原理講論を読む

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ムハンマドの結婚と妻たちの記事

ムハンマドには12人の妻たちがいたという。

基本的には、最初の妻であるハディージャを除けばほとんどの妻は戦争などで夫を失った未亡人、寡婦であるという。

したがって当時はこのような境遇の女性が安心して暮らしていけるためには、誰かが引き受けることは社会的にも理解されてきたことのようである。

つまり処女をむやみに娶って男性の欲望の対象として利用してきたわけではないというのがイスラム教徒の考えであるようだ。

だが、3人目の妻であるアーイシャに関しては論争があった。

以下がウィキペディアによるムハンマドの妻の一覧である。

 

ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ - Wikipedia より以下に引用

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ムハンマドの妻一覧[編集]

  1. ハディージャ・ビント・フワイリド
  2. サウダ・ビント・ザムアアラビア語版英語版
  3. アーイシャ・ビント・アブー・バクル
  4. ハフサ・ビント・ウマルアラビア語版英語版
  5. ザイナブ・ビント・フザイマアラビア語版英語版
  6. ウンム・サラマアラビア語版英語版
  7. ザイナブ・ビント・ジャフシュ
  8. ジャワイリーヤ・ビント・ハーリスアラビア語版英語版
  9. ウンム・ハビーバ・ラムラ・ビント・アビー=スフヤーンアラビア語版英語版
  10. サフィーヤ・ビント・フヤイイアラビア語版英語版
  11. マイムーナ・ビント・アル=ハーリスアラビア語版英語版
  12. マーリーヤ・アル=キブティーヤ・ビント・シャムウーンアラビア語版英語版

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結婚に関係するムハンマドに対する批判としてウィキペディアは以下のように紹介している。

 

ムハンマドへの批判 - Wikipedia より引用

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ムハンマドの結婚に関して[編集]

キリスト教世界におけるムハンマドへの批判の主なもののひとつに、彼が一夫多妻であったということがあるとジョン・エスポシト(John Esposito)は述べている[1]。しかしこの問題に関するキリスト教世界の学者たちの意見は近年変わり始めている[2]エスポシトの述べるところによれば、セム系民族の文化は一般に一夫多妻であった(たとえば聖書の書かれた時期、およびそれ以前のユダヤ教など) 。一夫多妻はアラブ人、とりわけ貴族や指導者には通常のことだった[1]ムスリムはしばしば以下のことを指摘した。すなわちムハンマドは彼が25歳の時に、40歳になろうかという未亡人ハディージャと結婚し、彼女が死ぬまでの25年間他に妻を娶らなかった。しかし、ファズルール・ラフマン(Fazlur Rahman)の主張するところによれば、彼が50歳になって以降、とりわけ彼が説教者であり宗教体系の創始者となって以降は一夫一妻を続けることができなくなった[2][1]エスポシトは11回にわたるムハンマドの結婚のほとんどは社会的・政治的原因が存在しているとしている。政治的同盟を強固なものとするのに結婚を用いることは、アラブ人の指導者にとって通常のことであった。又処女性を強調する社会で、寡婦の再婚は著しく困難であった[1]

アーイシャとの結婚に関して[編集]

ムハンマドアーイシャとの結婚はとりわけ論争を呼んでいるが、それは主として彼女の結婚時の年齢に起因している。D. A.スペルバーグ(Denise A. Spellberg)が述べるところによれば、イブン・サードによる伝承ではアーイシャの結婚時の年齢は6歳から7歳であるという[3]。彼女は両親の家に思春期が始まる9歳になるまでとどまり (イブン・ヒシャームによれば10歳)、そして彼女とムハンマドとの結婚は完成された(初夜のセックスを行った)[3][4]スペルバーグの述べるところによれば、アーイシャの年齢に関するこれらの記述はアーイシャの地位と、婉曲的であるものの処女性を強調するという[3]

アーイシャの年齢は、ムハンマドがあまりにも幼い少女とセックスを行ったと考えるいくらかの非ムスリムにとっては特に問題である。非ムスリムの研究者の間では少なからず、とりわけ反イスラーム主義者を中心として、ムハンマドの行為は今日の世界では児童性的虐待にあたり、決して容認できないとする意見が存在している[5]ソマリア出身の反イスラーム主義者のアヤーン・ヒルシ・アリAyaan Hirsi Ali)は、「自分が53歳のときに6歳の女の子と結婚し、9歳のときに結婚を完成させた-初夜の性交を行った-堕落者」と預言者ムハンマドを攻撃した。またアメリカのバプテスト主義の指導者ジェリー・ヴァインズ(Jerry Vines)はムハンマド「邪悪な小児性愛と呼んだ[6][7]ユダヤ教徒プロテスタント主流派の指導者はムスリムとともにジェリーのコメントを糾弾するのに加わった。名誉毀損防止同盟エイブラハム・フォックスマンはこのコメントを嘆かわしいとし、加えてそれが「他の宗教を中傷して、反合法化してきた実績を持っている」南部バプテスト協会の指導部から出されたことは驚くべきことではないとした[7]

ペルシア語とイスラーム史の専門家コリン・ターナーは、そのような成人男子と幼い少女との結婚は当時のベドウィンの慣習であったし、世界の多くの地域でもなお行われており[8]、よってムハンマドの結婚は少なくとも当時の文脈に照らせば不適切ではないと述べた。コリンは7世紀のアラブ人は現代の欧米人より早く体が成熟する傾向があったとも主張している[9]ただし彼は医学の専門家ではなく、具体的にどの程度早いかということも明確にはしていない。コリンの肉体的成熟に関する議論には異論が強い[10]また当時の文脈において仮に「問題ない」としても、現代においてその評価を無批判に再生産する必要があるのかという意見もある。イスラーム法を厳格に施行するイスラーム国家(シーア派12イマーム派のイランやスンナ派ワッハーブ派サウジアラビアなど)では、現代においてもムハンマドの事跡に基づき9歳の少女との結婚・性行為も合法である場合があり、このことも批判の原因となっている。

アーイシャの結婚の年齢が実際に9歳であったかについても議論がある。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーアーイシャムハンマドと結婚した年齢は15歳であったと主張するなど、異論が多い[11]

サフィーヤ・ビント=フヤーイーとの結婚に関して[編集]

サフィーヤ・ビント=フヤーイーはバヌー・ナディール族のユダヤ人女性であり、17歳のときムハンマドの11番目の妻となった[12] イブン・イシャークの伝えるところによれば、ムハンマドは彼女の夫であるキナーナ・イブン=アル・ラービにいくらかの隠された財宝のありかを教えるよう願った。キナーナがそれを拒んだとき、ムハンマドは男に命じて彼を拷問させた。そしてその男は「彼の胸の上に火打石と打ち金を置き、彼が死に掛けるまで火をつけ続けた」という。キナーナはその後首をはねられた[13]ムハンマドは彼女にイスラームへの改宗を求め、カイバルで彼女との結婚を完成させた(初夜のセックスを行った)[14][15]。学者の中にはムハンマドユダヤ人の部族との和睦と善意の表明のためにサフィーヤと結婚することを選んだのだという意見を唱えるものもいる[16][17]

ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して[編集]

ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュムハンマドの従姉妹にあたりごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時にムハンマドがザイナブを見初めたことを機会に、ザイドから離婚して彼女をムハンマドに譲ろうとした[18]。しかしムハンマドは周囲をはばかり「アッラーを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは離婚手続きを済ませてしまった。しかし、すでに息子の妻を父が娶ることを禁止されており信徒たちの間で物議を醸したが、クルアーン第33章37節の啓示による正当性を得られたため、ムハンマドは「養子は本当の親子と同じものではない」[19]、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は自分の妻としても問題はない」[20]とし、627年に彼女を自分の妻とした。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジャフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる[21]

このことに対して、反イスラーム主義者は、『セックスに対する欲望のあまり養子とはいえ息子の嫁を奪った男』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。またクルアーン第33章37節の文言もムハンマドが自身の欲望を満たすために作り上げたものとしている。たとえば9世紀アンダルス殉教したコルドバエウロギウスは自著の中で登場人物に『同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと主張した人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。』といわせ、ムハンマドに罵倒とも思えるほどすさまじい批判を加えている[22]

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ムハンマドが生きていた時代的また社会的背景を考慮すれば、一夫多妻制はそれほど不思議なことではなかったという。

 

彼の結婚遍歴で最初の妻となった女性は、

ムハンマドは彼が25歳の時に、40歳になろうかという未亡人ハディージャと結婚し、彼女が死ぬまでの25年間他に妻を娶らなかった。

いわゆる既婚者、今風に言えば熟女と若いのに結婚したということになろうか。

 

ここで想い起すのは、年齢差はともかく創世記の物語のアダムの立場に似ているということである。

アダムは処女と結婚したのではなかった。

ルーシェルが先に結婚した、ルーシェルの妻になっていたエバ、すなわち既婚者と結婚したのであって処女と結婚したのではなかった。

 

どこかの王国の王子は既婚者の妻にどっぷりで、若き王女が嫁いできても一向に忘れることができず、その夫婦生活は破綻し、女性が亡くなられてから思いの方と結ばれたらしい。

 

堕落世界の男性は性的に目覚めさせられた女性に主管されてしまう傾向があるのだろうか?

 

アーイシャとの結婚が6,7歳でなされ、初夜は初潮が始まった9歳ということは、

1000年以上昔のこととはいえ、現代のわれわれには理解しがたい事のように思われる。

ムハンマドは初めて処女と結ばれ、以後処女を娶ることはなかった。

最初の妻のハディージャとともに特別な存在であったのだろう。

 

今日的には、問題視されている児童婚、小児性愛とみなされることになるようだ。

 

次に、ユダヤ人サーフィヤとの結婚は、彼女の夫キナーナ・イブン=アル・ラービが持つ財産の略奪の末に未亡人となった彼女をムハンマドの妻にしたということのようだ。

 

最後のザイナブに関しては、血筋上は関係がない養子にしたザイドの妻を彼らが離婚した後に娶ったろいうことで、道義的にどうかという論争があるという。

 

 

ムハンマドというと、勇ましい側面がイメージとして湧くが、

彼の結婚遍歴を見るとまた別の人物像が見えてくるのは興味深い。

 

さて、上記の引用サイトにはこのような記述もある。

 

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天国に関する発言について[編集]

イブン・カスィールによれば、ムハンマド『天国では男性は一日100人の処女(フーリー)とセックスが出来る』と述べていた[24]。また、『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』と問いかけた信者に対して、『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』と述べたともしている[25]

別の伝承によれば、 ムハンマド『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』と述べたところ、アナスが『ああ、アッラー使徒よ! そのようなことが出来るのでしょうか!?』と問いかけた、ムハンマド『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』と答えたという[24]ムハンマドの教友の中には、ムハンマド『天国の男たちは処女の花を散らす[26]のに忙しくなる。』といったと伝えている者も居る[27]。このような事柄はムハンマドハディースのみならず、クルアーンにも記されている[28]

このため反イスラーム主義者ムハンマド『天国を売春宿のように捻じ曲げた男』として批判してきた。エウロギウスはムハンマドは彼がキリスト教から取り入れた天国の思想を彼自身の官能的欲求に合わせて作り変えたのだ。』と激しい非難を浴びせた[29]

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ハーレムの本来の意味は違うと言われているが、そのような意味合いを含む言葉が生まれ使われるようになる背景がムハンマドの言葉にあると言えるのかもしれない。