原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神自体内における本陰性は概念としてのみ存在 被造世界の陽陰の展開は神の絶対「性」の形象的また象徴的展開

最近はいろんな鳥がやって来る。

窓から外を眺めていたら美しい鶴が舞い降りてきた。

こんなところに何故舞い降りてきたのだろうか?

湖でもないのに。

昨日は十数羽の鳥たちが窓際にやって来た。

ツグミのような鳥がベランダの手摺に止まって鳴いている。

ガラスを隔てて立っている私がいるのに驚きもしない。

また、ツグミよりも小さな鳥たちが飛んできては飛び去り

入れ代わり立ち代わり目の前の木立に止まった。

それがずっと続く。

また白い腹と白い尾の鳥もやって来た。

さらには見たことがない蝶のような鳥が数羽やって来て不思議な飛び方をしている。

鳥なのか蝶なのか何なのか現れては飛び立つのも見せず木立の影に消えていく。

九州にオモニが来た会場に蝶のような不思議な生き物が会場の上空に光を受けて

舞っていた時を思い出した。

それは単色だった。

だが、この鳥は南米の鳥のように色鮮やかで優雅に舞っている。

飛ぶというより舞っている。

不思議な鳥だった。

 

数日前にある目的で街を歩き回った。

すると山鳩が現れた。

よく見たらもう一羽いて、番だった。

そこから見えるところに目的のものがあった。

後に行ってみると、想像以上の物があった。

 

一体、木偶の坊のようなわたしがどのようにして生涯の御恩を

神に返せばよいのだろうかと苦しむ胸の内に神は微笑まれた。

 

さて、前回は本陽性と本陰性の二性性相について、原理講論とは違った説明をしてきた。

神自体内には本陽性は実体としてあるが、本陰性は概念としてのみ存在しているとした。

神は男性器を持つが女性器は持たないということであった。

神は創造主だが、女性と女性器は被造物だということだ。

 

神の創造の核心は女性器と女性と被造世界である。

これら三者は対応している。

一言で言えば神の創造とは絶対「性」による創造のことである。

本陽性とか本陰性とか曖昧な表現を理由があってとって来られたが

絶対「性」と絶対性器による創造なのである。

本体論はそのことを明らかにする責任がある。

 

今までは以下のように講義するのが普通であった。

このような講義には、二神論的な罠に陥る危険性が若干あった。

お父様はご自身を真の父とは言わず真の父母と語った。

何故か?

 

独生女理論はこれを根拠としようとしている。

戯けたことを!

 

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父母なる神という言葉を安易に使うと父と母が同格であるかのような誤解を招く。

神学的には解放の神学に近づくことになる。

家庭連合はそのような試練にあっている。

50年間お父様が生きているときには(叱られる)ので言えなかったという独生女の話は、アダム文化を破壊し堕落エバ文化を展開している。

 

何故神自体内では統一されてる陽性と陰性が同等展開せず、格位性をもってあらわれるのか?これが謎であった。神がそうしたとしか言いようがなかった。

ところが絶対「性」以降、本体論の必要性をお父様が訴えられてから

状況が変わってきた。

本陰性は概念としてのみ存在するので格位性が生じるのである。

神は心情である。

その心情を反転対極化した概念どおりに展開して現れたのが

形状的陰性的エバであり、形状的被造世界である。

本陰性的エバである。

このエバを標本にして被造世界の陰性は相似形をもって展開された。

そのエバは神の花嫁として創造された。

したがって神の創造目的は神とエバの結婚であった。

絶対「性」による喜びの創造である。

被造世界の陽陰の授受作用は鉱物界であれ植物界であれ動物界であれ

すべてが絶対「性」の象徴的表現である。

 

これが原理講論では曖昧であった。

 

今日はここまでに。

原理本体論は特に創造原理を絶対「性」の観点から再構築する使命がある。