夢の中だが、文在寅が文句を言いにやって来た。
ニヤけた顔の文在寅が大きな客船の中で私に向かってまっすぐ歩いて来た。
彼は手首を私に差し出した。
そこには彼の腕時計があった。
その丸い文字盤が顔よりも大きくなって、
白い文字盤には私が書いた文章があった。
「このようになるだろう」
文はわたしの性器を掴もうとした。
そこではっとして眼が覚めた。
金正恩のことは考えていたが、
彼のことは全く考えていなかったのに、
何故彼が出てきたのだろう。
絶対「性」!
お父様に続かなくては!
眠りにつく前にたまたまあるブログの記事を見ていた。
そこには神観について書いていた。
この方はとても立派な論理的な感性の文章も書けるのだが、敢えて霊的な感性のままに書いておられるようだ。
おそらくこのブログ記事についての論争がどこか私の頭に潜在的に残っていたのだろう。
目が覚めると次々に浮かんでくることがあった。
以下はその内容と後でそれを元に少しばかり考察したものである。
天の父から何故女性が創造できたのか?
わたしはかって神の創造は反転創造だとした。
今日はもう一寸違った観点から説明してみよう。
サタンは最後の戦法として自分の存在を否定してでも、神の存在も道連れに否定する唯物論を創った。
神の子が自分の存在を否定して、多くの命を生んだことと違って、
自己本位の徹底した姿がそこにあった。
再臨主の晩年には、創世記のエバに囁いたように、サタンは再臨主の妻にも偽りの言葉をもっともらしく語った。
「神様が本陽性と本陰性の中和的主体なら、神様は天の父と天の母の同格的主体です。どうして真の父だけ崇めれれるというのでしょうか?あなたも聖霊の実体、女性神として並び立たないでいられましょうか?原理講論には、このように記述されているではありませんか?」
神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。
原理講論 創造原理
「そうであるならば、イエス様が言われたように神を天の父とするのでは充分ではなく、天の父母様と言うべきではありませんか?
そして、神様から創造された一切の被造物も神様に似た姿で存在しているというではありませんか?
御覧ください。原理講論を。」
今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。
原理講論 創造原理
さて、神の定義だが、
神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。
原理講論 創造原理
お父様は、神の定義の中にある「中和的主体」という表現をしばしばあざ笑った。
何故そのように笑い飛ばしたのだろうか?
二つの主体性(個性)のある溶液を混ぜたら中和された。
中和とは主体とは相容れない言葉である。
わたしはこの「中和的」という表現が嫌いであった。
むしろ「統一的」のほうがしっくりきた。
それでも何か物足りなさは消えなかった。
本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。
原理講論 創造原理
「神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。」
ということを、統一原理の神観としてしっかり表現しているのが以下の文章である。
二つの赤い字で強調した文章がある。
通常は神の定義である後者の方に注目が注がれることだろう。
前者は神と神による天地創造の要約である。
韓鶴子オモニが原理講論を聖典に認定したくない理由がここにある。
被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。
原理講論 創造原理
「被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。」
天の父による地の母の創造である。
夜の神と昼の神の今日的表現である。
もっと率直に言えば、天にはもともと母は存在しないのである。
そんなばかな?と言う人もいるかもしれない。
本陰性はどこに行ったのかと。
これはわれわれが受けてきた陽性と陰性の二性性相の原理講義が先入観になって影響しているのかもしれない。
あの講義では、本陽性と本陰性は50:50に見えてしまう。
だが、一旦そのような講義をしないと難しくてわけがわからなくなってしまうのである。
では、天の母はどこにいるというのか?
地上に天地人真の父母が立ち、真の母が聖和されて初めて
天の母が現れるのである。
存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。
原理講論 創造原理
では、創造主である天の父は如何にして存在しているのか?
天の父に似せて造られた人間と同じである。
人間においても、男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。
原理講論 創造原理
陽陰はある因子の程度の差である、
天の父には陽性があり、この陽性のなかに陰性も(潜在して)ある。これを各々本陽性と本陰性という。
天の父母は存在しないのである。
だから天の父から地の母が現れた。
天の父母という二性の二神が同格であったのではなく、
男性の中にある女性から、女性は創れた。
だから唯一神。
縦的な性相と形状を横的に展開して出てきたのが陽性と陰性。
だから性相世界の天には男性格しか存在しない。
コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。
原理講論 創造原理
そのような無形実体世界の性形を横的に展開して有形実体世界は現れた。
そして、人間が夫婦で完成して聖和されて天を満たした時、無形実体世界も
陽陰が揃う。
真の父と真の母が天に住まれるようになった時に、
天の父母様は初めて誕生するのである。
そして、そのように完成した人間が霊界で祝福を行って天使、すなわちあらゆる霊的存在は陽的存在のみにあらず、陰的存在を持つ。
すなわちあらゆる存在は、
各々それ自体の内部で、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在することができるのである。
原理講論 創造原理
こうして人間は神の創造に似た存在となる。
万物を祝福して天宙の創造は成る。
私はお父様という神のひとり子に同等の基準で相対して、天の父の思想、真の父の思想をお父様の指導の元ここまで見事に纏められた劉孝元先生も天才の中の天才であるとつくづく思う。
その偉大な御言葉の碩学に失礼をお許しいただけるなら、
今日の独生女の反逆が予期できなかった時代から、現在進行する悪辣な時代に移り変わっていることを思う時に、敢えて神の定義を説明するならば以下のような表現も一つの試みかもしれない。
神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。
原理講論 創造原理
神は本性相と本形状の二性性相の統一的性相格主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性の統一的男性格主体であり、被造世界に対しては、性相的男性格主体である。
くどいので統一的主体でも充分かもしれないが、一義的理解はし易いかもしれない。
「心の中の直感をみことばによって確認します。それは重要なことです。」第二代王 文亨進様
神にとって家庭連合が善でないのなら、家庭連合はサタンが愛する悪でしかない。
皆様に神の祝福と加護と導きのあらんことを!
(参考)
夜の神様と昼の神様を創造の二段階に分けて理解してみてはいかが? - 原理講論を読む
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