原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

アメリカの大統領選挙と7年の艱難を終えて

サタン世界の攻勢を受けて立つには、この7年の患難時代はピラミッド組織でもよかろうと思っていたが、縦的関係ばかりの関係性だけでは心情文化は到底できない。

これからは横的関係性も発展させるべき時が来たと感じる。

献身してハバラという人にどこで働きたいかと聞かれ「一番厳しいところに行きたい」と言った。そこは私が想像したのとは全く違う意味で私にとっては厳しいところだった。

勤労青年に信仰の話をしたら、

「何故君が主管するのか?」と支部長に聞かれた。即座に、

「兄弟なのに何故信仰の話をしてはいけないのですか?」

するとしばらく支部長は考え込んで

「自分は勤労青年に甘かったかもしれない」と言った。

 

赴任した教会の教会長は横山といい後には全国の伝道部長になった。

彼が信徒にキリスト教の講義を2回したのだが、

パウロの教えはイエス様の教えとは違うのでは?」というと

藤林という女性が立ち上がりキリキリ声で

「あなたはパウロより偉いというの!」と怒鳴られ袋叩きだった。

横山教会長も怪訝な顔をしていた。

内村鑑三が通った札幌農学校北海道大学の前身だ。

統一原理を学び、そこを出て何でこんなことがわからないのだ。

キリスト教とは良くも悪くもパウロ教ではないか!

 

原研とは違い縦的な軍隊のような主管関係、つまりアベル・カインという硬直した伝統がUCに徹底されていることをその後まざまざと見ることになった。

何故教会がこのようであるのだろうか?

勿論責任者によっての違いはある。

しかし、何故神霊とは違うものがあるのだろうか?

 

一体これはどういうことなのか?

 

日本聖殿もあまり変わらない。

はじめのことはわからない。

しかし、信徒協約という律法ができてからおかしくなった。

一年後の改訂に期待したが全く変わらなかった。

私の考えでは信仰信条があればいいと思っていた。

協会の運営については別に決めればいいと考えていた。

しかし、身動きできない状態だったので他のメンバーにほとんど任せることになった。

 

ベネディクト修道院に憧れる人物が中心になって作ったので戒律的な様相になってしまった。何年もこれが続き文化として定着してしまった。

これを多くの信徒が受け入れたので旧約的な団体になってしまった。

UCと同じで新約を通過しない律法が包むようになってしまった。

 

キリスト教徒であれ我々であれ聖霊体験をした者同士が会えば自ずと分かるものだ。

仏教徒同士でお互いに見性体験があればわかるのに似ている。

賀川豊彦はウェスレーの自伝を翻訳してその秘密を知ろうと思ったのだろう。

では賀川は聖霊体験をしたのか?

書いていないのだからなかったのだろう。

 

成約とはその体験の先にある心情体験の生活のことだ。

復帰する御言葉は教えてあげることができない。

 

お父様が天に向かわれてすべての真実を把握された。

その影響は次には地上にもたらされる。

我が国の歴史も多くの偽りに満ちていることだろう。

また、摂理的な解釈も必要な時が来ていることだろう。

 

わたしはずっと誰がその使命を持っているかと探してきた。

私にはその才がないから。

だが、見当たらなかった。

情報の星に生まれたのでどこに貴重な内容があるのかは天が運んでくれた。

しかし伝えるべき人が見つからない。

思い切ってSNS恩恵交換の場で歴史の解明に必要な情報の書いてある本を見つけたと書いた。誰か個人的に研究している者が声を上げるかもしれないと。

するとロードという者が

「あなたの説など聞きたくない。わたしは百田さんの『日本国紀』を読んだ」

どうだ凄いだろうとばかりに言った。

呆れてものが言えなかった。

その程度のものでどうして歴史の解明ができるというのか?

あまりのレベルの低さにもうこりゃだめだと閑念した。

 

食口には内弁慶の者が多く、外部の人には物を言えない人が多い。

プライドだけが異常に高く、実際行動では何もできないというわけだ。

ならず者の集まりだから仕方があるまい。

 日本国紀は何十も間違いがあることが広く知られている。

50ぐらいあったかと思う。

改訂版が出るとも言われている。

 

ああそれを神棚に飾って拝んでどんなもんだい!と暮らしているのだろうか。

さらば、日本聖殿!

達者でいてくれ!