原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

真の御母様の来日に思う 天一国時代における日本統一教会の組織変革

日本が失われた20年を取り戻す為の岐路に立ち、政府が英断を果たさねばならぬこの時に、天運を、韓鶴子 真の御母様が来日と共に携えて下さり、誠に感謝するしだいである。

21世紀はとっくに始まり、天一国時代も始まっている。

ところがである。我々の信仰でもっとも語られる「アベル・カイン」は、日頃接する人間関係にのみ使われることが多いようで、嘆かわしい。

まずアベル・カインと言うときには、御子女様が我々のアベルであり、復帰された我々はカインであるという認識が肝要である。

ルカによる福音書によれば、洗礼ヨハネは母エリザベツの胎中にあった際に、マリアの懐妊、すなわちイエス様が宿られたことを知り、踊り喜んだ。ここまでは良かったのではあるが、様々な複雑な事情により、生まれてから後は別行動をとり続けてしまったのである。

信仰のある洗礼ヨハネにとっても彼を取り巻く事情は想像を絶するものであった。気の毒であり、残念なことである。

次にアベル・カインと言えば、二世がアベルであり、一世がカインであるという自覚であるが、如何であろうか?

これを応用するならば、「あなたはメシアによって祝福を受けられましたね。原罪を精算されましたね。そうするとあなたの子供はイエス様と同じ神の子であるわけだね?」という理屈になる。

その時あなたが「勿論」と言えれば合格である。

何が合格かと言えば、真の父母様をメシアとして本当に信じているという信仰告白だからである。

ところがである。「神の子であるか?」と尋ねられて「・・・」となり、「ではサタンの子か?」と言われれば「それは違う。」となる。「誰の子か?」とさらに問いつめられれば、自分たち夫婦の子としか言えなくなるかも知れない。

そうなれば一体この世の結婚した夫婦とその間に生まれた子供達と何処が違うのかという問題になるのである。

かって顕進様がだいぶ前にマスコミのインタビューを受けた際の、御父様を誰と思うか?という質問に対するお答えを、恐れ多くも吟味させて頂いた。

我々も同様に、祝福を受けて生まれてきた子供達を神の子と信じるか?という問いに答えた自らの言葉にメシア観が表れるのである。

祝福家庭はイエス様の家庭のヨセフとマリアのように、一度の貴重な啓示(夢)に対する信仰を放棄することなく、一度の貴重な啓示(祝福)に対する信仰を死守しなければならないのである。

蕩減上避けて通ることができない問題だからである。

生まれてきた子供を自分の子供と受け取るならば、オリーブの木に接ぎ木されなかったという帰結に至るので、悔い改めねばなるまい。つまり真の御父母様をメシアとして信じていないと言う告白なのである。文鮮明 恵父は原罪を精算することができる権能を神から許諾されていないと言うに等しいからである。サタンがそのことを見逃すであろうか?不可能である。

二世問題の本質は、実は一世の信仰問題なのである。

そのことに気がつかなければ二世が生きる道を閉ざされてしまうのである。

深刻な問題である。思うに日本統一教会会長の仕事で、メシアの入国問題と並んで最優先すべき重要事項であるが、歴代の会長は具体的方針を示さず、今回真の御母様が動き出す結果になったことは、悔い改めるべきことであり、我々が先ずもって解決に乗り出すべき問題であった。

我々は兄弟の子供達を神の子として、教会の尊い財産として考え、接してきたであろうか?誰かの子供ではないのである。

かぐや姫の話の如く、本来育てることが許される資格も資質も兼ね備えていない者たちが、神様から預けられて、代わりにお世話することになった、代理の父母のようなものである。

決して私的に、我が子として扱ってはならないのである。そこのところを勘違いすれば、天賦の神才は現れることなく、堕落世界で生まれ育った親の人間的な資質しか自分には持ち合わせていないと、子供達が勘違いして育ってしまうのである。

あたかも子供の頃から杭に縄で縛られて育てられていた象が、大きくなっても引き抜いていくことができないと思うが如くである。

親によって神の子であることを否定されてきたことが二世の担っている十字架であり、神様ですら考えもしなかったことなのである。

イエス様が両親から迫害を受け死ぬより辛い道を行かれ、家出して辿り着いた教会で、哀れに思った神が御使いを遣わし、実はあなたは生ける神の子キリストであると告げられ、既に両親もそのことを告げられていたことを知り、探しに来た母マリアに「私が父のところにいることをあなたは知らないのか?」と嘆かれたのである。

統一教会の信徒であれば誰もが知っているこの事実ではあるにもかかわらず、自らの家庭に当てはめて考えるものがほとんどいなかったことは、二世の魂が彷徨う原因となってしまったのである。

月からやってきたかぐや姫が成人して月に帰っていったように、レバレント・ムーンから預かった子供を立派に育てて、子供達と過ごした幸せの日々に感謝して、再びレバレント・ムーンの元に返して行くことがごく自然の道筋であろう。

決して、かぐや姫の育ての親のように、この世に引き留めてはならないのである。

日本海を真っ二つに引き裂く神の奇跡に与り、神の偉業を讃えることよりも、如何にして何気ない日常生活の中に、無限の神の祝福と御愛を感じることができるかが、信仰の妙味である。

家庭の中の一人一人に神の愛を見出すことができないとすれば、三対象の愛は妄想であり、統一原理は真理ではないであろう。

真の御父様が君たちの子女に審判を受ける日が来るという意味には、いくつもの内容があろうと思うが、これもその一つである。

文鮮明 恵父は信じることができるが、われわれ夫婦から生まれてきた子供を神の子と信じることができないというのであれば、これほど真の御父様を侮辱し、その心情を蹂躙することはないであろう。

この信仰観が組織観にも見事に現れているように思えるのである。

未だに日本統一教会の会長が二世ではなく一世であり続けるのは何事か!

この状態をおかしいと思わないとはどういう原理観から出てくる結論なのであろうか?市中引き回しの刑より恥ずかしい事態だと感じるならば、日本統一教会は大きく発展するであろう。

会長職ではなく要職も、どんどん二世に継承させていかなければならない。

それを寂しいと思うようであれば天使長と同じである。

堕落世界という人類前史に生まれた一世と違い、創造本然の世界に向けて再創造使命をもって生まれてきたのが二世である。

俺たちの方が真の御父様と共に歩んできたので、事情も心情も何でも知っているから、二世には任せられない。

こう考えるならば、人間が生まれる前に神様と共に天地創造の御業を遂行して来た天使長が、私を中心に三代祝福をさせて天国を造らせて下さいと神に迫るようなものである。

一世は善の天使長と心得るべし。

さて、12双のお子様ではないかと思うが、堀さん等の献身者も出てきていると聞く、久保木会長がトップになったのは、30代後半ぐらいではなかったか?遅くとも40前後であろう。若い人たちに希望を与えるべきである。

徳野会長は以前の会長時代に、一部の信徒が問題を起こし社会を騒がせた責任を取って辞任されたことがあった。亨進様が肩書きには何も意味がないと言うような説教に感じることがありそのようにされたようである。立派なことである。

神は再び彼をトップに用いたのである。

初代会長の久保木先生は実にオーラがある人物であった。世の中の人にも多くのファンがあった。久保木会長の後に久保木無しである。おそらく以後の会長に重みを感じた人は皆無に等しいのではないだろうか?

しかし、これは一面、久保木先生の責任でもある。どの企業でもトップは現在の業績や発展に貢献しなければならないが、また後継者の育成も同等に重要な責任である。かりに直接的に指導育成ができなかったとしても、間接的にでも良いから、人材が育つ組織風土であるとか、リーダーを輩出する仕組みであるとか、何らかの環境の整備を為さなければならないはずである。

残念ながら、久保木先生はその点充分に使命を果たされたとは言えないであろう。

では、徳野会長がなすべきことは何か?

次期会長に二世を立てることである。そして「俺が全部結果責任を取ると公言するから、安心して自由に思う存分やりたいようにしなさい。院政を敷く様なこともしない。何か一世の経験が必要なときには、何でも聞きなさい。」

そのように言ってあげるべきである。

徳野会長が野に下り、白洲次郎が言うカントリー・ジェントルマンになれば、一級の人物と言うことになろう。

勿論、機を見ることは言うまでもないことである。

明恵上人は、「ひとはあるべきよう」を維持するべきだという。

「僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきよう、帝王は帝王のあるべきよう」を持つべきであるという。

ブログを一息ついていたが、考えるというテーマではなく信仰とはというテーマで書けと神がささやいているように思うときがある。

ふと今日はいつもとは違う思いを綴ってみることにした。

私が神に導かれて信仰を持った時のような教会の良き風景が最近感じられなくなってきている気がするからであり、気がかりに思うからである。

20日頃にまた書きたいと思う。