原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

自由2 こころの時代 岡村美穂子氏の「大拙先生とわたし」を見て

 

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一週間くらい前だったか、NHKの番組を見た。

以下のサイトが文字で起こしておられた。感謝。

その中に、私の言葉を青い文字で書いている。 

 

http://o.x0.com/m/496186 より引用 幾分手をかけたところもあります

===

人々の憩いの場になっているここ犀川のほとりで世界的な仏教哲学者鈴木大拙が生まれました
大拙生誕の地本多町には鈴木大拙館が建てられています。
庭には大拙が子どもの頃からあるというくすの木。
館内には展示学習思索3つの空間が設けられています。
大拙の思索と出会い。
また来館者自らも思索する場としてつくられました
大拙は1870年明治3年に生まれました。
日清日露そして2つの世界大戦の時代を生き戦後95歳で亡くなるまで仏教や禅の探究を続けました
二十歳頃から鎌倉・円覚寺で参禅。
自身の心と体を通して学んだ禅や仏教の要を膨大な著作に著しています
明治と昭和合わせて20年に及ぶアメリカ滞在を経て英語の著作をも次々と発表。
東洋思想の真髄を示した人物として西欧社会に広く知られています
鈴木大拙館名誉館長の岡村美穂子さんは最晩年の大拙と15年間行動を共にした人です
初めて出会ったのは大拙が戦後アメリカに渡った時の事。
対立を超えた世界を築こうと東洋の精神を説く大拙を間近に見ています
アメリカで生まれ育った岡村さんは当時15歳
80歳を超えて一人暮らしをする大拙を気遣った両親が、ニューヨークの自宅の一部屋を提供していました。
何のために生きるのか。
深い悩みを抱えていた岡村さんを、大拙は国際会議や宗教者との懇談の場にも伴っています。
岡村さんはそれまで知らなかった東洋の思想について、遠慮ない質問を投げかけまた大拙も率直にこたえています。
そうした二人の足跡を表す資料が展示されています

 

1枚の紙に無の付く言葉がかかれている

 

無意 無事 無極 無窮 無名 無有 無力 無形 無用 莊子

無? 無心 無相 無生 無才 無思 無道 無私 

 

 

「無」が随分並んでるわけなんですけれども、私が大拙先生に最初にお目にかかった時には10代の15歳だったんですけれども、そうすると先生がこれニューヨークだったもんですからね。英語でお話し下さるわけですね。
それで「無」のお話をして下さるもんですから「無ってどういう事ですか」って言ったらばね。こういうふうにその辺の紙を取ってこられて、ぱっぱっぱっとこう「無」のついた漢文から取った述語をね並べて下さったんですこのようにしてね。
そしてこの「無相」と「無心」は仏教的な意味合いがあるという事も、線を引いて下さいましてね。
これだけいろいろ「無」に関する言葉が漢文にはあるんだという話から入門して頂きましてね。


なるほど。


そして10代ですから反抗期ですよね。


はい。


どっちかって人間としてのね。
そういういろいろ人生問題が、私の人生問題があって先生に訴えるわけですよね。
そうするとね先生がこれを書いて下さったんです。

 

孔子曰、 論語 為政第二

十五志学

三十而立

四十而不惑

五十而知天命

六十而耳順

七十而従心所欲不

 


ご自分のねその辺にあった「禅百題」という本なんですけどね。
そこの裏に、カバーのところにですね「十五歳にして学に志す」。


孔子の。


孔子の「論語」の言葉ね。
「三十にして立つ」っていう。
そのずっとこう最後まで「七十にして云々」という「耳順うて矩を踰えず」というような事を書いて下さったんですね。
それで「あなたは今ここにいるんだ」という事を15歳の時の事から始まってね。ず〜っとまだね75。孔子の場合は70歳まで書いておられるわけですよね。
先生はもっと先へ行きましたから、何かあるはずなんですけども。
そしたら「美穂子さんここにあなたはまだいるんだ」と。
「これだけまだ先があるんだ」と。
そういうふうにして地図みたいなものを、人生の地図のようなものを書いて下さって、私を慰めるというんですかね。


まだ若いと。


若いと。
この辺にまだいるじゃないかっていう教えを頂いたっていうのがここにありますの。


なるほど。

大拙が伝えようとした「無」の世界とは何だったのか。
岡村さんが実際に見聞きした大拙の言葉や行動を通してその源をたどります。

 

  色不異空

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 無

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私今度お会いするので、岡村さん最初にお会いしたのがいつごろだったかというのを思い出してみましたらですね。まだ私が京都の放送局にいて東京に転勤する前だったんです。
もう50年以上前なんですけれども。


そうですねはい。


その時に金子大栄先生と曽我量深先生とそれに鈴木大拙先生お三人で講演会がどこか大きな会場であるという事で先生をお迎えに出たんですね。


お〜。


その時はもちろん80を過ぎていらっしゃるんですが、車から降りていらっしゃった大拙先生のあとから若い岡村さんが見えたんです。
それで「えっ?この若い人は何者かしら」と思ってましたので。
鈴木先生が英語で話された。
そしたらもちろん後で分かったんですけれども、岡村さんも英語で誠にこう気楽にお二人話しなされてるんで、どういう方がここへ付いていらっしゃったのかなと思って。
それでもう鈴木先生を会場に案内してもうお別れしたから。
まあ久しぶりにここの鈴木大拙館にお邪魔してみましたら、今お訪ねしてるこのお部屋もすぐそこに「無」という文字がございますが、仏教と「無」というのは非常に関係が深いようでございますが、そういう「無」というのが一番基本にある考えを持つ仏教を岡村さんは、恐らく日本に大拙先生と一緒においでになった頃は、まだ仏教の事もあんまり詳しくご存じなかったんじゃないかと思いますが、その後どういうふうに消化されてといいますか、仏教のあるいは仏法のですね法の味わいみたいなものをこう味わっていらっしゃるようになったのかな、という事をお伺いできればと思っているんですが。

「無」と言われても取りつく島がございませんでしょう。
何も無いと言われたってあるじゃありませんか現実に。


まあ究極の事を申しますとですね。私の今の思ってる究極なんですけれども。

最初に「仏は何か」っていう事が、私まだ10代の初め頃でしたもんですから、仏っていうと親がこう仏教会に行ってね金ピカの…。


ご両親は安芸門徒の方ですから阿弥陀さんになるわけですね。


阿弥陀様なんですね。


阿弥陀如来さんですね。


そうするとそういうこの金ピカの彫刻がある「これ仏さんだ」というふうに思って、そこに向かって合掌するわけなんですけれども、そういう事しか知らないで。
最初の鈴木大拙先生の講演を聞きに行った時に、出だしがですね。皆さんに100人ぐらいおられたかな。アメリカの学生さんと教授の人たちが座ってましたけれども。コロンビア大学だったんですが。そこで大拙先生が「今日は時空を超えたつまり時間と空間を超えた話をさせて頂きます」という出だしなんですね。
ちょっと間を置かれて「それはブッダの話です。
仏の話です」とこれから始まったんですね。
いや〜「時空を超えるとどうなるのかな?」と。
私はその時まだ10代ですから取りつく島がないんですよね。
そういう事をまあそして自分の個人的な悩みもありましたもんですから、子どもですからですねその悩みの話を大拙先生に聞いてもらうわけなんですけど、そういう事も含めてですね「美穂子さんもともと何にもないんだよ」っておっしゃったんですよ。


またそこでも無ですか?何にもないという。


無とは知らないその時はね。
「もともと何もないんだよ美穂子さん」。
つまり次元を変えなさいって言わんばかりの言い方なんですけどもね。
それで次元がもう一つあるなんて思いもしませんわね。
悩んでるんですから。


それはそれはそうですはい。


悩みが目の前にあってそればっかりに自分は集中してるもんですから。
それも少しあんまり取りつく島がないなと思いながら、ずっといたんですよね。
そうするとやがてその「Nothingness」っていう英語で、英語で講演される時「Nothingness」っておっしゃる。
無の事をおっしゃるんですね。
そうすると帰ってきて「先生どういう意味ですか?」ってこう言うわけですね。
そうすると「時空を超えたという仏さんというのは結局測れないんだ美穂子さん」と。


それはそうですわ。


「無限大と永遠を言ってるんだ」ってそういうふうにおっしゃるわけなんです。
まあ言われるとですね永遠と…私たちみんなそうなんですけども永遠と無限は出合ってるのかどうか分からないけれどもどっかで分かるんですよね。
数える事はできないし。
数えるっていう事は何かっていうと無は数えられないそれから計算もできない。


もちろんそうですね。


そうですね。
そういう事に気が付くんですね。
じゃ無って言ったら有の対比ですよね。
有る事と無い事が対立してるような感じじゃないですか。
そうすると「計算するって美穂子さんそれはね、有る有の世界じゃないと計算できないんだぞ」っておっしゃるんですね。


それはそうですわはい。
無は計算できませんよそれははい。


それでそういうようなところから仏は結局時空を超えたものが仏だっていう事になりますと、仏は計算できないわけだという事ですよね。
永遠であり無限であるという事を指して。
そうするとここにある「無」っていう字先生立派なのがありますけれども無っていう事が仏だっていう事に等しいわけなんですね。
そしてそういう事にだんだんこうつながっていくんですね。
私の乏しい頭の中から、あこういう計算できないって、つまり有る事しか計算できないって。
そしたらこういう事をおっしゃったんですね。
「先生どうしてそんな話をしなくちゃいけないんですか?

人間どうして仏が必要なんですか?」ってこう聞いた事あるんですよ。


ええええ。


「なぜ人間は宗教が必要とかね仏って…とか神様とかそういうものどうして私たちが求めなくちゃいけないんですか?」って言ったら「人間は業でな」っておっしゃってね。

その「業」っていうのはどういう業かというとですね。


これもまた問題ですなはい。


他の生き物とね一足先にね進化が起こったんだと。
進化論の。


あ そちらへ行くわけだ。


こっちの方へ頭を持っていって下さるんですね。
「何に進化したか。つまり何が発達したかという事を美穂子さん考えてごらんなさい」って言うんですね。
そうすると「他の生き物にないものが人間だけにあるものは何だろう?」っておっしゃるんですね。
それまあ私いくら考えたって私の頭じゃそれなかなか「何でしょうな?」と思ったりするんですね。
そしたらね「意識というものができちゃったんだ。意識に目覚めたんだ」と。
なるほど。
「意識っていうものは美穂子さん何だろう?」っておっしゃったんですね。


そうですね。

ただ意識も問題ですねはい。


これが人間の業だと言わんばかりなんで、そうとは知らないからその時はね。
そうするとその意識の…意識がどうして、それはすばらしい力だって、科学も意識からの産物であるし、我々の言葉も、ものを考えるという事も全部意識の次元で捉える事、捉えるという事というのは、こっちからこっちへ捉える理解するという事は捉える事じゃないかと。
これはやっぱしこういうふうな捉え方して、我々は理解するんだというふうに教えて下さるわけ。
そうしたら「それができるという事はすばらしい事なんだけれども、一つだけね困った事ができたんだ」っておっしゃったんですね。
「他の生き物はそこからブレないのに、人間だけブレちゃった」って言うわけ。


まあそういう事も言えるでしょうねはい。


ブレるっていうのか離れてしまって、離れた事によって私たちは悩んで、何かが始まるんですね。
「それは何かというと、ものを主観と客観に分ける事が意識なんだ」ってこういうふうにおっしゃったんですね。
主観がここにあって、あそこにあるのが客観だというわけですね。
その主観と客観が分かれるという事は、2点できるっていうわけです2点。
で2点ある事によってつかむ事もできるし、ここに座っててあそこが見えるって分かるっていう事ができるわけなんだってね。
脳みそもきっと2つに分かれて「わしゃ科学者じゃないけど、きっと脳みその中も2つに分かれて、人間の脳みそはちょっとあっち行ったりこっち行ったりする脳みそ」


見る方と見られる方と。


見られる方の。
「2つに分かれてるに違いない」という説明をして下さるんですよね。
それがどうしていけないかという事ですよね。


ただそこを聞いても悩みは消えないでしょう?

 

消えないんですよ。
むしろそれが盛んになる。


そうでしょうね。


悩みが盛んになるんですけどもね。
「ものが2つに分かれるという事は美穂子さん1つであった事があるんだ」。


あそれはそうだ。

 

神様の世界では全てが一つに円和統一されている。

有機的に渾然一体となっている。

その神が造られた被造世界もまた、神に似て有機的な連体を形成されてしかるべきである。

ところで、時空間では、前後左右上下といったように、ものは相対的であったり、相対物で成り立っている。

これらを主体のわたしが客体としての世界を考えれば、主客で二つの分離と見ることもできる。

大拙は「(自己)意識」と表現された。

対象である人や世界と切り離された「自己」の意識が問題であると。

そこで、二つに別れる前の一つの世界に思いを馳せるのである。

わたしも、イエス様には統一智があると語ってきたが、大拙もこのような証があることは、面白いと思う。


「その前があるんだぞ」っておっしゃるんです。
本来があるっていう。


そのとおりですね。


それで「その大本があるんだ」と。
「私たちは大本が動いてるんだ」っておっしゃったんですね。
「そこをね見失ったんだ」っておっしゃったんですね人間は。
つまり賢く…。


理屈としては分かるんですよ。
確かに生まれようと思って生まれた人は一人もいませんし。
大体年取って亡くなるのも、まだ生きたいと思いながらも死んでしまうというのは自分の思いで死ぬわけじゃないし。
要するに思う以前に生まれてる生きてるわけですよねというような事を考えると。


そうそうなんですそう。


分かれる前に。


私たちが思う前があるという事をね。


そこは分かるんです。


そうですね。
それをどうにか我々は2つに分かれるという「迷う」って言うんですよ。
迷いが。


なるほど。
そのとおりですはい。


どっち行こうかあっち右か左か白か黒か善か悪か上か下か前か後ろか。
全部2つに分かれて初めて意識というものが動いてるんだって。
私たちは24時間意識の枠の中で動いてると。
それだからこの大本が見えなくなっちゃったんだってそういう説明をしてる。


はいはい。


つまり私たちはみんな仏なんだけれども仏である事が見えなくなるというか、分からなくなる分かりにくくなるっていうか、そういう説明をして下さいましたね。


でもそれを聞いてまあそこまではね。考えると確かに分かりやすいんですけれども。自分の持ってる悩みがそこで消えて軽くなるかというと、そうはなかなか一足飛びにはつながらないですね。


時空を超えるっていう事がある。
超えるという問題。
「超える」っていう言葉にね非常な大きなあの〜…。
どう言ったらいいのかなそのきっかけがあるわけですね。

 

時空を超えるということは、この世の時空間の拘束を離れるということである。

変わりゆく世界。可変の世界から不変の世界へ移行するための準備期間が、地上における人生である。

この世界を充分に堪能し享受した感性一つを携えて、われわれは永遠不変の絶対価値の世界に旅立つ。

時空を超えるには、この世的次元の全ての享楽から脱却しなければならない。

ヒト、モノ、カネ、コト・・・・

あるものに囚われる心である依存心と、

あるものにこだわる心である執着心を

超克しなければならない。

前述の孔子の人生の航路の道標はそれをもの語っている。


これはもうずっと後になって大拙先生がおっしゃった言葉だという事で、岡村さんから教えて頂いた言葉にですね。人間というのはこう意識がある。
人間が意識で考えるという事はフォーカスであると。
焦点が合ったとこしか考えられない。
これは実は自我エゴであると。
自己中心の考え方で、焦点が当たるところは、無限のそれこそ時空によって時間と空間の中で、そういうものが運ばれてきてるという事に気がつかないと意識は。
焦点が合った途端にもう自分の中心、自分に都合のいい事しか考えないようなその意識の働きが働いてるから、それで現実に起こってる出来事と自分の持ってる問題の悩みというのがうまく調和できないもんだから、そこで悩みが生まれるんだというような説明をされてたという事を伺って「はあこれは宗教というものの一番大事なところをおっしゃってるのかな」と思って受け止めているんですけれど。


結局意識っていうものの一番問題は、相対的にものを見るっていうわけですね。
だから自我っていうもう相対的だ。自分「あなたは私じゃないよ。私はあなたでないよ」って言ってるのが自我ですよね。
しかしそれを言う前の時点というか、同質の時点…同質って言っていいのか。


その前の時点ですね。


もう本来の無分別の時点っていうかな。
もう一つ仏教用語「二元性」っていう二つの元と書いて「二元性」という字を書きますですね。
だから1から始まるんじゃなくて、2の前があるっていう事をね言ってくれてるんですよね。
それが大変まあ分かるようで分からないんですけれども。


「分別」というのは「分」も「分ける」だし「別」も「別ける」ですからもともとは一つのものを分けるところに無分別から分別に分かれると相対になってしまうというそういう事なんでしょうね。


相対になるんですね。
その相対になってどこが悪いかっていうと、今度は対立が起きるんです。


ああなるほどはいはい。


相対が。
はい。
相対2つに分かれるからまあ1つでも、2つと一緒ですよね次元がね。
そうするとどうしてもね。そういうふうにして対立が起きるっていう事はけんかが起きるわけですよね。
まあけんかもそうですし、そうでない時もありますけれども。


悩みというのは自分の中で、けんかが起こってるようなところがありますのでね。


そうなんです。

自分の中も2つに分かれてるというものを考えるっていう事は、2つに分かれた状態がものを考えるという事なんですね。


今のお話を伺いながらですね最初に大拙先生のお話を伺った時の、この大きな会場でのお話の冒頭がですね、江戸時代の至道無難禅師という方の歌を紹介されましてね。

「生きながら死人となりてなりはてて

思いのままにするわざぞよき」

という歌を紹介されましてね。

 

「生きながら死人となりはてて」というのは、

人や世界と分離独立した個である姿から脱却(死)して、連体としての個に至った(死人)ということである。そこで連体としての真の自己に目覚め、初めて本当の自由をつかみ、「思いのままにするわざぞよき」と自由自在を謳歌することになるのである。

すべての存在は二重目的をもつ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。

創造原理 創造目的

 

 

「この歌はおもしろい歌ですなあ」とおっしゃった。
やっぱり死人というのは死んだ人というのは、欲しがらず人を恋せずみたいな事を至道無難禅師も書いていらっしゃるんですね。


ああそうですか。


だから人間の悩みが死んでしまった人にはですね。悩みのもとになってるいわゆる煩悩というのはほとんどなくなってるから、それでいながら「思いのままにするわざぞよき」という言葉が付いてるんで、まあこれはさっきからのその極意といいますか、無を実用的に生きて使うのには、死んだ人のつもりになってやるといいのかなあと。
これはまあ勝手な想像で実際そんな事は、その意識でいないと何も身動きも私なんかできませんのでね。具体的にどうこうという事は言えないんですけれども。何かそういうところに無の具体的な働き…。

 

人や世界と分離していた個が失われたから「無」だというのである。

そこには、実は本当の「有」がある。

それを統一原理は連体だと言うのである。

連体としての個である。

無の実体が明らかにされたのだと私は思う。


ただ「思いのままに」というところが。


そうなんです。


「自由」という意味なんですよね。


そうなんですね。


その自由も仏教用語なんですよね実は。


ところがねその自由なんですけれどももう今若い人なんかがね「もう思うままにやるんだ」と言う場合のその「思いのまま」と大拙先生なんかがおっしゃる仏法の「自由」というのはちょっとニュアンスが違うような気がする。


あのビート族が今の若い者の理解なんですけどね。何でもやればいいって好きなようにやればいいっていう。
それで大拙先生とビート族の大将の人が来たんですよ一度ニューヨークでね。


はい。


大拙先生に会いに来られたんですよ、ビート族の。
ジャック・ケルアックという人なんですけども。
そしたらば大拙先生が「君たちは自由を履き違えてる」という話をまずされましてね。その履き違えてる自由というのは、どう履き違えてるかというとご自分の肘をこう手を出されましてねこうやって「君こっちのここの肘のところがこっちへ動いたら自由か?」って聞いたんです。
ああなるほど。

 

連体としての自由だから、自由と秩序には何の違和感もない。

それがほんとうの自由だと大拙は語ったのだ。

これを統一原理では、原理のない自由はないとした。


はいはい。


「こっちへ曲がって曲がってしまって、こうこっちへ曲がるかも分からんけれども、君は君たちはどう思うか?」ってビート族に聞いたんです。
「痛いだろう」っておっしゃるんですよね。
そして「その上、役に立たんだろう」っておっしゃったんですよね。
この2つの事をおっしゃって、そのビート族はそのジャック・ケルアックは感心してましたですけれどね。
その自由っていう事「自ずから」というのが付いてますね。
「自」っていう自由の自ですよねこれが英語にはないんですわ。


あそうなんですか。


ええ。
「自ずから」っていう意味の自由の意味はないんです。
何かから不自由から自由になるという。
「離れる」意味での。


なるほど。


ですからね、そこんとこの違いをまた教えてましたケルアックさんにね。
だから自ずからでなければ本当の自由はないんだという事。
さっきの大本とか本来とか無分別という仏教のね非常に基本的な考え方にもう一度確認する戻るというこれが大事なんだという話をね。
まあ字が分かりませんから向こうの人は。
しかし「from itself on」こういう英語を使ってですね「off itself」とかねそういう表現を使いながらどっか別のところにあるんじゃないという事を外に探しに行くんじゃないってここにきちっと自分が生まれたオギャッと生まれた時に備わってるんだという事をね教えておられました。


そうしますとそれは人間に与えられている肉体がありますよね。
肉体は与えられてる働きそのままに素直に動ければ自由であると。


そうなんです。
そしてその今の生きながら死人となるっていう事の要はもう一つ言いかえすれば大拙先生は恐らく「無心」とおっしゃると思うんです。


ああそれはそうですよねはいはいはい。

 

私心がないから無心


無心に動く事が我々も既にしてるわけなんだけれども、それをこう意識の上に持ってきたらばですね.。それこそああいう私に初めて大拙先生教えて下さったのは、ムカデがいますでしょ。ムカデは百の足を持ってるんですよね。
そしてその百の足がこうあって動いてるわけなんですけども、誰かがね「ムカデさんムカデさんどの足からあなたは歩くのを始めるんですか?」て聞いたっていうんですね。
そしたらムカデさんがねはてな?」ってこう考えたっていうんです。


ムカデが考えた。


そしたら動かなくなったっていうんですよ。


なるほど。


その百の足がね。


順番どうやっていいか分かんなくなった。

 

意識は分別智、すなわち比較分析知。

無意識は無分別智、すなわち統一智。


もう全然どうしていいか分からなくなった。
無心がなくなっちゃったわけですね。
無心で私たちは「そうだろ美穂子さん」って私が一番問題を持って大拙先生のとこへ問題持っていった時に「手を出せ」っておっしゃったんですよ。
で、手を出したんです私。
「きれいな手じゃないか。
仏の手じゃないか」っておっしゃったんですね。
「何でこれが私の手が仏の手だ?」ってこう思っちゃったわけですね。
「しかしこう動くじゃないか」ってこうやって。
空中にね手をこう動かしてね躍らせてね「こうやって自由に動くじゃないか美穂子さん」っておっしゃったんですよね。
「あなたが作った手か?」っておっしゃるんです。


なるほど。
そこへ来るわけですねはい。


「あんたの親が作ったのか?」ってこうおっしゃるわけですね。
そういうふうにしてですね、その無心であるという事がどこにあるかという事ですね。
やっぱし私たちが意識の上で死なないと、いわば肉体的に死ぬというんじゃなくて自分が思ってる死と生と死を、いっぺん捨てなさいという意味なんですよね禅の方ではね。
「まずいっぺん捨てなさい」ってええおっしゃってましたね。
それと同時にまあいろいろそれにまつわる話がありますけれども。

いっぺん人間はそれを捨てないと本当の自由がないんだという事をその今の至道無難禅師の歌に表れてるんだと思うんですけどもね。


ただちょっと次元は違いますけれども以前伺ったお話の中にですね子どもの頃、太平洋戦争が始まってそれで日本人は強制的に砂漠へ集められて。


収容所アメリカの。

日系人がねはい。


日系人だけ集められて3年ばかり砂漠の中で暮らされた事があって。
そこの日系人の中では稽古事で日本舞踊なんかもされてたわけでしょ?そうですねはい。
日本舞踊の場合はこうやると…。


皆さん何か稽古事をするっていうのが日本人のね文化の中の。
理屈でこうしなさいというんじゃなくてまずたたかれたり足が言う事聞かないと足をたたかれたり。
悪いところをちゃんと体で。


頭で考えちゃ駄目ですからね。
どこが悪いという事をピシッとこう。
具体的に。

たたいて頂く方が分かりやすいですよねうん。


それで何回かやってるうちにそれが自然にできるようになる。


まあねえはいそのはずです。


それも結局無心の一種ではあるわけですよ。
それがつながるんですね。
つまり自分の意志っていうものは非常に限られ、限界があるわけです。


はい。


どうしてかっていうと測ってるから。
意志っていうもの秤なんですよね。
だからその秤は限界があって限界を超えなくては、自由にならないっていう事を私たちみんな知ってるわけですよ、どっかでね。


そういうふうな無心というのは理屈を超えたとこだという事は体得していてもやっぱり思春期になって反抗期が来ると「こんな世の中は嫌だ」とか「人間嫌だ」とか。


そうです。


そういう問題が起こってくるとこれは無心になれないわけですねそこんとこでは。
もうどっか行っちゃいますね。


どっか行っちゃう。
そういうような…まあだから死ぬまでその事を修行するわけじゃないんですけども、できるだけ確認して、自分に言い聞かせるというのか、何回も何回もそれを思い出すという事をしないと、恐らくまあ例えば大拙先生のような人間ができないんじゃないかなと思ったりしますけどね。


いや以前聞いた言葉でですね岡村さんにこう「スッとやればいいんだ」「スッとすればいいんだ」という事をおっしゃったそうですけども。
すばらしい言葉だとは思ったんですけどできませんけどねなかなか。


いえいえ。
私がほらアメリカですよこれはねアメリカにいる時に先生に「みんな男の人こう修道院に入ってねお寺に入って修行するんだけれども私たちどうしたらいいんですか?何をしに行くんですか?」って聞いたんですね。


なるほど。


そしたら先生が「何でもないよ美穂子さん」って。
「ともかくスッとする事を覚えるんだ」っておっしゃったの。
それがなかなかね。

「あんたは猫を見てごらんなさい。
猫は外へ行きたいっていう時にはスッと行くじゃないか」って。
「人間みたいにあっち見たりこっち見たりしてね。何かおいしいものがないかとかね。考えがおどってですね。行ったり来たりするっていう事はないぞ」って。
「猫でも犬でもハエでもゴキブリでもスッと行くぞ」っていう話をして下さったんですね。
「それを人間は残念ながらお寺に入らんと分からん」って。


なるほど。

 

古今東西の有名な錚々たる人物の自由に関する言説を調べまくって、この人はこう言った、あの人はこう言ったと膨大な記録を精査してみたところで、自由というものの本体には出会うことができない。

意識という比較分析智でいくら求めても、自由の本体には決して出会うことができない。

われわれが願うのは知的な解決ではない。

真の主体性が発揮されていることを実感し謳歌することだからである。

仏の像が立っていたり、寝ていたりするように、

立って半畳、寝て一畳に天地自由人としての境涯を見る。

日常何事も変わりなく、無事終了。

 


「言ってもらわないとね、たたいたりなんかされないとなかなか元に戻らんのだ」という話をして下さったんですよ。


そうすると僧堂なんかで修行してるのも坐禅するのが目的というよりもむしろスッと無心になる事。


無心になる事のお稽古なんじゃないんですか。
反復する事ですね何回もね。


そういう無心になってできるという事はお釈さん以来の、仏さんの教えと言われてるものの伝統の中にちゃんとあるんだと。


それが中身なんですねきっとね。
まあ私たちみんな幸せになりたいし、幸せって何かっていうの親鸞聖人のように「安心決定」ですよね。
安心するという事とそれから自由になる事ね。
生き物だから自由にやりたい。
それをどうしたらいいかという事を教えてくれるのが宗教でしょうね。
まあ宗教というか仏教でしょうね。


自由という事と自由に無心にいろんな事ができて。


安心でね。


安心できると。


そうそう。
自分でね「自分が自分でよかったんだという事だぞ。美穂子さん」って。
「オギャッと生まれてね、あこれで良かったんだ美穂子さんって、自分で思えるっていうのがね安心だぞ」って。
どういうのかな迷わないっていうかなこれでよかったっていう。
それで先生がこうテーブルたたいて下さるんですよこういうふうにして。
「これ今の聞こえたか?」っておっしゃるんですよ。
先生は私に聞くんです。
「どこで聞いた今のは?」っておっしゃるんです。
普通なら「耳です」って言うじゃないですか。
だから私はね賢いから言わないんですね。
それで「全身で聞きました先生」とこういうふうに言うわけね。


考えましたね。


賢い顔して。
そしたら先生がね「いやいやそんなケチくさいもんじゃないぞ」とおっしゃる。


全身で聞くとそれまだケチくさいとおっしゃるんですか。


ええ。
それで私の体がケチくさいとおっしゃってるような感じ。


そうですかはい。


同義語みたいな感じで。
そしたらば「全宇宙が聞いたから美穂子さんあんたが聞いたんじゃないか」って。
つまり真実というものはここからここまでじゃないんですよ。
それはそうですよねはい。
「それが無だ」っておっしゃるんですよ。

 

われわれの言葉にすれば、宇宙は神を中心とした有機的連体である。


なるほど。
あなるほどはい。


無っていうのが結局もう余すところがないから無なんですね。
その余すところがない。
どこを見ても残りがないんですね、無の。


つかまえる必要もないわけですわな。


そのとおりなんです。
無限というものはそういうものだ。
それは本当に阿弥陀仏の名前そのものなんですよね。
「ア・ミタ」なんですよ。
「ア」っていうのは梵語の否定語なんで。


否定ですわねはい。


ああやっぱりそうですね。
それから「ミタ」というのはメーターみたいなもんで秤ですよね。
だから測る事がないという仏様なんですよね。
だからそういう「測る事がない」という「測る必要がない」じゃない「測る事がない」。
そういうふうにして無限が何かっていうか無が何かっていう事を、言って下さる指して下さるわけですよね示して。


でもそうなると普通は昨日があって今日があって未来があると考えますけれども、もう測る事のできない今が続くわけです?

 

もう「即今」なんですだから従って。


即という字と即ちと今ですね。


今なんですね。
今以外に今がないんですね。


なるほどはいはい。


過去にも未来にもないんですね。
ここなんですね。
それをねもう何回も何回も言って下さるわけです。
何か理屈を言いだすとね。


なるほど。


コンとたたいて「これはどこか」というんじゃないけれども。


今伺ってるようなお話というのは鈴木大拙先生の場合は随分外国へ出かけて、いわば相対的な世界で発展してる西洋の人たちに、東洋的な考え方思想の大事なところを伝えなければいかんという、一種の使命感をお持ちだったようで、でも最後までお年を召してまでも随分英語でいろんなものを発表されていらっしゃったようですけれども、その時に岡村さんもくっついて行ってらっしゃったようですけれども、印象に残ってるというのが思い出される事があれば。


私びっくりさせられた事があるんですけども東海岸の小さな大学だったんですけれども、先生講演をされるというんで、大学生ばっかり男性の大学生ばっかりだったんですけどもね。そこのところにバイブルのね「旧約聖書」のお話を持ち出されましてね。
その初めての人間をおつくりになったアダムとイブの話をお話しされたんですね。
その時に神様がアダムにイブに、やがてとても魅力的な蛇がりんごをね、おいしそうなりんごを持ち出しますから、それに誘惑に駆られないようにという警告をするという場面がありますよね。
まあ原罪の話なんですけど究極的にキリスト教的に言うと。
人間らしくアダムにイブはそれをかじるんですね、そのりんごを。
誘惑されて。
そうすると「そんな事をしちゃいけないと言ったじゃありませんか」と言う神様がですね「言う事を聞かないから、あなたは私の楽園を出ていきなさい」と。
帰れない。
まず追い出されたアダムにイブが、永久に追い出されるわけじゃないですか。
キリスト教の場合はね。
それで罪人として、その子孫として生きなくちゃいけないわけですね。
そうするとね向こうの学生さんというのは私本当にすばらしいなと思ったの。
すぐ手を挙げましてね1人がね「そしたらどうしたらいいんですか先生」ってすぐに聞いて大拙先生にさし上げたんですね。
そしたら大拙先生、間髪入れず何の問題も持たないでですね「もう一度りんごをかじるんですな」とおっしゃったんですね。
おお!仏教的に言うともう一度りんごをかじるという事は、どう言うんですかね、本来をもう一度確認するという事になりましょう?はい。
つまりいっぺん味わった事なんですけれども、でおいしかったんですけれども、実際はもう一度それをほんとにそうなのかっていう事を、意識の上で確認するわけですよね。
その意識の上に確認するっていう事は、役に立つ事じゃないですか後から。


なるほどはい。


何て言うのかな「2回かじりなさい」と。
そうしたらさっきの言う自由っていうのかな。


あなるほどはい。


「思いのままになるわざぞよし」というのが楽園ですね。
これ私たちが欲しい楽園じゃありませんか。
自由であって安心頂いてこれが究極であるという事の安心ですね。
そういう事が私たち人間としての楽園ですわね。
それは神様そのものじゃありませんか。
仏様そのものじゃありませんか。
だからもう一度楽園…かじってみたらどうですかって答えられたんですね。
そしたら本当にすばらしいなと思ったのはね。講演を聞いておられたその講堂の人たち「おお〜っ!」って言うんですよ。
理解ができるって言うんですね。
そういう話を通して仏教というものに触れるというかね。そういう事ができた場面が私はもう本当に忘れられませんですね。


その時かあるいはまた別な時か知りませんけれども神様が「光あれ」と言ったら夜が明けたっていうか明かりがさしてきたというのがありますね。


はい。
大拙先生ねコロンビア大学でね「その前の神様は何してたんだ」とおっしゃるのよ。
そこまでね考えられるのがね東洋思想だって思うんですね。


ああなるほど。
その前の神様は何をしてたのかと。


「出る前の神様はどこにおられて何をしておられたんですか」って皆さんに聞くんですよ。
それ誰も答えられないんですね、向こうの人は。
そういう事の考えっていう事がね「考えた事ない」と言うわけです。
そういう種がないですよね考えの。

 

文鮮明先生は、創造以前の神を考えられましたが、

大拙も考えたというのは面白いことである。

方やキリスト教、一方は仏教。


自由のもとがそこに出てくるわけですね。


そういう事ですね。
はい。


なるほど。

それは私たちの中にも既に備わった答えだという事にも、大乗仏教では言ってくれてるわけですからこんないい事ないと思って私。


随分しかし自由になるわけですね。


そうなんです。
もう物語というのは固定してるもんだと思ってるとそんな事はとても考えられないんですけれどもそうではなくてもう一度食べればいいとか。


もう一度りんごを召し上がれっていう感じなんですね。
「Have another bite」って言うんですよ。
「Have another bite」
「もう一つかんだらどうですか」という感じですね。
どうぞっていう感じなのね。
だからそういうのをね自由に至る所でねそういう話をされるっていうのがありましたね。


やっぱりその辺の呼吸言葉が応答の中から出てくるというのはやっぱり禅によってジャーナの中で…。


つかんだものがあるからですね。


人間の本来の働きみたいなものを。


ああそうですそうです。


実感として持っていらっしゃるから即座に出てくる。


持って一体になって働いてるわけですね。
そういうのはね本当にいつも感じさせて頂いておりましたですね。


ただそこへいくと宗派的な区別みたいなものももうどこかへ消えてしまいますね。


もう宗派どころじゃない。
つまり先生にとっては「二本足で立ち上がった生き物」っていう。


ああそこのところへいく。


そこに戻りますね。
何色の…皮膚の色じゃないんですね。


西洋東洋も区別はなくなるわけ。


区別ないんですね。
どう言うのかな。困ってるっていうか、悩んでるのは皆一緒だという感じですね。
人間として悩み…悩みのね。
出どころがね。
出どころが一緒だと。


今現在置かれている自分というものをよくよく、それこそ思索の間じゃありませんけれどもあれ余計な事をいろいろ外に向かって求めるんではなくて、自分自身を「脚下照顧」という言葉がよくありますけれども、自分の足元を見なさい。
自分自身がどういうふうな。


そうですね。
即今がなければ自分もなし。
相手ももちろん、自分がないという事は相手もないという事ですのでね。
まずそれがはっきりしないと。でしょうね。


即今というところに今自分が生きているという事が分かるとこれ世の中だいぶ違ってきますよね。


大いに違ってくるんですね。
はいはい。
それ以外には真実というものがね過去はもう終わってしまっているし、未来はまだ来てないでしょ。
今しかないというね。
そういう事をもう一度確認させて頂くというか。
それで知ってるはずだから確認だっておっしゃるんです。


それはそうですよね。


持ってるんだからね。


当然皆与えられてるから分かってるはずだと。


いっぺん食べてるはずだからおいしい事知ってるはずだっていうのも、何かそこにあるわけですね。
その味はどこかで分かってるはずだ、というのもあると思うんですね。


だから私がお会いした時、こんな大先生に何を伺っていいかよく分からなくてですねまあお若い頃の一種の修行の話なんかを伺った後でもう放送離れて「先生はお困りになる事はありませんか」って聞いたんですよ。


はいはい。


そしたらね「うんわしも困る事がないわけじゃないけれども、まあ困らんとこで困っとるかな」みたいな事をおっしゃいましたね。


それ上手ですね。
それすばらしいですね。


やっぱりいろんな事を頼まれると、全部片づけるわけにはいかないから順番で自分がこれは大事だと思われるものから片づけるんだ、という事をおっしゃったと思うんですけれども。


相対の次元は必ずそれがあっていいんじゃないんですかね。


まあ生きてるという事は相対の次元で生きてるわけでしょうから。
次元に生きられるわけですからね。


しかしそれが相対だって分かればいいんですけどねごっちゃになっちゃうんですよねもう頭の中がね。


もう頭だけで考えるとそういうふうになりがちなんでしょうけれども。
これはやっぱり、でも、外国のいわば相対の次元で考えていろいろ苦労してる人たちには、禅の考え方仏教の考え方、そういうのを伝えるのはなかなか難しいんじゃございませんか。


そうですねまあすぐにはできないんじゃないかと思います。
私がもう大変先生のおそば近く行かせていらせて頂いてもなかなかですもの。
もうそのつど聞くんですけれども意識がある以上は意識の中から答えを見つけようとするから。


ああそれで思い出しました。
サルトルの本を読んでる時の感想というのがありましたね。


ああそうなんですよ。
サルトルさんを読んでおられましてね。
崖っぷちというところの場面がこうとても上手に書かれてそれで崖っぷちから自分はこうやってこう見下ろしてですね、怖い怖いと言ってるんだっていう文章があるんですよ。
そしたら大拙先生がね「何でもないじゃないか。
飛び降りればいいじゃないか」っておっしゃったんですよ。
「飛び降りたらば下にね蓮の花が待ってるぞ」っておっしゃったんですよ。
飛び降りてみてごらんなさいって言ってね。
もうむちゃくちゃな事を言う人だなっていうふうに…。
平気でね向こうの人におっしゃられる人だったんです。

 

ナイフを差し向けられたら、前に出るしかないじゃないか。

勇気があるから? いや、怖いから前に出る。

下がれば、恐怖は続くことだろう。

鶴田浩二なら、そっちがナイフなら、こっちもナイフだというところかもしれないが。


いやそれは飛び降りた経験があるから言える…。


それはそうかも分かりません。
飛び降りないと言えませんからね。
それが「死人となりて」なんです。


そうですね。
確かにいろんな問題が目の前に出てきますけれどもやっぱりもう飛び降りなきゃしょうがない時は飛び降りなきゃしょうがないなという。


現実にね飛び降りてるんですけどもね。それが自覚があるかどうかの問題になると思うんですけどね。


そこのところがなかなか難しいですね。
そういうちょっとしたこの次元の違いが、大乗仏教にはあるっていう事は、本当にありがたい話だと思いますね。
どうしてかって言うと私たちの中にいろんな次元があって、同時に動いてるっていう事。
同時に即即動いてる。


あそうなんですね。
分別以前のものが動いていると…。


…だけかと思っちゃうんですけれども。


その辺のところが同時に動いてるわけだ。


同時に動いてるという事がある事に気がつくというか、教えて頂けるっていうかね。
そういうのがすごいなと思ったりします。


この世に生きていく私たちがそれぞれそれこそ掛けがえのない今を、生きているというか生かして頂いてるという事に気がつくと、これはある意味ではそれこそ自由に生きる事ができるわけですし、ここの大拙館の中にもですね。ここの今伺ってるこの塀の向こう側の方には、池があって、その池を眺められる建物もあるわけですけれども、説明を聞いてるとこれは「維摩経」のお経の中に出てくる維摩居士の方丈にいろんな…。
方丈というのはその部屋にあまり広くない部屋ですけれどもいろんな人がいくら入ってきても自由に入れるような世界だというような。


無限にね。


無限に入れる世界だというふうにおっしゃって説明があるようですけれども、岡村さんのサジェスチョンがあってああいうふうになったとか聞いたんですけれども、その辺はどういう事だったんでしょう。


いや私が申しました事は大拙先生どういう人ですか」って聞かれたんですよね。
谷口先生に建築家の。
私がどう返事していいか分からなくって困りましたんですよ。
すぐに即答っていうのが難しくって。
まあ建築という事になりますと天井があるわけですよね。
大拙先生は天井の低いのがお嫌いでした」と申しちゃったんですよ。
「どういうわけか先生は天井の低いところがあんまり好きじゃなかったようです」ってひと言申し上げただけなんですけれどもね。
維摩経の話に戻りますけれども、あの経典は心の事を言っているんだと思うんですよね。
四畳半の方丈って書いてありますけれども。
だから心には無限に人が出はいりしていいんだという意味なんじゃないんですか、自由にね。


上を見ると私はひっくり返りそうなんですけど代表で見て下さい。


代表で見て…。


これはやっぱり普通の天井よりだいぶ高いですね。


そうですね。
私も出来上がった時に拝見してああ谷口先生のデザインっていうか、大拙先生を理解するというのを「天井が低いと駄目だ」というのが、ひと言聞こえてもうできるだけと思われたのかなと、思ったりしておりますね。
しかし本当に美しいものを造って頂きました。


ですね。


ええ。
形っていうものは仙さんじゃないですけど三角から三角を2つ合わせると四角になるわけですよね。
その三角が色っていうの色っていうのは形っていう仏教用語で色が形という意味ですよね。


「色即是空」の「色」ですね。


それがああこういうふうにして三角を2つ持ってくると四角になるんだなっていう意味も何か感じましたですねこれにね。
それがまた「空」だっていう事。
「色即是空」という「般若心経」のもとにある概念ですね。
そして「空即是色」っていう事。
両方合わせて、お話書いてありますけれども、それがこの何て言うんですかね、空っていうのは枠のない空ですから、無っていう事と一緒なんですから何もない事が全てあるものに何もないものが…。


無と有の関係みたいなのが。
そうですね。


即あるという。

同時にあるという事を言って頂いてるというのが感じられました。


無分別の世界があるという事ですね。


そう分別と無分別が両方ないとどちら側もないですよね。


なるほどなるほど。


そういう事を感じるというのがありますですね。


しかし…。


思い切った真四角というのがね。
それがとても何か珍しいっていうか。


でもここの天井の四角を見て、向こうのお部屋の三角四角を連想できる人がいたら立派なものでございますねなかなか。


そうですね。
そうして頂くと一番いいかなと思って。
それで外は水鏡ですからね。
それは私たちの心そのものを映して頂けるっていうのがありますから。


ただ風がない時は穏やかですけれどもちょっと風が来ると…。


そう波が立つんですね。
本当にいろんな意味で、仏教の真実というものをね。仏さんの真実というものを表して頂いてるかなと思って、喜んでいるんですね。


2017/05/20(土) 13:00〜14:00
NHKEテレ1大阪
こころの時代〜宗教・人生〜「大拙先生とわたし」[字][再]

世界的な仏教哲学者、鈴木大拙が伝えようとした仏教の要とは何だったのか。最晩年の大拙と行動を共にした岡村美穂子さんが、実際に見聞きした大拙の言葉や教えとは。

詳細情報
番組内容
鈴木大拙(1870−1966)は、明治初めから戦後まで95年の生涯を生き、一貫して東洋思想、特に仏教や禅を探究した仏教哲学者。第二次世界大戦後、大拙は身心を通して味わった仏教や禅の要を、世界平和のために伝えたいと、二度目の渡米。アメリカで生まれ育った岡村美穂子さんは15歳の時、80代の大拙に出会う。岡村さんが大拙から聞き取った仏教の要「無」とは何か。二人が交わした言葉から大拙の面影をたどる。
出演者
【出演】鈴木大拙館名誉館長…岡村美穂子,【きき手】金光寿郎

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