原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

独生子にエンクロージャーされるか それとも独生女にか それが問題だ 聖和は女帝の出現の契機とはなり得ない

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https://blogs.yahoo.co.jp/igrec_deux/49472041.html より画像を引用

 

いったい誰が聖和された父を愛するのだろうか?

マグダラのマリアたちが主の亡骸を探しまわる中で、御使いは十字架に勝利されて復活した栄光の主を証された。

エス様の肉身を探し、復活体を探す女は幸いである。

再臨主の復活体を求める主の花嫁たちも然り。

家庭連合では、主の花嫁も、弟子たちも

復活の父を探し求めなかった。

亡骸だけを拝み通した。

どんどん復帰摂理軌道を外れていった。

誰が御父に会うことができるだろうか?

 

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《キリストの墓を訪れる聖女たち》モーリス・ドニ|MUSEY[ミュージー] 

より画像を引用

 

:1)さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。

:2)すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。

:3)その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。

:4)見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。

:5)この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、

:6)もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

:7)そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。

:8)そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

:9)すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。

:10)そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

マタイ28章

 

 人々を利用するためではなく、人々に永遠の命をもたらすために

神は御子を与えられた。

御子は誕生の時に「インマヌエル」と名づけるように天使がマリアに伝えた。

「インマヌエル」とは、「神は我らと共にあり」という言葉である。

人が神と共にあるために、神は御子を遣わし、人をエンクロージャーした。

御子による囲い込みは、ともに生きた使徒だけのものではなかった。

また、キリストと共に生きた期間だけのことでもなかった。

神によってインマヌエルと名付けられた御子は、

聖和された直後にも、弟子たちの前に現れて、こう告げてる。

 

見よわたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである

 

 :16)さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。

:17)そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた

:18)イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

:19)それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

:20)あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

マタイ 28章

 

 

肉身を纏う時も、霊身を纏う時も

我らの中心は、聖霊でも、独生女でもない。

実体の神様である真のアダムである。

 

キリストは言う。

 

見よわたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである

 

http://artartspot.blogspot.com/2017/07/blog-post_29.html より以下に引用

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 <2017年春三菱一号館美術館『オルセーのナビ派展』にて>
 小さいサイズの作品です。
 平面的でほぼベタ塗り、そして色と形のコンビネーションです。これはフォーブの先駆けともなるような色使いですが、しかし静かで整ってもいます。フォーブは静かでありません。それにこの作品は素朴であり、フォーブは素朴な感じはあまりないと思います。比較的落ち着いた派手さや原色のない色使いで、フォーブの色使いとも異なります。
 輪郭線があるのはナビ派の特徴でもあります。
 1890年のドニの言葉「絵画が本質的に、一定の秩序のもとに集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを思い起こすべきだ。」この言葉は、この作品の一面を表しています。
 赤色が主調ですが、この赤色はイエスの血の赤色のようです。
 人々の素朴なキリスト信仰のようです。
 磔刑の台座には、パスカルの言葉「私はお前のためにかくも血を流した」と記されています。

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