ある食口の話では、この世の学校の中には、天才教育として漢文の素読を実行して結果を出しているところがあるという。
何かのテレビ番組で紹介されていたそうです。
学校名は忘れたそうです。
戦前の徳育が姿を消し去り、知育中心に変わってしまったことの功罪は多くの方によって指摘されてきました。
統一家でも早くからそのことに対する意識はありましたが、では実際にはどんな内容とどんな方法でという統一家は行こうというような、具体性はなかったかと思います。
その間たくさんの二世は誕生し成長して、とっくに成人を超えた者も多くいます。
我々親たちはスケールの大きな人物を世に輩出するには至りませんでした。
韓流の時代劇に登場する世子は実に幼少時から堂々としています。
そんな姿をドラマではありますが、見ておりますと、つくづく人間というものは幼少期の心がまっさらな未決定の頃に、霊人体に精神的素養を吹きこまなければいけないのだと思いました。
「孝経」に続いて、「小学」について書かれている本で、安岡正篤の書いた「人間をみがく」を昨夜読んでいたら、以下の様な文章に出会いました。
灑掃(さいそうー掃除)・応対・進退のしめくくり、また親を愛し、長を敬し、師を尊び、友に親しむの道は、みな修身・斉家・治国・平天下の本たる所以であって、しかもこれを幼稚の時に習わしめる。この幼稚の時に習わせるということが大事であります。
幼児の時に漢文なぞ聞いても、わからないじゃないかと思うかもしれないが、
先ほどあげた学校では徳育も知育も共に成果を上げているという。
何度も素読していくうちに子どもたちはだんだんその意味がわかっていくという。
こうした生活原理が潜在意識に蓄積された人間は、様々な人生の局面の岐路に立っても
惑うことなく、考えることなく正しい決断を下せるようになるというわけです。
食口の中で、様々な状況の時、論語を学んできた人のように、適切な学んだ言葉を「み旨の道」から引用して唱える方には出会えませんでした。
行動の指針となるべきみ言葉がプログラムのようにインプットされている人間ほど
頼もしい者はいないでしょう。
言葉を知っているのと言葉を実践していることが別々ではない人間に我々はなるべきではないでしょうか?
小学について安岡は面白い話をしています。
国家とか経済とか、宗教とか、法律とか大きな議論をするくせに、人と応対一つ満足に出来ない、手紙一本ろくに書けない。事に当たると遺漏百出する。由来空疎は書生の通弊であるが、近代は特に甚だしい。之を維新の青年志士などに比較すると、日を同じうして語れないではないか。
朱子も之を患(うれ)えたものと見えて、如今(にょこんー)全く小学の工夫を失了せりと嘆じ、遂に此の書を編んだのである。そして修身の大法は小学書備われりと曰い、又、後世初学者はとにかく小学書を看(み)て、どういう人と倣(な)るの様子かを明らかにせよと語って居る。最高学府を出た俺だなどと高慢になっている輩は、小学なんて初学の者のやることだと棄てて顧みぬかも知れぬが、それは大間違いである。小学は初学の為の書であると共に老成の人の為にも無限の反省になる妙味ある書である。明の名臣に章楓山という篤学の大人(たいじん)がある。年八十をこえて、ある日一人の進士(科挙合格者)が、学問の次第を尋ねると、また小学からやり出さねばならぬと云った。進士はある意味に於いて一通り学成り名も挙がっている人物のことであるから、今更また小学などと頗(すこぶ)る不服の色があったが、何しろ楓山先生がそう云われるのであるからと思い直して、帰って小学を取り出し、之を読むこと三月、味わい窮まりが無い。そこで復(ま)た出かけて楓山先生を訪(おとな)うた。先生は顔を見るなり、小学を読んで来たのじゃないかと云われたので、びっくりして、どうしておわかりになりますかと尋ねると、君の語黙動静前と非常に違う。それで小学を読んで得るところがあったなとわかったのだと云うことであった。進士は喜んで退(さが)った。
どうやらわれわれは大言壮語してばかりで、基礎を固めることがこの身にできず、足元もおぼつかないような千鳥足で人生を歩んでばかりいたようです。
知行合一と言いますが、信仰以前の問題から克服しなければ、天下の笑いものになるばかりではありませんか。くわばらくわばら。
応援して下さる方は上のロゴをクリックして下さい。