原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 統一思考 イエス様の統一智(無分別智)と理化学研究所提唱者 渋沢栄一の思想

1917年に東京都文京区駒込に設立された理研は、今はあの世からしっかり見守っているかのように、渋沢栄一の生まれ育った埼玉に本部がある。

渋沢の提唱によって皇族から御下賜金を賜り、政府から助成金、民間から寄付金を得て設立に至ったのだという。

国家の繁栄のため皇・官・民が一体となって立ち上げたわけである。

この理研の構想を提唱した渋沢栄一は一体どんな思想の持ち主なのであろうか?渋沢は「論語と算盤」などの著書でお馴染みの道徳経済合一説を展開した人物である。

ところでイエス様の統一智(無分別智)とは全体と個・公益と私益・またわたしとあなたの間に境界の無い統一された存在の視点でものごとを見るということであった。以上を念頭に置いて渋沢の言葉を辿ってみることにする。

渋沢は事業成立の四箇条を掲げている。(企業家の心得)

(1)その事業ははたして成立すべきものやいなやを探求すること。

(2)個人も利するとともに国家社会も利する事業なるやいなやを知ること。

(3)その企業が時機に適合するやいなやを判断すること。

(4)事業成立の暁においてその経営者に適当なる人物ありやいなやを考えうること。

このうち(2)については、「たとえ国家社会の公益になるとはいえ、永遠に収支相償わぬような事業は決して成立するものではない」ことは勿論である。

わたしが理研現体制に疑問を少し感じている、組織のトップについては(4)に人物が問題であるとしている。

「いかなる事業でも人物を得なければだめであるということを述べたのである。すべて社会における諸事業は人物ありてのちのことで、資本がいかに豊富でも、計画がいかに立派でも、それを経営してゆく者に適材を得なければ、資本も計画も畢竟無意味なものになってしまう。」

とその真意を説明されている。また別の文章に「事業そのものにはべつに国家的事業とか、国益的産業とかいうように、とりたてて数うべきものはない。あるとすれば事業のすべてが皆それである。かくのごとく事業に差別がないとすれば、これが国家のためとなり、社会の利益となるようにするのは、事業そのものよりも、むしろこれを運為(運営)する『人物』のいかんにある。事業家各自の心事によることである。ゆえに事業家たるものはよろしく自重し覚醒して、国家的観念の外一歩も出でざらんことを努められたい。これが事業家にとって唯一の武器であると、余は信じて疑わぬのである。」(事業家と国家的観念)とある。

建前においては経済活動は道徳的に行われるべきだという方は多いことだろう。だが日本の資本主義の黎明期に500以上の会社の設立に関わり、有言実行してきた渋沢栄一は希有の存在である。本人が財閥を築こうとすればいとも簡単だったであろうが、そのような選択肢はなかったのである。見事の一言である。それらの立ち上げた企業の中には現在われわれが知っている会社がいくつもある。キリンビールサッポロビール、帝国ホテルなど色々である。

一体どうしてそのように財閥を形成しないかといえば、次のような言葉がある。

「悪運という言葉はよく人の口にするところであるが、世にはこの悪運が強くて成功したかのように見える人がないでもない。しかし人を観るに、単に成功とか失敗とかを標準とするのが根底の誤解ではあるまいか。およそ人は『人たるの務め』すなわち『人道』を標準として、一身の行路を決めねばならぬ。誰しも人たるの務めを先にし、道理を行うて世を益し、しかしてこの間に己を立てていくということを理想としてもらいたい。世にいわゆる成功失敗のごときはまったく問題外で、仮に悪運に乗じて成功した者があろうが、善人の中に運つたなく失敗した者があろうが、それらをもって羨望したり悲観したりするには当たらぬではないか。ただ人は人たるの務めをまっとうすることに心がけ、自己の責務を果たしてゆけば、もって安ずるに足るはずである。かの成功失敗のごときは、いわば丹精した人の身に残る糟粕(カス)のようなものである。」(成敗を意とするなかれ)

渋沢はかって政治家の道も考えたことがあった。しかし自分の持ち味を考えてみると経済で国益に貢献する道を選んだのであった。それでも国会議員たちの体たらくを見かねて進言することもあったようである。今日の国会において時折問題となる党議拘束に関しては、渋沢はどの様な意見を持ったのであろうか?

「団体がその中から一人の代議士を送るということは、現にその例のあることであるが、しかしその推されたる代議士はどこまでもその団体に拘束されて、代議士としての独自一個の意見を述ぶることのできぬようでは、それは真の国民を代表とした代議士とはいわれぬ。もし代議士が自己の推されたる同業者の団体に重きをおきすぎて、国政を論ずるというよりも、その団体の利益を先にするがごときは、それは総代の寄合のようなもので、一個の議会とはいえぬ。元来議会なるものは、すべての階級を代表した、すなわち広き意味の国民の代表の集まりであって、ある一部の国民を代表としたものの集会ではない。」(実業家と政治)

ある団体に属して例えば一つの薬の法案が出てきたとすれば、それが医者にもよく一般の人にもよく、売薬業者にもよければ結構なことだとしている。

全体と部分の調和、国益と私益の一致が渋沢の発言には随所に見られる。仏教においても悟られた方は無分別智を語り、イエス様も神の国の統一性、即ち統一智によって問題を捉えているように見える。宗教というよりは倫理道徳に近い論語の世界に道を求めた渋沢が辿り着いた地点も、やはり同様の境地を伺わせていることは、実に興味深いことである。

かれはあらゆる宗教の垣根を越えて、本質が帰一するという信念から、帰一協会を設立した。

四書五経を素直に信じて素読し暗唱して、自身の見解と行動の基礎に据えていたような、寺子屋や私塾の中に見られた教育は、人物を多く排出してきたのであるが、今日は頭の良い人はたくさん現れたが、人物が現れにくくなったことは、ひどく残念なことである。

道徳教育の教科書をつくれば、短絡に一定の思想を国民に植え付けるのかと反発する、ヒステリックな知識人たちを憂慮するものである。

渋沢に限らず、同時代の人々には、現代では死語になっている「大義」が活き活きと存在していた。その大義という中心軸に貫かれて、全体と個、公益と私益が統一されていたかもしれぬ。

「義公叢書」の中に、義公のまだ幼い頃、父頼房公の膝元に侍して父の質問に答えたエピソードを渋沢が語っている。

「もし我そのもと(おまえ)とともに戦場に出でたる際、不幸にして手傷を負うてたおれることがあったならば、そのもとは定めし親切に介抱してくれることであろうな」

との問いに対し、義公は容姿を正して、

「父上よ、そは私にできからぬところであります。私はしりぞいて傷に悩まるる父上を御介抱申し上げんよりは、さらに進んで父上を傷つけたる敵をたおさんことに努めまする。由来戦場に敵と戦うものは、天下万衆に代わって邪を討つものでありますれば、これすなわち大義であります。それゆえ父子の小情をもって大義を誤ることをいたしたくはありませぬ」

と答えたので、父頼房公も、

「いかにもあっぱれな覚悟だ。それでこそわが子として恥ずかしからぬというもの」

と、大いに悦ばれたとのことである。(事業家と国家的観念)

このエピソードを読んで思い出したのが、三国志演義徐庶の母である。徐庶劉備元徳に単福という偽名で使えていた人で、孔明龐統と並ぶ三大知謀であると共に親孝行者として知られていた。程昱の計略で母親に偽った手紙で母親の元に引き寄せ、劉備のもとを離れ曹操の配下にくだる。

息子が帰ってきた理由を知った母親が人望のある劉備の元で働く息子を誇りにしていたのに、偽りであれ本物であれ母の事情に天下の職務を放棄するとは何事かとばかり、叱責するのである。そしてついには自害してしまう。母親は徐庶に義公のようにあってほしかったらしい。

公的な覚悟を持った立派な母親である。このことは我々は我が子を私物化してその可能性を憚ってはならないという戒めであろう。公的と私的を一如で捉えることができる人間は本物である。先人に多くを学び身を正していきたいものである。

以上の渋沢栄一の言葉はすべて村山孚先生の「渋沢栄一翁、経済人を叱る」という本に因っている。村山先生は広く中国の人生哲学に通じておられ、渋沢という人物を厳選した本人の文章を通して、見事に紹介してくださっている。1992年11月の出版であり現在では良書がたくさんあるかも知れぬが、村山先生に対して、多くの渋沢の言葉からその気概を伝えてくださった良書作成の尽力に敬意を深く表したい。当時は別のかたの本が脚光を浴びていて残念でならなかったことを覚えている。