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原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

説教に出てくるウイリアム.レイン。クレイグのいくらかの言葉を

https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-why-believe-resurrection.html より引用

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イリアム.レイン。クレイグ博士は言います。「一世紀のユダヤ人社会の女性の位置を理解すると、この空の墓の話しが、それを発見したのが女性であったというところから始まっているのが、非常に驚くべきことだと解かるのです。 一世紀のパレスチナ地方では、女性の社会的地位は非常に低いところにありました。昔のラビのことばに請うあります。「律法のことばが女に伝わる前に、焼かれてしまいます様に。」「男子の子供を持つ人は幸いかな。しかし、女の子を持つ者には災いあれ。」 女性の証言はまったく価値のないものとされ、それでユダヤの裁判所では法的な証人としては許されなかったのです。このことを考えると、空の墓を見つけた主な目撃者が女性だというのは、非常に特殊なことなのです。それより 後の伝説的な話であったなら、男性の弟子たち、例えば、ペテロやヨハネなどが、墓が空なのを見つけたことに必ずなっていたでしょう。 女性が空の墓を見つけた最初の目撃者であったという事実は、最も妥当な現実として説明できます。つまり、女性たちが空の墓を初めに見つけたということなのです。これは、福音書の著者達が、起こったことを正直に記録したということを示しています。そのことがいかに恥ずかしいことであってもです。 ということは、この復活という伝統が歴史に基いていて、伝説的なものではないことを示します。」(ウイリアム.レイン.クレイグ博士。リー.ストローベル著“ケース.フォー.キリスト”《ゾンダーバン社;グランド.ラピッド、1998出版P.293より引用》

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https://directors.tfionline.com/ja/post/heart-it-all-incarnation-part-1_ja/ より引用

 

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[The Heart of It All: The Incarnation (Part 1)]

June 28, 2011

神・人」及び「三位一体」の記事において、イエスの神性、つまり、イエスは真に神であるという聖書の真理を探ってきました。この「受肉」についての記事では、イエスの人性(じんせい)について、つまり、イエスは完全に神であると同様に完全に人間でもあったことについて聖書から詳しく調べていきます。

イエスの人性

神の救いの計画において、イエスの人性は、神性と同じぐらい重要です。私たちの救いは、イエスが完全に神と人間の両方であられることにかかっているからです。

イエスが三位一体の一つの位格、つまり、子なる神であるがゆえに、救いは可能なのです。神である方のみが、この世の罪という重荷を担うことがおできになるのです。永遠に神である方のみが、無限の価値があるいけにえを捧げ、神の律法に完璧に従い、あがないのために神の怒りを身に受け、そうすることで他の人たちを律法による裁きから解放することがおできなのです。[1]

同様に、人性を持つ者のみが、救いを可能にすることができます。最初の人間アダムが罪をおかし、全人類に罪の宣告をもたらしたため、別の人間が罰を受け、自ら神の裁きを受けることが必要でした。人類の代表として身代わりになることは、人間にしかできないからです。

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。[2]

ですから、救いを可能にするには、三位一体の第二位格であるイエスが受肉して人性をあますことなく身にまとい、完全に神と人間の両方になることが必要だったのです。

初期のクリスチャンや使徒たちは、イエスが神であり、同時に人間であることを理解していましたが、実際に受肉の教義が出来たのは後になってからのことです。受肉(英語でincarnation)という言葉はキリスト教神学における専門用語で、肉(肉体)を意味するラテン語のカルネム(carnem)を語源としています。受肉というのは、イエスは人間の肉体をまとった神であるという意味です。歴史上、神が人間となり、受肉し、肉体をまとわれたのは、イエスの受肉が唯一の時です。[3] 年代順でいくと、受肉が教義として正式に表明されたのは、三位一体の教義が確立された後のことでした。三位一体は、神とは誰であるのかを説明し、受肉は、イエスが神と人間の両方であったことを表明しています。三位一体の教義の詳細を確立する時と同様、イエスが完全に神であり、完全に人間であったという概念やそれを表現する用語を完成させるまでには時間がかかり、論争も起こりました。

たいてい人はイエスの神性に焦点を当て、人性は後ろに押しやります。しかし、イエスは人間の肉体をまとって地上で生きた神であったものの、あなたや私と同じ人間であり、私たちと変わらぬ肉体的な必要や弱さをお持ちだったのです。私たちと同じような肉体的、精神的な限界があったし、感情を持っておられました。また、私たちと同様、罪をおかす誘惑にもかられ、心の内の霊的な苦しみも味わわれました。イエスは人間であり、他の人間と同じように、生まれ、生き、死なれたのです。人間の性質を持っており、肉体と理性の両方を兼ね持っておられました。

イエスの人性を示す聖書の節を見ていきましょう。カテゴリー別にここに載せていきます。[訳注:以下の引用では、日本語訳聖書の文中にない箇所が、英訳ESV聖書に基づいて補足されています]

人間としての要素―肉体と理性

イエスは、人間の特徴の主要要素である、肉体と理性(理性的霊魂)の両方を兼ね持っておられました。ご自分の肉体と魂・霊について語られました。(場合によっては、魂と霊という言葉は同じものを指す言葉として使われています。)また、ご自分の肉や骨について語られました。ヘブル人への手紙には、イエスが血と肉をもっていたと書かれています。聖書の別の箇所では、魂・霊をもっていたと書かれています。

「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。[4]

このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。[5]

そのとき、彼らに言われた、「わたし[の魂]は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。[6]

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。[7]

これらの節は、イエスが人間であるために必要な要素を備えておられたことを示しています。

イエスはご自分のことを人と呼ばれ、他の人たちも、イエスが人間であることを証言しています。

ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきた[人、]このわたしを、殺そうとしている。[8]

イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかた[人]であった。[9]

それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。[10]

すべての人間と同様、イエスも、人間の成長や発達に関する自然の法則に支配されていました。まず誕生し、子どもから大人へと身体的に成長されました。子ども時代の普通の学びの過程を経て、他の人間と同じように年を重ねるにつれて知識や理解、知恵、責任感が増していきました。また、両親に従うことや、苦しみやその他の経験から教訓を学ぶことを通して、時間をかけて精神的に強くなっていかれました。病気になったとは聖書に記されていませんが、時には病気になられたことでしょう。

[マリヤは]初子を産み、[11]

幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった。[12]

イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。[13]

彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、[14]

人間としてのニーズ、弱さ、感情

イエスは、私たち人間と同じ肉体的な弱さやニーズを抱えておられました。お腹もすけば、のども渇き、疲れもされました。肉体的に弱まり、疲れ果てたこともあれば、一度は、ひどく疲れていたために、嵐のさなかに漁船の上でぐっすり眠っておられました。

そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。[15]

イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。[16]

すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。[17]

彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。[18] [拷問のようなむち打ちを受けたため、イエスはご自分で十字架を負って運べないほどに弱っておられたと考えられます。]

イエスは、私たちと同様、感情を味わい、人々への思いやりを感じ、必要を抱えた人を憐れまれました。涙を流したり、感心したり、深く心を動かされたり、怒ったり、悲しんだりもされました。必死に祈ることもあれば、悲しみで満ちることもあり、心理的苦悩を味わうこともあり、時に、心が騒ぐこと(ギリシャ語で「タラソ(tarrasso)」。危険によって動揺するとか、突然に驚かされるという意味)もありました。また、友だちもいて、イエスは彼らのことを愛しておられました。

また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。[19]

イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。[20]

イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、[21]

イエスは涙を流された。[22]

イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。[23]

イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。[24]

そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。[25]

イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。[26]

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」[27]

イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。[28]

すべての人間同様、イエスは死なれました。肉体の生命が断たれたのです。

すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。[29]

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。[30]

イエスが子ども時代を共に過ごし、公のミニストリーが始まるまで近くで暮らされた人たちは皆、イエスのことを普通の人だと思ったようです。布教を始められた後のイエスに対する反応から、そのことがうかがえます。ガリラヤで奇跡を行い、説教をし、大勢の群衆があとをついてくるようになってから、故郷のナザレを訪れられましたが、イエスは、以前の隣人や町の人たちから拒まれました。

イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。[31]

イエスの兄弟さえ、彼のことを信じませんでした。しかし後には、信者や教会の指導者として知られるようになった人もいました。例えば、ヤコブとユダです。他の兄弟も、信者になったかもしれません。

こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。[32]

イエスがその人生の大半を共に、また近所で暮らした人たちが、彼がそれほどの権威をもって語り教えるだけの知恵や知識を一体どこで得たのだろうかといぶかしみ、驚いたということは、彼らは明らかに、イエスのことを普通の人間として見ていたということです。彼らはイエスを、神としてではなく、偉大なる教師としてでさえなく、単なる普通の人として見ていたのです。

マルチン・ルターは、イエスが完全に人間であられたとは現実的にどのようなことなのかを次のように表現しています。「彼は食し、飲み、眠り、目覚めた。疲れ、悲しみ、喜び、涙を流し、笑った。空腹になり、のどが渇き、寒くなった。汗をかき、語り、働き、祈った。」[33]

これまでに挙げた聖書の節はすべて、イエスが完全に人間であられたことを示しています。人間の特徴という点で、あなたや私と同じであり、私たちと同じような人生を経験し、私たちと同様の肉体的、精神的な強さや弱さを持っておられたのです。彼はあらゆる意味で人間でした。ただ罪については違います。それがひとつ違うところです。イエスは決して罪を犯されなかったのです。

イエスは試練に会ったが、罪は犯されなかった

以下の節は、イエスが罪を犯されなかったことを語っています。

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。[34]

キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。[35]

あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。[36]

あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。[37]

イエスは罪を犯されなかったので、ご自分の罪のために死ぬ必要はありませんでしたが、代わりに人類の罪のために死ぬことがおできになったのです。

イエスは罪を犯すことが『できた』のだろうかと思うかもしれません。聖書に基づいた答えは、ノーです。罪を犯すことはできませんでした。聖書を読むと、以下のことが書かれています。

1) 先に挙げた節にあるように、イエスは罪を犯されませんでした。

2) イエスは私たちと同じように、あらゆる面で試練に会われたので、実際に罪を犯す誘惑に会われたことがわかります。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。[38]

3) イエスは神であり、神は悪の誘惑に陥ることはできません。

だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。[39]

神の属性の一つは、神聖さです。それは、神と罪とは引き離されているという意味です。神は罪を犯すことができません。もし犯すなら、神ではなくなります。

聖書からすると、イエスは完全に神であり、完全に人間でした。また、イエスは試練に会った、そして、神は誘惑に会うことがないと、聖書は語っています。[訳注:このセクションで使われる「試練に会う」と「誘惑に会う」という言葉は、英語ではどちらも「tempted」です。]

イエスの人間性が、神性とは別に存在していたのなら、アダムとイブが最初に創造された時と似ていたことでしょう。つまり、罪はなかったものの、理論的に、罪を犯すことができたのです。しかし、イエスの人間性は、彼の神性と別個に存在してはいませんでした。両方の性質が一人の内に存在したからです。罪を犯すことは道徳に関わる行為であり、神性と人間性を含んだ、キリストの全人格によるものとなっていたことでしょう。もしそうなら、イエスの神性が罪を犯した、つまり、神が罪を犯したことになり、彼が神ではないということになります。それはありえません。神なら行わないことを、神がご自身の性質に反して行う、ということになってしまうからです。ですから、イエスという一人の内における、人間の性質と神の性質の結合のゆえに、彼は罪を犯すことができなかったということです。しかし、一体全体どういう仕組みでそうだったのかは知りようがありません。それは、キリスト教において私たちが直面する数々の神秘の一つです。神の性質と人間の性質という二つの性質を兼ね備えた方はイエスただ一人であることを考えると、それはもっともなことです。イエスの内でどのようにしてそれが可能であったかというのは、私たちにとって理解が不可能ではないにしろ、難しいことであり、それは無理のないことです。

イエスは罪を犯すことができなかったという点については、私がその本を読んだ神学者の誰もが同意していますが、同時に、罪を犯す誘惑は、私たちにとってそうであるのと同じぐらい現実的なものであったことにも、神学者たちは同意しています。イエスは人間であり、私たちと同じようにすべてのことについて同じ誘惑の強さをもった試練に会われたからです。誘惑されながら、罪を犯すことができないというのが、どんなふうに可能であるかを完全に理解することはできませんが、聖書から、イエスは本当に誘惑を受け、それでいて決して罪を犯すという誘惑には屈されなかったことがわかります。

私たちは皆、罪の誘惑を受け、それに屈しないためには深い内なる葛藤を味わいます。経済的に極めて厳しい状況に置かれた自分を想像してみましょう。請求書の支払期限が来ているのに、払うお金がなくて、家を失うことになるかもしれません。ホームレスになる可能性もあります。そうでなくても、引っ越さなければならなくなるかもしれず、そうなると、子どもがどこの学校に通うか、さらには彼らの教育にも影響が及ぶことでしょう。すでに、まともな食事をテーブルに並べるのにも苦労しています。そんな時に、多額のお金を儲けるチャンスがやってきました。このお金が入れば、現在および将来の経済的な必要が満たされます。しかし、そのためには、ごまかしという罪を犯す必要があります。私たちの大半は、チャンスをものにする益と、道徳的・倫理的に正しい選択をする難しさや、さらに、その結果起こりうることをはかりにかける際の葛藤が想像できることでしょう。このような状況にあって、自分が「チャンス」をとらえず、罪を犯さない選択をしたと想像してみて下さい。

罪を犯さないという選択をしたので、この場合は「罪がない」ものの、誘惑は非常に現実的でした。かなり激しいもので、その誘惑に抵抗するには、多大なる信仰や恵み、不屈の精神が必要とされました。この例から、イエスが経験された誘惑についていくらか理解できるかもしれません。

イエスは私たちと同様、すべてのことにおいてフルに誘惑を受けられました。けれども、あらゆるケースにおいて彼は誘惑に抵抗し、罪を犯されませんでした。罪に抵抗するために、あらゆる誘惑を戦い抜かなければならなかったのです。イエスが経験された罪の誘惑は、私たちが経験するのと同じものです。違いは、イエスが一度も誘惑に屈せず、罪を犯されなかったことです。

クリスチャン哲学者及び弁証者であるウィリアム・レイン・クレイグはこのように書いています。

「キリストの受けられた誘惑を私たちはどうやって理解するのだろうか? とても単純なことだが、何かをする誘惑にかられるには、それを実行できる必要があるということはない。・・・あなたが、気の狂った科学者の実験室にいて、その科学者は本当にタイムトラベルマシンのデロリアンを持っているのだとあなたが信じているとしよう。科学者がこの実験室の警備をあなたに任せ、厳格な指示を与える。『デロリアンに乗って、タイムトラベルなど絶対にしないように!』 あなたは彼が留守の間にタイムトラベルをする誘惑にかられるかもしれない。何といっても、出発したのと同じ時刻に戻ってくれば、誰にもわからないことだろうから! その誘惑に抵抗するにはかなりの葛藤があるかもしれない。だが、あなたは知らなかったが、本当のところは、その科学者はほら吹きで、タイムトラベルの可能性などゼロだったのだ! しかし、あなたは自分のやるべきことを果たし、誘惑に抵抗し、それゆえに賞賛を受けるにも値するだろう。また、確固として意志を貫くことであなたは道徳面で強められたかもしれない。

「もっと現実的な例をあげるとしよう。あなたはダイエット中に、奥さんが前の晩に冷蔵庫に入れたチョコレートケーキを取ってくる誘惑にかられたが、勇敢にその誘惑に抵抗したとする。しかし、実は奥さんがすでに夜中にケーキを食べてしまったので、冷蔵庫には何もないことは知らなかった! このような例は、何かをする誘惑にかられるのに、その誘惑を実際に実行できる必要はないことの説得力ある説明になっていると思う。」[40]

戦闘で敗北するはずのない軍隊だとしても、戦闘の熾烈さが軽減するわけではありません。兵士たちはやはり勝つためには戦い、苦しまなければなりません。イエスが罪を犯すことができなかったからといって、罪を犯す誘惑に対する戦いが熾烈でなかったことにはならないでしょう。やはり、それに抵抗して戦わなければならなかったのです。

イエスはすべてのことにおいて父に従順であったので、罪を犯されませんでしたが、それは簡単ではありませんでした。聖書には、「イエスはさまざまの苦しみによって従順を学」ばれたとあり、その前の節では、イエスが声を上げて泣きながら祈られたことについて書いてあります。

キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、[41]

逮捕される少し前、また、拷問のようなむち打ちを受け、十字架にかけられるほんの数時間前、ゲツセマネの園で父に祈っておられた時に、父の御旨を行うという決断において葛藤されていたことが明らかです。「杯を飲む」ことをやめる誘惑に負けまいと戦っておられたのです。イエスは苦しみもだえて祈られました。

イエスはひどく試みられ、従順を学ばれました。父の御旨を行えるよう必死に祈られました。自らの神性に頼って、従うのが簡単になるようにすることはせず、代わりに、あらゆる誘惑に直面し、それを克服するのに、人性において戦わなければならなかったのです。

子なる神が人間の性質や人間の肉体をまとい、人間であることに伴うすべてを担うことによって自らを卑しめることを選択し、それによって、私たち一人一人が、罪をゆるされ、永遠に生きることができるようにして下さったことを考えると、そのことで、イエスを愛し、彼に感謝せずにはおれません。イエスは私たちのために自らの命を捧げて下さいました。人間としての肉体的な命だけでなく、ある意味で、彼の天国の生活も捧げて下さったのです。イエスは、人間として地上で何年も暮らすためにそれを後にされなければならなかったのですから。何かにたとえるとしたら、人が、ミミズとして生まれ、何年かの間、ミミズとして生きるのに同意するようなものでしょう。自分は人間なのに、ミミズの人生を生きなければならないと知るのは、どれほど屈辱であり、どれほど困難なことでしょう。こうして考えてみると、イエスの私たちへの愛について新たな見方ができることでしょう。

主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは[神の]愛ということを知った。[42]

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。[43]

イエスには罪がありませんでした。思考、行動、感情のすべてにおいて神聖であり、常に、神と人間への完璧な愛の内に行動されていました。常に、父の御旨を行おうとし、それを成し遂げられました。どのようにそれを成されたかは、信仰の神秘ですが、聖書から、それが事実であることがわかります。

先のいくつかの記事では、イエスは完全に神であられることを、そして、この記事では、彼は完全に人間であられることを見てきました。次の記事では、教父たちがどれだけ苦労して、神性と人性とがひとりの人のうちにどのように結び合わさったかを確定したのかを見ていきましょう。

[The Heart of It All: The Incarnation (Part 2)]

July 5, 2011

[訳注:この記事に使われる「性」(または「本性」)という言葉は、性質・本質という意味で、特にキリストの持つ二つの性である「人性」と「神性」とを指します。また「位格」という言葉は、他者に対して区別される主体という意味で、三位一体の三つの位格を表す時や、「人格」「神格」を表す時に使われます。]

イエスの位格や、その人性および神性を神学的に定義しようという試みは、おもに二つの時期に起こりました。最初は4−5世紀で、次は19−20世紀です。

三位一体の教義が発展し、公式に確立されると、神学の面で次に焦点が当てられたのは、キリストの二つの性についてでした。(1)神としてキリストは神性を有し、(2)人間として生まれたことで、キリストは人性を有していました。これまでに見てきた通り、ニカイア信条は、イエスが真に神であり、真に人間であると述べています。ここから生じる質問というのは、ナザレのイエスの位格がどのようにして、両方の性を持つことができたのか、その二つの性が互いにどう作用したのか、ということです。片方の性が優勢だったのでしょうか? 神性が人性を支配したのでしょうか? どういう関係だったのでしょうか?

イエスの性に関する不適切な定義

4−5世紀に、多数の司教やその他の教会指導者が、神性と人性の関わりについて自分の考えに基づいた説明を提示しました。彼らの説明で問題となったのは、神性と人性を完全なままの別々のものとして見ないか、あるいは、イエスの内に二つの位格があると結論づけるかしたために、不適切なものであるということです。

このような不適切な説明の主要なものに簡単に触れることにしましょう。それは、キリスト教発展の歴史の一部なので、知っておくと役に立ちます。また、私たちの信仰についてより深く理解する助けにもなるでしょう。難しい質問をされたり、誤った教義を広めている人と向い合ったりする時には特に役立ちます。最初に挙げる二つは、仮現説とエビオン主義であり、キリスト教のごく初期、1−2世紀に生まれました。他の諸説は、4−5世紀に出てきました。

仮現説は、イエスが人間であったことを否定しました。仮現説の信奉者は、善き神は悪しき肉体をまとい得ないと考え、イエスの人生、誕生、苦しみ、死はすべて錯覚や幻覚であり、現実ではなかったと考えました。つまり、イエスの人間としての現実性を否定したのです。

(仮現説は、第1ヨハネ4章2−3節において、使徒ヨハネによって否定されています。以下の通りです。「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。」 また、第2ヨハネ7節にこう記されています。「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。」)

エビオン主義は、ユダヤ教を基盤としたキリスト教の一派から出たものです。ユダヤ教の一神論と、イエスが神であることはどうしても相容れないとして、エビオン派は、イエスの人性を強調し、神性を否定しました。彼らの考えによれば、キリストは人間であったが、厳密に律法に従ったために、洗礼者ヨハネによるバプテスマを受けた時に、救世主なる神の子になったということです。

アリウス主義先の記事で見てきた通り、アリウスは、ロゴスつまり神の子を、神の被造物であって、神ではないと見ていました。こうして、彼はイエスの神性を否定しました。

アポリナリオス主義361年ごろにラオディキアの司教であったアポリナリオスは、キリストは人間の体と人間の(動物的な)魂を持っていたが、人間の理性的な魂や精神は持っていなかったと教えました。キリストの内で機能していた理性的霊魂や精神というのは、ロゴス、つまり子なる神の霊魂と精神であるとしました。そうであるなら、イエスは完全に人間だったことにはなりません。人間の体を持っていただけで、人間の精神は持っていなかったということですから。前の記事で述べられたように、人のあがないのために救いをもたらすものとなるには、イエスは完全に人間でなければなりませんでした。アポリナリオス主義への反論として言われることの一つは、「ご自身が担わなかったものを、主は癒さなかった」というものです。救いに関しては、人間の体だけでなく、人間の精神・霊魂についても、イエスが代理となられなければなりませんでした。

ネストリウス主義ネストリウスは、428年にコンスタンティノポリスの司教でした。彼の名前のついたこの教えでは、キリストは実質的に、一つの体の内に、一つの位格ではなく二つの位格があったとされています。ロゴスと人間の真の結合はなく、いわば内在状態だったと主張しています。しかしこれは、新約聖書の描くイエスの姿とは相容れません。聖書は、イエスの人性が神性と分けられたものであると教えてはいません。三位一体の異なる位格の間にあるような、「私」「あなた」という関係は、イエスの人性とイエスの神性の間には存在していません。福音書の著者たちは、イエスの人性がこれをし、イエスの神性があれをしたとは言っていません。イエスは常に、二つの位格ではなく、一つの位格として描かれています。

単性説(エウテュケス主義としても知られる):ネストリウス派に反対して、エウテュケス(およそ紀元378−454)は、イエスの人性は神性と融合されているので、イエスは単一の性しか持っていないと説きました。結果として、イエスの性は、人性と神性を組み合わせたものである、つまり、この組み合わせは、人性でも神性でもなく、第三の種類の性であるということです。この教えは、二つの性の混合・混同とみなされました。

イエスの性に関する事実

イエスには、神性と人性という二つの性があったと理解することは大切です。しかし、片方がもう一方を吸収したわけではなく、二つの性が混合することもありえません。ですから、イエスの内に二つの性があったとはいえ、ただ一つの位格だったのです。イエスの内に、二つの性が並んで存在していたのではありません。もしそうだったら、イエスの一つの体の内に二つの位格があったことになります。しかし、すべては、一つの位格の中心から出ていました。二つの性が、イエスの内に結び合わされ、彼は、神と人という別々のものではなく、「神・人」という、一つの位格であったのです。[1]

イリアム・レイン・クレイグは、この点について次のように概説しています。「キリストは二つの性をもって存在する、と言うのは厳密にどういうことなのだろうか? それは、キリストは本質的に神性をもった存在であり、受肉によって、人間に不可欠な理性的霊魂と肉体とをまとったということだ。彼は、神であるために必要なすべてであり、人間であるために必要なすべてである。」[2]

イエスの内にあって、二つの性がどう関わりあうかを完全に理解しようとしても、それを知るのは不可能です。三位一体と同様、その概念を知り、理解することはできますが、実際にどう作用するかはわかりません。イエスは、肉体をもった神、つまり神・人であった唯一の存在です。ですから、私たち人間の経験になぞらえることのできるものはないので、完全にそれを理解することは不可能です。

神が「肉体をまとう」上では、イエスの受胎がそのための役割を果たしました。母親であるマリアは、男性とのかかわりなしに受胎しました。処女であった彼女は、ヨセフと婚約はしていたものの、結婚はまだでした。マリアは聖霊の力によって身ごもったのです。

聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。[3]

イエスは、人間の父親なしに受胎した唯一の人だったので、神性と人性を持ち合わせ、完全に人間であり、また完全に神であるという意味で独特の存在だったことは驚きではありません。処女懐胎は、イエスの神性のしるしであり、また、受肉して人となったことのしるしでもありました。

ここで、マリアについて少し話しておきましょう。マリアは「神の母」と呼ばれ、それはギリシャ語で「テオトコス(Theotokos)」です。彼女がこう呼ばれるのは、受胎の時からキリストは神であったことを明らかにするためであり、それゆえに彼女は神の母親であるということです。しかし、だからといって、永遠に存在するロゴス、子なる神の母親となったわけではありません。というのも、子なる神は、マリアの体内で受胎する前に、すでに永遠に存在していたからです。ですから、マリアは、彼の人性において、彼が人間であったことにもとづき、神の母親であったということです。

イリアム・レイン・クレイグはこう説明しています。キリスト教の受肉の教義は、イエス・キリストは肉体をまとった神であると述べている。つまり、イエスは真に神であり、真に人間であったのだ。イエスは、処女マリアから生まれた。つまり、『超自然的に』受胎したのだが、全く『自然に』誕生した。イエスは、肉体をまとった神であったので、彼の母親マリアは初期のクリスチャンの信条において『神の母』とか『生神女(しょうしんじょ)』と呼ばれている。それは、マリアの受胎の結果、神が存在するようになったからではないし、また、マリアが神を生じさせたからでもない。マリアが生神女(神を産んだ女)と呼ばれるのは、彼女がその子宮に宿し、生んだ方が、神であったからである。よって、その意味で、イエスの誕生は神の誕生だったのだ。」[4]

カルケドン公会議での問題解決

451年に、イエスの神性と人性についての問題を解決するため、皇帝マルキアヌスがカルケドン(現在のトルコにあった都市)にて公会議を召集しました。そこには、判定を下すために500人を超す司教が集まりました。この公会議では境界線が定められ、イエスの二つの性に関する論点について神学的な考察を行う際には、その境界線の内に留まることが定められました。この公会議は、どのようにして受肉がなされたかや、それがいかにして可能であるのかという問題の解決は図らず、ただ、その問題解決に取り組むにあたって、どんな意見を言うことができるか、あるいは言うことができないかという境界線を定めたということです。

公会議では以下のことが確認されました。

  • キリストには、人性と神性という二つの性があり、どちらも完全なものである。
  • キリストは、理性的霊魂と肉体の両方を持つ。
  • キリストは、人性においても神性においても完全である。
  • キリストの内には一つの位格しかない。
  • 神性と人性の結合において、混ぜ合わされることも、変化することも、分割されることも、引き離されることもない。

簡潔に言うと、二つの性を混ぜ合わせてはならず、位格を分割してもいけないということです。キリストの内には、二つの性があるものの、一つの位格しかないのです。

この問題を神学的に適切に扱うために留まるべき境界線について語る時に、大半の神学者は、二つの大きな岩の間を通って航海するたとえを使います。片方には二つの性があり、もう片方には一つの位格があり、その間を通って航海している限り、神学的に問題がないということです。

公会議で、新しい信条は発表されませんでした(ニカイア・コンスタンティノポリス信条が最後の信条でした)が、信仰の定理が発表されました。[訳注:日本語では、この定理は一般にカルケドン信条と呼ばれています。]その中で、アポリナリオス主義、ネストリウス主義、単性説が否定されました。カルケドン公会議の信仰の定理は以下の通りです。([ ]内は、私の説明です。)[訳注:日本語版がすでに著者の説明と同じ訳になっている箇所の説明は省略してあります。また、以下の訳はWikipediaに掲載されているものですが、最後の文が抜けていたため、そこだけ新たに翻訳してあります。]

われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。[アポリナリオス主義の否定] 同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じ[完全に人間]である」。神性においては、この世の前に父から生まれた[神性においては永遠に存在する]が、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた[マリアは、神性における母親ではなく、人性における母親である]。彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである[単性説の否定]。この結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく[ネストリウス主義の否定]、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである。これは、はじめから預言者たちが彼について宣言し、また主イエス・キリスト自身がわれわれに教え、教父たちの信条がわれわれに伝えたとおりである。

カルケドン公会議の後、何世紀かたって、単意説と呼ばれる教えが生まれました。この教えは、キリストは二つの性をもった一つの位格であると主張している点では、カルケドン公会議での決定を支持していましたが、神や人間としての意志はただ一つであったと主張しました。つまり、イエスの内には二つの性があったものの、意志はただ一つであるということです。ある人たちは、これはカルケドンの定理を否定するものと見なしました。

681年の第3コンスタンティノポリス公会議にて、教会指導者たちは、キリストの内には二つの意志があると結論づけました。意志は、二つの異なるキリストの性にそれぞれ属し、一つの位格に属するのではないということです。この二つの意志についての教義は全般的に支持されていますが、教会全体によって支持されているわけではありません。

これをもって、この主題に関する古代教会の論争は終わりを告げました。のちの時代、とりわけ19−20世紀になって、この主題についてさらに探求がなされました。それについては、次の記事で見ていくことにしましょう。


注:聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

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<コメント>

クリスチャンはこういうところを問題にするのですね。また色々な考え方があったのですね。

皆さんなら、どう説明されますか?

日本では、ウイリアム.レイン。クレイグ博士の本は出版されていないようです。

それどころか、グーグルでの日本語検索ではほんの僅かしか出てきません。

まあ、上記のサイトくらいでしょうか。

亨進様の本領発揮といった説教でしたね。

 

 

 


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