原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

機会の平等か結果の平等か 竹中平蔵氏と内橋克人氏の考え 2001年当時

竹中平蔵氏はかって結果の平等か機会の平等かを問う次のような題の論文を書いた。

 

「結果の平等」に固執すれば、社会の成長力は確実に失われる

 

彼は経済的観点から、機会の平等を「成長」に、結果の平等を「安定に」対応させてそのバランスをとることの重要性を指摘した。

 

 いうまでもなく、政策の大目標の一つは社会の安定である。その基礎として、誰もが安心して一定以上の生活水準を享受できることが求められている。戦後日本の所得配分は世界のなかでもきわめて平等であり、これが社会的な安定感の基盤となってきたことは間違いない。とりわけ日本社会が優れていたのは、高い経済成長を実現しながら、同時に所得の平等化を実現したことにあった。通常、所得の成長が高い社会ではどうしても所得格差が拡大し、貧富の差が広がる傾向がある。しかし戦後の日本社会は、成長と所得平等化を同時に実現したのである。

 しかし経済政策には、「安定」の他にもうひとつ「成長」という重要な目標がある。成長を重視すると安定(その基盤にある所得配分の平等)が害なわれる傾向があると述べたが、逆に所得の平等を重視しすぎると成長が害われる危険がある。その典型が、社会主義経済の失敗と崩壊である。努力する者としない者が同じ成果しか得られないのであれば、誰も努力する道を選ばなくなる。これが社会全体に広がると、成長が害われ結果的に社会の安定さえも害われることになる。

 要するにどの社会にも、成長と安定の過度なバランスを保つことが求められる。国民は、市場経済カニズムを通じてどの程度のインセンティブを与えるか、そして所得不平等を容認するかという問題について、社会的な選択をしなければならないのである。

 

竹中氏は累所得税の進課税が低所得者に優しい仕組みであったが、個人の能力や成果を十分に反映するものではなかった事に触れ、社会の所得格差を示す指標である「ジニ係数」をとりあげて、日本のそれが80年代には約0.314で他の先進工業国に比べて低いことからより平等な社会であったという。ジニ係数は1に近いほど不平等であることを示すと言う。しかし、90年代に入って0.365にまで高くなり先進工業国との差がほとんどなくなったことを指摘している。

時代はグローバリゼーションとIT革命が叫ばれていた状況であった。社会がハイリスク・ハイリターンを追求すれば、当然結果の平等は維持しにくくなる。

竹中氏の考える良い社会や良い国家とは、端的に言ってどのようなものなのか?

以下のように説明している。

 

 どんなに努力しても上昇できない、夢のない社会は避けなければならない。しかし、隣人がみるみる成功者となり、これに触発されて自分自身が上昇できるような社会であるならば、一時的な格差があっても決して不安定な社会とはならない。逆に、一見格差が小さな社会でも、それが固定化している場合、決して良い社会とは言えないだろう。その意味で、現状の所得格差が小さいかどうか(いわゆる結果の平等)に固執することなく、誰もが平等にチャレンジできるかどうか(機会の平等)こそを重視しなければならない時代になった。

 

この論文は2001年当時のものだが、同じ年に内橋克人氏も次のような論文を書いている。

 

「機会の平等」が、けっして普遍的価値観ではないことを証明する

 

内橋氏は現在の社会の論調のポイントを次のように語った。

 

「結果の平等」を重視する”過去の”日本は悪平等社会であり、日本社会主義と呼ぶにふさわしいものであり、今日の日本経済社会の停滞と活力喪失の元凶をなしている、などとして原理の入れ替えを迫っている。

 

内橋氏は機会の平等について考察する。

 

 改革提唱者たちが口にする「機会の平等」とはなんだろうか。著者の理解を総括して示せば次のようになる。

① ”自由な”市場競争の結果生じる「経済的(所得)格差」(「結果の不平等」)を追認し、奨励する。

② 市場メカニズムの生み出すリスクの社会化を提唱する。企業の必要とするリスクマネーは社会全体、国民全体の負担とすべき、と説く。個人は貯蓄ではなく株式を、投機を、であり、すなわち個人もリスク・テイキングを、である。

③ このように、誰もがリスクに挑戦する「機会の平等」が与えられ、リッチになることができる代わりに、失敗しても誰を恨むこともない。すべては自立(自律)せる個人の自由と自己責任であるはずだ。

 以上、何よりもこの種の「機会の平等」論は「機会さえ平等であれば、結果は不平等であってよい」という、市場原理主義の文脈において登場した。

 すなわち近代思想史にいう「平等論」として立ち現れたのではなく、逆に「不平等」是認もしくは奨励の経済理論として出現したところに特徴がある。「機会の平等」にしろ「結果の平等」にしろ、つまるところ

経済活動の動機と過程、その結果という狭い領域の中に矮小化されている。

 

イギリスのジョン・ロック自然権などの政治思想の流れでアメリカが「機会の平等」を語るのとは違い、経済的な理由からだとしている。また、アメリカには日本とは違う特殊な環境があったのでそのような思想が根付いたと見ている。

 

 封建制の時代が欠落し、封建社会と不可分の身分制も不在だったアメリカにおいては、奴隷以外は、いかなる他人の意思にも依存することなく、強制されることなく、自らの意思と判断をもって行動し、身体と財産を処分することのできる「自由な状態」が理論上はあり得た。

その後は、アメリカの分析があるが、最後に日本社会の現状分析がされている。

 

「結果の平等」に代えて「機会の平等」論を浮上させた日本経済界が「労働の三分類」を提唱している。(「日本的経営」日経連・95年)。

① 「長期蓄積活用型」=将来、経営に参加させる。少数精鋭でキャリア・アップを促進する。すなわちエリート組である。

② 「高度専門能力活用型」=実績本位の年俸制。昇給なし、退職金なしの「有期雇用」。

③ 「雇用柔軟型」=職務に応じた時給制。昇給なし退職金なしの「有期雇用」(派遣労働ないしパートタイマー)

 

そして、結論としては、「機会の平等=結果の不平等」という側面を訴え、このような言葉で議論を結んでいる。

 

「機会の平等」といい「結果の平等」というが、その意味するところ、現実社会において「働く自由」なのか「働かせる自由」なのか、それがいま、問われているのである。

 

27人のすごい議論 (文春新書)

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以前に書いた以下の記事のあとに今回のことを書く予定であった。

関心のある方は、以前の記事にも目を通されてほしい。

 

選択の自由・結果の平等のいずれの価値を礎に国を造っていくのか? それが問題 - 原理講論を読む

 

 

 マルクスは商品の分析をする中で労働に注目した。

そしてブルジョア資本家に労働者が搾取されているという理論を出した。

それが正しい理論だとはまったく思わないが、

搾取、すなわち泥棒とはなんだろう。

人が汗して投入したものを、ただで自分のものにするということだろう。

すると、高所得者からすれば所得の累進課税とは、汗を流して働いて得たものを国によって取り上げられ、労働を投入していない人々に取り上げられていることになる。

高所得者の善意でなされれば低所得者の感謝で終わるが、もしそうでなければ、

合法的なカツアゲだと考えることもできよう。

そして、利益を得て得したはずの国民も、

みずからの主体性を放棄して国家に隷属し、国家の奴隷になってしまっているともいえるのではないか?

 

「人間は自由なものとして生まれたが、しかもいたるところで鉄鎖につながれている。他の人々の主人であると信じている者も、その人々以上に奴隷であることを免れてはいないのだ。」

ジャン・ジャック・ルソー 「社会契約論」作田啓一

 

 

 

 


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