目的と手段を峻別することは意外に難しいものです。
それにはいくつかの原因があると思われますが、
以下のサイトで村山昇氏が解説する内容もその一つかと思います。
トップの目的と中間層の目的と最下層の目的が必ずしも同じでないとするならば、
言葉の定義から出発してコミュニケーションをとらなければならないでしょう。
天に召された我々が、どうして同じ霊界に住むことができないというのでしょうか?
人は基本的には誰しも目的ある生活をしています。
動物のように裸で生活するわけではないので衣服も必要でしょう。
肉新生活を維持するためには食の糧が必要であり、
雨風などから守る住まいも必要でしょう。
人は物質的環境世界で生活するために働き収入を得ています。
ですが、次の世界の霊的環境世界で充分に暮らすための備えには敏感ではありません。
その世界で光り輝く衣を身に着け
スクルージが食べさせてもらった甘味な食べ物を得て
神様の真の愛が自らの内からあふれるところに住むことができるなら
どんなにかよいでしょう
高い技術を持った人には
低い技術の人が何処にいるのかを知るように
高い目的を持った人には
低い目的を持った人が何処にいるのかがわかります。
ですが、その逆はありません。
それが問題だというのです。
トップはその孤独に堪え
トップはその見えない人々の批判に耐え
すべての人を約束の地へと導かなければなりません。
天の父もまた「神は死んだ」と言われました。
目的と手段がときに入れ替わるのはなぜか? | GLOBIS 知見録 より引用
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私たちは日々の仕事のなかで、自分の目指していることが袋小路に入ってしまうことがよくあります。そんなとき、冷静に原因を分析してみると、いつしか当初の目的がどこかに消えてしまっていて、手段が目的にすり替えられ、それに振り回されていたことに気づきます。今回はそんな目的と手段の関係性についてあらためて考えます。
目的と手段の基本的な形
「目的」とは目指す事柄をいいます。そして、その事柄を実現する行為・方法・要素が「手段」となります。何かを成し遂げようとするとき、目的と手段はセットになっていて、平たく言えば、「~実現のために、~する/~がある」という形になります。たとえば、「平和を守る〈=目的〉ために、署名活動をする〈=手段〉」、「平和を守る〈=目的〉ために、法律がある〈=手段〉」といった具合です。その関係を図に示すとこうなります。
目的と手段は相対的に決まる
さて、冒頭の疑問のように私たちはときとして、何が目的で何が手段であったか混乱してしまう、気がつけば手段が目的に入れ替わっていたなどということがよく起こります。これはなぜでしょう───。それは、目的と手段は目線を置くレベルによって「相対的」に決まるからです。つまり、あるレベルでは目的であったものが、違うレベルでは手段になりえます。それを図でみてみましょう。
図2は、ある一般的な人生の流れを例として描いたものです。レベル1は、小学校低学年のときのことを思い出してください。このころは、「テストでいい点を取る」ために、「しっかり算数を習う・きちんと漢字を覚える」という目的・手段の組み合わせがあります。ところが、レベル2の高校生くらいになると状況が変わってきます。レベル1では目的だった「テストでいい点を取る」は、レベル2では手段となります。その手段の先には、「希望の大学に入り、好きな学問研究をするため」という目的が新たに生じました。さらに人生が進み、就職段階のレベル3にくると、レベル2で目的だった「希望の大学に入り、好きな学問研究をする」は、新たな目的である「専門を生かした就職をするため」の手段となります。
このように、ある1つの目的は、より大きな目的の下では手段となります。つまり、自分がどのレベルに目線を置くかによって、何が目的か、何が手段かが、相対的に決まってくるわけです。自分が常に意欲的になって、ある1つの目的を達成した後、次の新たな目的を掲げ続けるかぎり、この目的/手段の入れ替わりはどこまでも続いていくことになるでしょう。このことは逆方向にも言えることです。何を成したいかという目線が下がってしまえば、やはり目的/手段の入れ替わりが起こります。
「目標は溢れるが、目的の共有されない職場」の問題点
目的について、もう1点重要なことを考えたいと思います。「目的」と「目標」の違いは何でしょうか───?
目標とは、単に目指すべき状態(それは定量的・定性的に表される)や目指すべき具体的なもの(たとえば模範的な人物や特定の場所など)をいいます。そして、そこに意味が付加されて目的となります。意味とはそれを目指す理由であり、その行為に自分が見出している価値や動機のことです。目的と目標の関係を簡潔に表すと、
目的=目標+意味
になります。実際のところ、何か事を成すにあたって、目的の代わりに目標を置くことはできます。しかし、そのとき意味が欠如していると、実行者にとっては「目標疲れ」が生じる危険性があります。昨今の職場に疲弊感がたまっているというのは、実は、向かう先に意味を感じていないがための目標疲れであることが多いのです。
たとえば、売上げ目標が5000万円の営業担当者はその金額に向かって働く。期末になってその数値が達成できたかできなかったかで神経をすり減らします。そして次の期も新たな目標金額を与えられ働く。そしてまた期末には神経をすり減らす……。この繰り返しでは、「目標疲れ」が出て当然です。その目標である5000万円は何につながっているのか、何のための5000万円達成なのかが自分のなかで意義づけされていなければ、本当の力は出ませんし、長く働いていけません。ですから、私たちは目標に意味を加え、目的に昇華させることが大事なのです。
いずれにせよ、目的は目標と意味、この2つの要素がそろってはじめて目的と呼べるようになります。目標なき目的は、単なる理想論・絵空事となるおそれがあります。また、意味なき目的は、単なる割り当て(ノルマ)となるおそれがあります。
ここで、目的と手段について先達たちの言葉を拾っておきます。
「知識の大きな目的は、知識そのものではなく、行為である」
───トマス・ヘンリー・ハクスリー(イギリスの生物学者)
「私の哲学は技術そのものより、思想が大切だというところにある。思想を具現化するための手段として技術があり、また、よき技術のないところからは、よき思想も生まれえない。人間の幸福を技術によって具現化するという技術者の使命が私の哲学であり、誇りである」
───本田宗一郎『私の手が語る』
「最も満足すべき目的とは、ひとつの成功から次の成功へと無限に続いて、決して行き詰ることのない目的である」
───ラッセル『ラッセル幸福論』
「組織は、自らのために存在するのではない。組織は手段である。組織の目的は、人と社会に対する貢献である。あらゆる組織が、自らの目的とするものを明確にするほど力を持つ」
───ピーター・F・ドラッカー『断絶の時代』
【自問リスト】
最後に、今の自分の仕事と自組織の事業の目的/手段について振り返るとどうなるでしょうか。次の問いを自分に投げかけてみてください。
□あなたが今担当している仕事の
・目標は何ですか?
・その目標をやり遂げる意味(自分なりに見出した価値・やりがい・動機・使命)は何ですか?
□あなたの今得ている知識や技術は、何を成すためのものですか?
□今の仕事において、目的は手段を強め、また同時に手段は目的を強めているでしょうか?
□今の仕事上の目的の先に、もうひとつ大きな目的を想像することができますか?
□仕事上の目的目線が下がって、本来手段となるべきことに手をかけるだけで満足していませんか?
□あなたの所属している組織(課や部、会社)の事業目的、存在目的は何ですか?
また、それら目的をメンバーで共有していますか?
□利益(給料)を得ることについて、あなたの組織、あなたはどのレベルの目線(下図参照)で見つめていますか?
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事業部制を採用するような大きな企業もあり、そのそれぞれの組織には目的と手段の相対的な階層があります。
また、小さな会社でも営業部門、経理部門、商品管理部門、配送部門等があるかもしれません。
そこにはやはり目的と手段のピラミッドがあります。
以上は空間的な目的と手段のピラミッドでしたが、
復帰摂理の歴史で、それぞれの過程での目的と手段がどれほど実績に結びついてたかということも
復帰摂理の目的が後になるほど達成されて、後の立場から見ると過去の様相がよくわかるように、
我々の目的も、
過去の目的の上に生きているのか?
現在の目的に生きているのか?
未来の目的に生きているのか?
歴史の連続体として生きているのか?
それが問題だというのです。
ノアが献祭に捧げる鳩を裂かなかったと糾弾し続ければ、
その人はノアの摂理に留まってしまいます。
ノアも失敗したがアブラハムもそうだと永遠と語ることにこだわれば
やはりアブラハムの時の摂理に心は生きています。
その二人の他にもいる。モーセは盤石を一度ではなく二度も打ったので
神はカナンを遠くからお見せになったが、モーセに足を踏ませることがなかったと
繰り返し繰り返しこだわるならば、
むしろその人は現在よりも過去の摂理に生きていると言えましょう。
わたしたちは過去と現在と未来をつなぐ連続体です。
あなたは過去の人々の失敗に永遠と関心を持ち糾弾し続け
どうしても過去の傷に生きたいでしょうか?
どのような時間圏に生きるかは、
あなたの自由と責任に任されています。
あなたは過去に生きる人になりたいですか?
あなたは現在に生きる人になりたいですか?
あなたは未来に生きる人になりたいですか?
[3]復帰摂理歴史と「私」
「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。したがって、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それゆえに「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。したがって、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人たちが達成することのできなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩減復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。
我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者、義人たちに対してこられた神の心情と、彼らを召命された神の根本的な目的、そして彼らに負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。しかし、堕落人間においては、自分一人でこのような立場に立ち得る人間は一人もいない。それゆえに、我々は、復帰摂理の完成者として来られる再臨主を通して、それらのことに関するすべてを知り、また彼を信じ、彼に侍り奉り、彼と一つになることによって、彼と共に、復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件を横的に立て得た立場に立たなければならないのである。このように、復帰摂理の目的を達成するために地上に来た先人たちが歩んだ道を、今日の我々は再び反復して歩まなければならないのである。そればかりでなく、我々は彼らがだれも歩み得ず、取り残した道までも、全部歩まなければならないのである。それゆえに、堕落人間は、復帰摂理の内容を知らなければ、決して命の道を歩むことはできない。我々が復帰原理を詳細に知らなければならない理由は、実はここにあるのである。原理講論 より
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