものであり、今日までの二世問題の主体的原因は親や教会の放任問題が大きい。

教会はSTFをもって現在は責任を果たそうとしている。

しかし、たとえJr.STFからはじめても遅いのである。

ピアノでもスケートでも野球やサッカーでも早期から上質な教育を継続して受けてきた者の中から大人になって大成する者が現れてくるように、信仰の世界も例外ではないことが、日本の高僧の伝記を見ると頭角を現すのは幼少からであることが分かる。原罪を背負って生まれてきた者でさえそうなのである。

そこで相対者にたいしては、、御言葉を熱心に学んで子供にやさしく語ってくれれさえすればとか、一緒にことある毎に祈ってあげてくれさえすればと願うのが、まともな男性信徒の望むところの一つであろう。エバは御言葉を軽んじ母の立場に立つことを放棄した。故に全ての統一女性信徒は御言葉を貴重視し、命より重んじなければ復帰の道を行くことができない。これが問題である。また御言葉に混乱した際に神に尋ねることをしなかった。すなわち我々で言えば祈りの重要性を実践しないことになる。

興進様は早朝より子供たちを鍛え上げ、立派な祈祷をする子供たちに変身させたと聞いた。親たちがびっくりするほど信仰的な香りのする子供たちに変わったと聞いた。

その子供たちは今頃どうしているのであろうか?

 

では明恵上人の場合はどうであったのか?

紀野一義氏の「静かな透明な生き方 明恵上人」によってピックアップしていきたい。この明恵上人は華厳宗の僧侶で法然の選択本願に対して異議を唱えた方であるが、非常に公平な立場で、特に法然が尊敬していた僧侶の本を根拠として批判したので、批判のための批判ではなく実に誠実な真理に対する姿勢を伺うことができるものであり、見事なものである。

 

明恵上人2歳

乳母に抱かれ清水寺に参詣し、僧侶たちが礼拝しお経を唱和しているのを聞いて

「何と思ひ分きたることはなかりしかども、(何がどうと分かったわけではないが)、心澄みて尊く覚えた」

と言う。その後で乳母が催し物が行われている方に移動したが、そんなものは見たくないので先の所に行こうと泣き叫んでいる。そしてこれについて

「これ、心に覚えて(心の中でちゃんと)仏法を貴く重いし始めなり」

と証しておられる。

 

明恵上人4歳

が戯れに烏帽子を着せて

「形美麗なり、男になして御所へ参らせん」

と言ったのを聞いて、心に密かに思ったことが

「法師にこそ成らんと思うに(なりたいのに)形美しとて男に成さんといふに、片輪づきて(片輪になって)法師に成されん」

それを実行に移して縁側からわざと落ちてみたり、顔を焼いて傷つけようと、先ず火箸を焼いて試しに腕から焼いてみるが、あまりの痛さに思いとどまったという。

 

明恵上人12歳高雄山において

「真正の師を求めて、正しい道を聞かなかったら、無駄に時間を費やすだけで仏道の会得には役に立たず、大損することになるだろう。それに、死の来ることはすみやかで、将来の期待はできない。急いで真正の師を求め、なお山深いところにとじこもって修行しよう。」

そこで薬師堂に詣でて暇を告げ、鎮守八幡大菩薩にも詣でて暇を告げ、早朝に出立しようとしていてまどろみ夢を見た。

高雄を出でて三日坂まで下った時に、大蛇が道に横たわって首をもたげている。また八幡大菩薩のお使いとて、4,5寸もある蜂が飛んできて、

「汝、この山を去るべからず。もし押して去るならば、難にあうであろう。未だ時節が到来していないから、道行も成就しないだろう。」

と告げてきた。そこで明恵はそれに素直に従って山を下りることを止めている。

明恵は霊的な意味をもつ夢をたくさん見た人で「夢記」としてまとめられている。

明恵上人13歳の時、

「今は早13に成りぬ。既に年老いたり、死なん事近づきぬらん、老少不定の習いに、今まで生きたるこそ不思議なれ、古人も学道は火を鑽(き)るが如くなれとこそ云ふに、悠々として過ぐべきに非ずと自ら鞭を打ちて、昼夜不退に道行を励ます。」

 また、この後に実行したことは、

肉身があるから煩悩が生じるのだから、肉身をなくせば煩悩も滅して迷いから解き放たれるに違いないと深刻に捉えて即実行に移したという。つまり自分の体を野犬や狼や狐に食わせようとしたのである。

「傍らなる死人なんどを食う音してからめけれども、我をばよくよく嗅ぎて見て、食ひもせずして犬ども帰りぬ。恐ろしさは限り無し。此の様を見るに、さては如何に身を捨てんと思ふとも、定業ならずば(きまった業がなければ)死すさまじき事にて有りけり(しねないのだ)と知りて、其の後は思ひ止まりぬ。」

 

明恵上人の面白いエピソードに

高山寺に「仏眼仏母(ぶつげんぶつも)」という絵像があり、明恵上人の事物だったとのことである。明恵上人は釈迦如来を父とし、仏眼如来を母として侍る信仰生活をされていたようである。真の父母様を連想させることである。

 

女性関係を持つことなく仏道を全うした僧は日本においては明恵上人と道元ぐらいではないかと云われてきているが、明恵はこのように言っている。

「幼少の時より貴き僧に成らん事を恋ひ願ひしかば、一生不犯にて清浄ならん事を思ひき。然るに何(如何)なる魔の託するにか有りけん、度々に遂に淫事を犯さんとする便り(機会)ありしに、不思議の妨げありて、打ちさまし打ちさましして、終(遂)に志を遂げざりき」

栂尾明恵上人伝

 

真にこのような高潔な人物にこそ、真の父母様にお会いして頂き、祝福を受け御旨成就のため仕えて頂きたかったという思いがこみ上げてくる。

 

彼は律法学者パリサイ人の様ではなかった。

「却廃忘記」の著者長円によれば、明恵は戒律についてこう言っているそうである。

「ただ心のじっぽう(心情?)に実(まこと)にあるふるまひは、をのずから戒法に付合すべき也」

心情を中心として内的規範が形成された、真の振る舞いは、そのままで戒律に付合することができるということか。

 

最後に落ち武者が命からがら明恵上人の元に逃げてきて、そこに追っ手がやって来た際に釈迦如来が前世での偉業の慈悲には遠く及ばないが

「隠してやるなら、袖の中にも、袈裟の下にも隠してやらねばと思ったことでした。これから後も助けてやることでありましょう。この私の行為が幕府の政道にとって難儀である、不都合であるというのなら、即時に愚僧の首を刎(は)ねられよ」

自分が如何に窮地に陥ったとしても、

見捨てることができず

見過ごすことができず

置いて過ぎ去って行くことができない心情

明恵上人も真の父母様もそのような道を

追随者である我々に実体で示して下さっているのである。

 

次回は盤珪禅師に学びたい。