授受作用というのは、われわれの日常生活での各種コミュニケーションに関係している。
ところで、この授受作用も人間の心情を出発点としてなされている。
「心情」というのは「相手を愛することによって幸せにすることで喜びを得ようとする情的な衝動」のことであった。
この心情には、喜びを求める目的性と自他の情的結合性という二つの特徴がある。
そこで授受作用の形成においても、目的性、言い換えると目的合理性が特徴として存在し、ロジカルなコミュニケーションの側面が生じるようになっている。
一方、情的結合性はエモーショナルなコミュニケーションの側面を表し、情的な共感に集約される。
これらのものは表裏一体の不可分なものであるが、ある時は論理が主役になり、ある時は情的共感が主役となる。
前者は会話が目的達成のための手段になり、ビジネス環境ではこのような明確な会話がなされるのが普通であろう。
後者は会話という授受作用そのものが目的化されており、会話自体を楽しむことに主眼が置かれていると言える。
いずれにしても、根底には心情がある。
「言葉ではなく、言葉を言わせたものが大切である」というのは、コミュニケーションにとって最も基本的な視点である。
受け手は常に受動的であるのではなく、主体的な対象となることもある。舌足らずな言葉で語られた内容であっても、受け手が主体的に汲み取り共感することがわれわれにはしばしばある。
それでもコミュニケーションは成立していると言えるであろう。
ある状況の中で体験したことを通して生じてきた貴重な感情が、人から人に伝えられ共感できれば幸いである。
私なぞは極めて表層的な言葉の理解にすぎない段階で、「わかった」としてしまう傾向がある。それでも聞き続けていればいいものであるが、「こうこうこういうことね。」とやってしまうものなら、いよいよ相手が話そうとする確信の感情に至らないであろう。
これがカウンセリングであったら大変なことになる。
カウンセリングではラポールと呼ばれる信頼関係をクライアントとの間に築くことの重要性が指摘される。人と人の横的信頼基盤である。
これに対して牧会カウンセリングは、すでに信頼関係が築かれたところから始まる。
AがBに牧会する際には通常祈祷から始まる。祈りはその時その時の導きの中で言葉が与えられるものではあるが、一般的には以下のような内容が含まれるであろう。
「神様がこの場に臨在され、私たちを主管してくださり、我らの思いではなく神様の御心によって、正しい道に導いてくださることを切にお祈り申し上げます。・・・」
神とAとの絶対的な信頼関係が信仰であり、同様に神とBにおいても絶対的な信頼関係である信仰が既に形成されている。
そこで、各々神との縦的信頼関係がそのまま横的な人と人との信頼関係を形成するのである。しかもはじめから深い信頼関係でスタートできるのである。
ところでロジャーズという人がブーバーの「我と汝」の思想と自分のカウンセリングの思想が似ている、と対談でブーバーに言った際に、ブーバーからは否定され、その根拠としてロジャーズのカウンセリングはカウンセラーとカウンセリングを受ける人が対等でないからだと言われたそうである。
ロジャーズのカウンセリングは来談者中心療法などと訳され、一般にカウンセリングする側もされる側も対等な関係で知られている。
ブーバーの対等でないという真意は知らないが、ここでは統一原理に基づく見解を語るとすれば、上記の牧会の祈祷を思い出せば明らかである。
つまり、平等とは直ちに人間間に存在するものではない。
神が愛する、神の貴重な個性を分け与えられた人と人の間に存在するものである。
そこでインドでは、私の中の神様があなたの中の神様に挨拶するという意味の「ナマステ」という言葉で挨拶するのである。
実に素晴らしい言葉である。
教会で神様や信仰について語り合うときに、教会長や教育部長等という役職や、信仰歴、祝福の序列で神が働く人とその言葉を求めるだけであるとしたら、随分貧しい集団になってしまうことであろう。
誰を通して神がその場にいる我々に何を語ろうとされ悟らされようとお考えなのか?それを求めて共に恩恵に浴したいものである。
聖日礼拝も各週に聖職者がしなければならない時代から、月一くらいにして、その他の週は信徒が説教してみても良いであろう。
ある時は八百屋さんが、またある時は米作りの農家の方が、また技術者や看護婦・セールスマン・・・。その仕事でしか出会えない神様を共に享受する恵に与れば幸いなことであろう。聖職者は彼らの説教の支援をすればよい。
目前に見る人々よりも、見えざる神の実在感が圧倒的に上回る臨在感や超越感をもって日々の生活に隠された恵の一つ一つを噛みしめていきたいものである。