原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

家庭連合が理解出来なかった「侍義」とは何か? 「孝経」の『諌争の章』に学ぶ

行いによって義とされる時代

信仰によって義とされる時代

侍ることによって義とされる時代

 

旧約から新約へ、新約から成約へと

神の摂理は人類を導いてこられました。

長成期完成級まで遡ってきた人類は

メシアによって原罪を精算されて祝福結婚を為し

信仰から新エデンの生活へと転換期を迎えます。

そこで統一教会も家庭連合に目的も名称も変更してきました

 

ところが、肝心の成約時代に必要である侍義については

その内容を明らかにすることが教会ではありませんでした。

侍義というのは、キリスト教思想よりも

儒教思想において語られてきたものだからでしょう。

韓鶴子オモニは三代の篤信なクリスチャン

アボジの家庭は途中からでした。

何故神はアボジの家庭環境をはじめからキリスト教に満たすのではなく

儒教的環境の中に誕生させ養育されたのでしょうか。

 

それは、東洋においては「天国」とは何かを最も探求してきたのが

儒教に他ならないからだろうと思います。

イエス様が殺害されてしまわれたので

神はイエス様の家庭を中心とする天国理想を断念される他はありませんでした。

むしろ、蕩減の必要上なのか、おおよそ宗教はキリスト教だけではなく

独身路程を行かざるを得なくなりました。

 

天国は二人で行くところであるにもかかわらず

どうやって行くというのでありましょうか。

天国に行くつもりで信仰の道を精誠を尽くして歩んだのではあるが

着いたところは、天国でないとしたら地獄でしかなかったことでしょう。

 

アボジは宇宙で最も重要な真理は神と人類が父子の関係であるということだと

喝破されました。

 

そこで、創造本然の世界においては、孝心ほど大切なものはありません。

家庭連合では、孝心をぼやっとした孝情という言葉で表現しているようです。

 

彼らが言う「孝情」と「孝心」とでは、どこがどう違うというのでしょうか?

 

昔の人は、少年の日に「孝経」を学びました。

孝経とは、弟子の質問に答えて、孔子先生が「孝」について説明されている18章の文章のことです。

 

「孝経」の全体像についてはまた別の機会に紹介するとして、

この「孝経」全体の白眉と思われる文章こそが『諌争の章』です。

 

孝経では家庭での孝心をもとに宮廷での忠心をも説いております。

孝心や忠心は現代においては馴染みにくくなっています。

そこでこのような心情世界を知るためには、かっての時代を扱っている映像表現を教材にするのが一番です。

 

皆様方もぜひ韓国時代劇を厳選され多くを学んでいただきたいと思います。

創造本然の孝心や忠誠とは何かを実に臨場感を持って考えさせてくれるものが

たくさんございます。

特に、高句麗を扱っている「広開土太王」を推薦いたします。

忠臣蔵で知られている我が国の忠誠とはまったく違う

天聖経の「真の孝の生活」でアボジが語られている孝心や忠誠の理解に大いに役立つこと請け合います。

 

 

ではさっそく竹内弘行氏の訳によって学んでみましょう。

 

孝経 (タチバナ教養文庫)

孝経 (タチバナ教養文庫)

 

 

 

第十五章 諫争の章

 

 曾子が、こう聞いた。

「かの慈愛にもとづく孝行や恭敬の心構え、親を安心させる名を後世に掲げるといったことは、参(しん=わたくしめ)は、教えを承けたまりました。

 あえてお尋ねしたいのですが、子が万事につき命令に従うことが孝行といってもよいのでしょうか。

 すると、孔子先生は、こう話された。

これはまた何という言葉か。これはまたなんという言葉か。

 むかし、天子には、無道な命令に従わず諌め争う大臣が七人いたので、天子が無道な振る舞いに及んでも、天下を失うには至らなかった。

 諸侯には、無道な命令に従わずに諌め争う家臣が五人いたので、諸侯が無道な振る舞いに及んでも、その封国を失うには至らなかった。

 大夫には、無道な命令に従わずに諌め争う私臣が三人いたので、大夫が無道な振る舞いに及んでも、その家系を途絶えさせるには至らなかった。

 士人には、無道に追随せずに諌め争う友人がいたので、その身が世間の善い評判を受けつづけられた。

 父親には、過失を諌め争う子がいたので、その身が不義におちいるようなことはなかった。

 それ故に、父親や君主に不義不正があったならば、子はしっかりと父親に対して諌め争わなければならないし、臣はしっかりと君主に対して諌め争わなければならない。

 ゆえに、不義不正があったならば、しっかりと諌め争うのだ。子が万事につき、父の命令に従うことが、どうしてまた孝行だなどと言えようか。

 

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 天道の本質は、母子関係ではなく父子関係です。

絶対「性」は、母子相伝ではなく、父子相伝です。

これがわからなければ、絶対「性」はわからないことになります。

父と息子、父と娘の関係が重要なのです。

母と息子、母と娘の関係は補助的な関係です。

韓鶴子オモニは悪意を持って「天の父母様」という名称に勝手に変更して

父性原理を後退させ、天倫の秩序を破壊してしまいました。

 

言い争うというのは、机をバーンと叩いて飛び出していくことではありません。

当然のことながら、出て行く息子を声をあげて追いかけて行く父をつくってはなりません。

あくまで衷心から言うのであって、心を裂いて申し上げるのです。

 

なんと家庭連合は低俗な孝情や低級な忠誠に身を任せる集団に成り下がってしまったことでしょうか!

これが成約の信仰だというのでしょうか?

 

孝経は四書五経を学ぶ前の準備運動の如きものです。

現代の我々にとっては、壮年が読んで考えさせられる程の内容です。

儒教の教育目標は聖人です。

少年たちは聖人を目指して学問をしました。

実践修養の書を学びました。

現代人の大人がどうして彼ら少年に敵うことができましょうか?

 

家庭連合では神人教育を教育目標としてきませんでした。

儒教にも劣る成果しか挙げられませんでした。

家庭連合では諫言する孝子や側近を育てることができませんでした。

今日二世のほとんどが 、サタンに奪われてしまったことが悔やまれてなりません。

 

 


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