原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

意図せざる結果 訳文は同値となっている 現象に振り回されず本質を見なければならない

このブログは、本来原理的な思考とは何か?

その問いに答えるための覚書として書き始めたものです。

10人信徒がいれば、10通りの「原理的」という判断が生じ、

100人いれば、100通りの「原理的」という判断が生まれる。

そのようなことになれば大変です。

そこでなにか方法はないものかと考えていたら、神山氏が騒ぎ出した。

そこから始まって今日までずっと保留状態で来てしまった。

 

私が引用した三大王権のブログにまで出向いて騒ぎ出した方が出てきたという。

そこで、この翻訳がそれほど問題ではないことを

授受法的思考の中心思考のなかの、本質を意識する生活習慣から説明を試みてみましょう。

もう一つは、やはり中心思考の中の、定義を意識する生活習慣も関係します。

 

創造原理では「見えるものから見えないものを知る」という思考が説かれている。

見える現象ではなく、見えざる本質を求めるということです。

訳の仕方がどうのという現象だけを見るのではなく、

もともとその言葉や文章はどのような見えざる意図に基づいて発せられたものなのか?

見えざる本質を見ることが大切です。

したがってキーワードと思われるものの定義の確認は大切になります。

 

韓国のメンバーの方には、亨進様は正反対の御言葉を語っておられると考えている方がいます。素直な気持ちとしてそのように感じたというのです。

批判的な気持ちは全く無いように私は受け取りました。

「亨進様の御言葉の二面性」という表現をなさいました。

具体的に言いますと、一方では亨進様は他国に逃げなさいというような御言葉をくださいますが、また一方ではここで戦えというようなこともおっしゃいます。

まるで相反する内容であるので、メンバーの中には韓国を出よとはっきり言ってほしいと亨進様に迫る方も出てきたようです。

もう一つは、摂理国家の話です。

これも、当初はアダム国家がアメリカ、エバ国家がイギリス、天使長国家がロシアであったかと思いますが、その方が言われるには、その後の亨進様の言葉に、これから摂理国家を決めなければならないというような内容もあり、ここにも二面性があると考えておられるようでした。

これらは全く矛盾する御言葉ではありません。

主体と対象の関係です。

主体は、逃げて神の血統を生き延びるようにせよ!であり、

その決意と準備が万全なら、次に

対象は、自由と責任において祖国と国民を愛する闘いをせよ!です。

 

ところが、この主体と対象の関係が逆転しているのが問題だというのです。

神の審判は避けることができません。

天宙の半分を象徴するオモニがふっとんだのです。

取り戻すことができないというのです。

 

下手な希望を抱いてはなりません。

抱けばサタンが餌食にしてしまうというのです。

愛国心や正義感をくすぐって一気に奪い去ってゆくというのです。

それを知らなければなりません。

 

亨進様の御言葉の主体部分と対象部分を韓国メンバーは主管性転倒してしまいました。

二面性と感じていることがサタンに主管されていることなのです。

私はそうではないという人は、既に他国に逃げ延びているか、今も準備をしていることでしょう。

そうでない人は、サタンに主管されているというのです。

サタンが入っているのです。

これは中心者にも問題があるからです。

現実をはっきり告げなければなりません。

皆さんの心に極めて心理的で強力な力が働いているのです。

その力がサタンから注がれていることに気づかなければなりません。

 

あなたがたは、逃げて生き延びよではなく、ここで戦えが主体だと思い込もうとしています。それが危険だというのです。

生き延びることより、韓国での活動が主体だと考えていることがサタンです。

国進様は早期より国外に逃れることを勧められました。

100人のメンバーが100人とも100%生き延びられる時期に助言されました。

後は、地の事情を整理して、時期と方法は各自は、自由と責任で果たせというのです。

何故、韓国の食口のために、何を祈れと亨進様は言われていますか?

 

韓国の場合は、摂理的国家に復帰する道はありません。

王様が住むアメリカがアダム国家だからです。

これは変わりようがありません。

それどころか、彼の国はバビロンの大淫婦が住む国です。

「性病を持ち込んだ」国だというのです。

ソドム・ゴモラの類の国に未練を持てばどうなるというのでしょうか?

 

韓国のメンバーはアジアの安全保障に貢献されました。

祖国と国民に共産主義の脅威を目覚めさせました。

そこで勝ち得た条件で天一国の心情文化を作るべきでしょう。

 

さて、問題にされている文章の翻訳ですが、サンクチュアリNewsにもありました。

以下です。

 

特に勇気を持って戦ったサンクチュアリの兄弟姉妹のために。彼らの闘いは・・戦いはいつも勝てるとは限りません。負ける戦いもあるでしょう。だからその戦いが不名誉だということはないのです。
A fight is not always winnable.
Sometimes there’re fights that you will lose.
That doesn’t mean the fight wasn’t honorable.

 

三代王権のブログでは

 

聖殿食口は今回に懸命に戦いました。しかし 戦いは負ける時もあるのです。
戦いはいつも勝つという保障は無いのです。
しかし、その言葉の意味はその戦いが名誉の為の戦いでは無かったということを肝に銘じてください。
 
 
問題とされているのは、赤い部分です。
 
だからその戦いが不名誉だということはないのです。
 
しかし、その言葉の意味はその戦いが名誉の為の戦いでは無かったということを肝に銘じてください。

 

確かにここに見える文章を比べると誰もが違うことはわかります。

英文を見れば上のサンクチュアリNewsのほうが普通の訳仕方だと思います。

三大王権はハングルからのようです。

 

わたしは、三大王権のブログから引用しました。

そこに(自分の)という言葉を加えています。

これは、私が挿入したことを明記すべきでした。

 

 その言葉の意味はその戦いが(自分の)名誉の為の戦いでは無かったということを肝に銘じてください

 

私と三大王権の共通するところは、亨進様が「名誉」という言葉を使う時の特別な使われ方を感覚的に掴んでいたことです。

そこで、私は(自分の)を入れて強調しました。

「名誉」の語感がこの文章の意図だと考えたからです。

ふたりとも、おそらく亨進様の思想のキーワードだと思ったのだと思います。

わたしは直感的にでしたが、実際に訳してきた三大王権は以下のように考えたと語り、

その根拠の文章を二つ引用されました。

わたしはそんな文章があるのをすっかり忘れていましたが、彼は探し出しました。

責任感がそうさせたのでしょう。

 

まず、彼の訳の考察

 

『我々の闘いは名誉のためのものではないのだ。神様のために闘ったのだ。
表面的な意味でいえば、闘いというのは、勝つことも負けることもある。
しかし、神とサタンの闘いはこれからも続いていくのだ....
韓国聖殿の兄弟姉妹たちは、懸命に、勇敢に闘った。我々はこれからも闘い続けていく。』

多少主観が入っているかもしれませんが、こういう感じだと思います。

 

ではどうしてそのように考えたのか、亨進様の御言葉を引用されました。

 

===

結局④wasn't honorable.
これをどのように訳すれば良いのかということですが、亨進様の思想を見てみます。

 

3月15日の説教です。
皆さんは残った数日の間に、皆さんのために、皆さんの名誉のために、皆さんがよく暮らすために、戦っているのであれば、皆さんは悪なる内容をやっています。その理由のために皆さんが戦ってはいけないのです。
既に韓氏オモニは大韓民国に呪いを持って来てしまったのです。性病を持って来たのです。 国のため戦って行く理由は国がよくなり再び平和を探すためではないのです。国のため戦って行くのは、お父様を感動させるためなのです

 

皆さんはその日のために戦わなければなりません。 その王国とその国のために、これから出て行かなければなりません。 その国と王国の王の中の王の栄光のために、天一憲法を施さなければなりません。その国の王の中の王とその国の中心なる再臨主文鮮明総裁のために、私は死んでも幸せな者達です。逆さ十字架にぶら下げられて血を流しながら死んでも私は幸せな天一国国民です。再臨主と三代王権と天一憲法を持ってこれから出て行く勇士であるから、私は生命の終末に、生命の本に  私の名前が刻まれるでしょう。 私の栄光(の為)ではなく再臨主の栄光(の為です)。私の喜びのためではなく、再臨主の喜びのために、私の名誉のためではなく、再臨主の名誉のために戦いに出て行く天一国の国民、氏族の王と王妃となり、天一国を眺める天の天子達にならなければなりません。

 ===

 

私が亨進様なら、訳が問題だというのではなく、彼の信仰姿勢を賞賛しますね。

 

彼は亨進様が「名誉」という言葉を使う時の、私的な名誉ではなく公的な名誉という意味との整合性を図るために、あえてそのように訳したというのです。

 

文章の訳としては、確かにサンクチュアリNewsの方が妥当でしょう。

ですが、彼は文章を訳す以上に、意訳して、亨進様の言葉ではなく、亨進様の言葉の背景にある見えない思想を訳したのです。

何故、彼はそのようにしたのでしょうか?

彼の亨進様に対する信仰姿勢が現れたからです。

 

「だからその戦いが不名誉だということはないのです。」

 

私的には敗北は不名誉に見えるが、公的には不名誉なことではない

と変換してみれば、以下の文章は現象的には正反対だが、

本質的にはかなり近いと言える。

 

 その言葉の意味はその戦いが(自分の)名誉の為の戦いでは無かったということを肝に銘じてください

 

だから、訳は大した問題じゃないと私は考えたのです。

 

 

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反文親日はもっと危険でしょう。

 

 


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