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原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

サタン分立の信仰基台とサタン屈服・天使長主管の実体基台について

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<次子が先に信仰基台をつくり、長子が次に信仰基台をつくる>

次子であるアベルは自分の信仰基台をつくったなら、

続いて長子のカインが信仰基台をつくれるように導かなければならない。

 

アベルはこれができなかった。

何故できなかったのか?

何故殺されてしまったのか?

 

1,次子アベルの教育と指導を受けた長子カインは信仰基台をつくらなければならない

2,長子カインは信仰基台をつくることができたことに感激したので、喜んで次子アベ

  ルに従順屈服して奉仕することを心に誓う

3,次子アベルから見れば、次子アベルが長子カインを屈服させ、奉仕させる能力を得

  たことになる

4,次子アベルは、カインを屈服させることにより、カインの背後にあるサタンをも屈

  服させることになり、長子権を復帰することができる

 

<長子権復帰>

次子が長子になり、長子が次子になること

ex.ヤコブとエサウ

 

<主管基台あるいは実体基台>

次子アベルが長子権を復帰すれば、人間であるアベルが真のアダムの立場で、

サタンを主管することができる

人間アベルが真のアダムとなってサタンを主管できれば、

サタンは消滅し善の天使長に復帰することができる

 

<信仰基台とはサタン分立であり、実体基台とはサタン屈服による天使長主管である>

ヤコブが天使長と組打ちして勝利したのが霊的屈服、

その後ヤコブがエサウと抱き合って勝利したのが実体屈服。

信仰基台はアベルにとってはサタン分立であり、

実体基台はアベルにとってはサタン屈服であり、

カインにとってはサタン分立でもある。

 

主管基台のことを実体基台という。

 

教訓

● 信仰基台を立てたアベルにとどまるのではなく、カインにも信仰基台を立てさせて

  あげるヤコブにならなければならない

● 天使長を霊的に屈服させることができると、神はその者に新しい名前を与えられる

● サタンを分立できても、ヤコブやヨセフのようにサタンを屈服させなければならな

  

● 何も罪がないのに罪を受けざるを得ない時に、黙って罪を受ける者には福が来る

 

 

 

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 では、先ほど提示した疑問をお父様のみ言葉から一緒に考えてみましょう。

また、信仰生活における正しいアベル・カイン観を確認していきましょう。

以下のみ言葉は長文になりますが重要な文章で「牧会者の道」からの引用です。

 

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1 摂理史に現れたアベル・カイン

皆さんは、カインとアベルが共に神様に供え物をささげた時、アベルの供え物を受けられた神様の立場と、カインの供え物を受け取られなかった神様の立場は互いに違うようですが、そうではなかったということを知らなければなりません。カインに、天の立場を身代わりしたアベルを通そうとする心が少しでもあったなら、神様はそのカインの供え物を取られたのです。神様は時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに対そうとされたのです。(3−205)

 カインが神様に供え物をささげることに関心がなかったなら、神様がアベルの供え物を受けられようが受けられまいが、どうでもよかったのです。しかし、カインが憤り恨めしく思ったということは何かといえば、自分の精誠が及ばなかったと思ったのです。カインは神様に供え物をささげるために精誠を尽くすことにおいて、アベルより勝っていると思うことはあっても、対等な位置にいるとは考えもしなかったのです。そうではないですか? 同じ立場で同じ内容をもって供え物をささげても、自分のものをまず受けてほしいと願うのが人間の心です。

 アベルが当然受けてもらえるに値する立場であるなら、それは不平を言うことができないのです。対等でないのに何の不平があり得るのですか? しかし対等な位置で精誠を尽くしたのに受け入れてくれなかったなら、不平を言うではないですか? ですから皆さんも精誠を尽くすことにおいては、より勝らなければなりません。供え物は、より勝る精誠の因縁を備えてささげなければならないのです。

 アベルを中心にして見るとき、アベルもカインと同じ精誠で供え物をささげました。しかし、アベルはその出発点から神側であるため、神様は受けられたのです。ですから、アベルは神様が自分の供え物を受けられたとしてもただ「ありがとうございます」と言いながら温柔謙遜でなければなりませんでした。そうしたならカインが殺そうとしますか? しかしアベルは、神様が自分の供え物だけを受けられたので、カインの腸が煮えくり返るほど、度を越えて喜んだのです。どんなにうれしくても一人で喜んで黙っていたなら良かったのに、兄に自慢したのです。皆さんもうれしいことがあれば自慢したいですか、したくないですか? 自慢したいでしょう? 同じようにアベルも兄にそれを自慢したのです。ところが自慢が度を越えて「お兄さんの供え物は受けないで私の供え物は受けた。だからお兄さんより私が、より勝っただろう!」、このようなことまで話したのでしょう。ですからカインの顔は真っ赤になったでしょうし、憤らずにはいられなかったのです。そのように考えることができるのです。

 アベルは神様の恩恵を受けたからといって、うれしいと自慢をしてはならなかったのです。恩恵を受けたならむしろ自分の不足を悟り「お兄さん、すみません」と言わなければなりませんでした。そうしたならカインが殴り殺しますか? 殺さないでしょう。これがアベルの失敗です。(34−51)

 皆さんはアベルが好きですか、カインが好きですか? (アベルです)。私はカインも好きでなく、アベルも好きではありません。どうしてでしょうか? アベルが、カインすなわち兄と共に供え物をささげた時、神様が自分の供え物だけ受けて兄の供え物を受けなかったとしても、兄に純粋に対さなければなりませんでした。兄のことを考えなければなりませんでした。そして「ああ、お父さん、なぜ私の供え物だけ受けたのですか?」と言って泣きわめいて、兄のところに行って「私の供え物だけ受けた神様は嫌いです」と言ったなら、神様はどうされたでしょうか? 間違いなくカインを愛さずにはいられなかったでしょう。

 カインとアベルは、供え物を同じように準備して神様の前にささげたことでしょう。カインは穀物を、アベルは羊を一年間精誠を尽くしてささげたのです。精誠を尽くすことはいいというのです。ところで誰が精誠をより尽くしたかという問題を離れて、供え物を受ける受けないという問題を見るとき、神様はアベルの供え物を受けざるを得ない立場であるから受けたのです。

 ところで、アベルは神様が自分の供え物だけを受けられたので、自分ができが良くて、神様は自分だけが好きなので受けたのだと思って「お兄さん、見てよ。私の供え物は受けられたよ」、そのように自慢したのです。間違いなくそうしたのです。そうしなかったなら、じっとしているカインの顔がなぜ赤大根のように真っ赤になりますか? アベルが黙っていたのにそうなったのでしょうか? 間違いなくアベルはカインの前に行って「お兄さんが何だ、私の供え物を受けただろう」と言って両手を振りながら歩き、ねちねち振る舞ったでしょう。アベルは驕慢では駄目だということです。謙遜でなければなりません。それだから殴られて死んでも当たり前だというのです。殴られて死ぬようになっています。

 統一教会の信徒はアベルにならなければならないでしょう? (はい)。それでは皆さんはアベルになりましたか、なっていませんか? なっていっているのかどうか分かりませんが、頭をもたげて「既成教会の牧師がなんだ? 堕落がどうしてなったって? なに、善悪の果を食べてなったって? 牧師であるあなたたちも、こういう問題は知らないではないか?」と言いながら驕慢に振る舞うことは、殴られて死んだアベルの行動と同じことです。そうしていたら統一教会は難しくなります。皆さんがそうしましたか、しませんでしたか? 先生は「どうかそうしないでくれ」と言ったのに、皆さんは外に出ていって、そのようにして歩いたというのです。(34−272)

 カインとアベルが供え物をささげたのち、アベルの供え物だけを神様が受けられたことを知ったカインはアベルを憎み殴り殺しましたが、ここには、カインとアベルが供え物をささげるために準備をする時からアベルを憎む心があったことを皆さんは知らなければなりません。カインは、神様が自分の供え物を受けられないので瞬間的にアベルに対する憎しみがわいて彼を殴ったのではなく、そのことにぶつかる前からアベルが憎くて殴り殺したい心がカインにあったというのです。

 そういう堕落性の血統を受け継いだ今日の皆さんが、宇宙的な嘆息の峠を越えるためにはどうしなければならないのでしょうか。これから皆さんは、神様に不信と争いの条件を成立させる祭壇を積むのでなく、父の栄光を紹介し、父に喜びと栄光を抱かせてあげることのできる勝利的なアベルの祭壇を積まなければならないのです。

 ですから、今日皆さんの生活はただ皆さん個人に局限される生活ではありません。全体を身代わりした生活だというのです。皆さん個々人が父の前に身をかがめるその時間なら時間、み旨を中心にして暮らす生活ならその生活が、直ちにその時間と生活でとどまるのではありません。そこからカインの立場なのか、アベルの立場なのかという二股道が決定するのです。すなわち、今日皆さんはひょっとすればアベルになり、ひょっとすればカインになることができる、ものすごい歴史的な瀬戸際の道に処しています。

 そういうことを知って、もう皆さんは教会を中心に誰がアベルで誰がカインであるかを分別することができなければなりません。二人の人がいれば必ず一人がアベルで一人がカインであること、三人の人がいれば二人がアベルになることができます。また、カインにもなることができますが、一番中心的なアベルとカインがいるということ、これを皆さんが確実に分別することができなければならないのです。

 そして、そのカインとアベルが一つにならず別れていてはなりません。一方は右手で一方は左手なのです。そのため誰でも私の神様であると同時にあなたの神様であり、私を愛するだけでなくあなたを愛する神様であられるという信仰の立場で、お互いがアベル的な存在を訪ねて侍り、カイン的な立場を避けるための最大の努力をしなければなりません。もし、そういう人になれなかったなら、皆さんはいつかは天の審判に引っかかってしまうということをはっきり知らなければなりません。

 今日私たちの教会を中心にして見るときも、ここには必ずカインとアベルがいます。それで神様はアベルを通じてみ言を現し、すべての人がアベルと一つになることを願われるのです。それなのに、そのアベルと一つにさせないようにする者がいますが、それが誰かといえば正にサタンです。ですから皆さんが正しい信仰をもつためには、皆さんよりアベル的な存在と一つにならなければなりません。そのために、その方に自分のすべてのことを相談することができなければならないのです。(3−206)

 今日統一教会がカイン、アベル問題を提示するということは、イエス様の時代が過ぎたという話です。そして父母の前に立つことができるカイン・アベルという復帰されたアダムの家庭、すなわちサタンの讒訴を受けない兄弟の位置をいうのです。何の話か分かりますか?

アベルの位置に立つためにはカインを探さなければならない」と言いました。それでは神様はカインを探すためにどのようにされたのでしょうか? イエス様をアベル的な立場に立たせて、イエス様を通してカイン的な存在を探すため国家的な摂理をしてこられたのです。ですからカイン的な国家があり、カイン的な教派があり、カイン的な氏族があり、カイン的な家庭があり、カイン的な個人があるのです。(34−54)

 

2 アベルになろうとすればどうしなければならないか

 アベルは復帰路程において何よりも重要な使命をなさなければなりません。アベルという存在がみ旨の前に設定されたのは堕落のゆえです。もし堕落がなかったなら、アベルという存在をみ旨の前に設定する必要がないのです。

 アベルが設定されようとすれば一人でいては設定されないのです。アベルがいる前にカインがいなければならないのです。アベルとして備えなければならない最初の要件は、カインがいなければならないということです。カインがいなくては、アベルになることはできないのです。また、アベルが本当のアベルとして選びを受ける位置に立つ時までは準備期間が必要です。言い換えれば、天側に立つのか立てないのかという期間が必要なのです。私たち統一教会ではそれを信仰基台を立てる期間だというのですが、その期間は供え物をささげる期間です

 供え物をささげるのは何のためかといえば、神様と私たち人間が別れたので再び心情的にきずなを結んで、また外的にもきずなを結ぶためなのです。そのため、そういうことを成し得なかったなら祭物になれないのです。祭物はそれ自体のためにあるのではありません。祭物は必ず、祭物を受ける人とささげる人のためにあるということを私たちは知っています。こういう祭物路程を歩むことが今までの旧約歴史であり、新約歴史であり、これから成約歴史に延長されていくということを私たちは知っています。(56−74)

 アベルになるためにはカインがいなければなりません。アベル一人ではアベルになれません。必ずカインがいなければなりません。ところでカインには、天側カインとサタン側カインがいます。イエス様を中心にして見るとき、洗礼ヨハネは天側のカインでした。洗礼ヨハネが天側のカインに立てられたので復帰が可能だというのです。そうでしょう? (はい)。サタン側のカインはかじり取り、ほえるのです。それが原則であり、サタンの本性です。

 皆さんがアベルになるためにはまず神様と一体とならなければならず、その次にはカインがいなくてはなりません。それではカインは誰ですか? 皆さんのカインは誰ですか?

 カインがカインの位置に上るためには僕の僕の位置、養子の位置を経て息子の位置まで上らなければなりません。ここでの息子は讒訴を受けない息子をいうのです。この位置を経て、初めて神様の前に立つことができるカインの位置に上り立つのです

 ところでカインは、一人ではそういう位置に上ることができません。誰かが引き上げてくれなければならないのです。それでは誰が引き上げてくれなければならないのでしょうか? 引き上げる人はメシヤの使命をなすのです。それでは誰に代わって引き上げるのでしょうか? 父に代わって引き上げるのです。すなわち神様の心情を身代わりして引き上げるというのです。ですから父母の心情をもってこそ、引き上げることができるのです。

 私がアベルになるためにはカインを探さなければなりません。カインを探す前にはアベルになることができません。したがって私が神様の代わりの立場で、僕の僕の位置と僕の位置を経て、養子の位置を経て、息子の位置に上がらなければならないのです。そうしてカイン・アベルを中心に屈伏したという条件を立てれば、初めて神様の前に立つことができる息子の責任が終わったということであり、その位置でカインが協助する立場に立てば、父母の位置に出るようになるのです。何の話か分かりますか?

 それゆえに皆さんが伝道するのは、最初にカインをつくるためであり、二番目にアベルの位置を決定するためです。したがって、アベル的な立場に立ち、伝道する皆さんは神様の代身の立場なのです。また皆さんは神様を中心にして、イエス様の代わりに僕の立場を復帰する時代に、先祖たちができなかったことを身代わりして復帰しているのです。こうしてアダム時代からノア、アブラハムモーセ、イエス時代を経て上ってくるのです。イエス時代に来てこそアベル・カインが決定するのです。イエス様時代以前には全部養子の位置にいたということです。34−53)

 アベルを選定するにあたって最初に誰だと言いましたか? (天のお父様です)。その次には? (善なる霊人たちです)。それから? (天使)。その次は? (サタン)。(笑われる) そういう話は初めて聞いたでしょう?

 なぜそうなのでしょうか? サタンが「彼はアベルになる資格がない!」と言うときは駄目だというのです。サタンがアベルはこうで、こうで、こうで、こうでなければならないという条件をみんな知っています。サタンが「こうで、こうでなければなりません。それなのにそういう条件がなっていない」、そう言うとき、神様がそうすることができますか? 「この野郎サタンめ! 私がするというのに何だ?」、こう言うことができますか、できませんか? (そうできません)。判事の前で検事が「あ、あの人にはこういう罪があります」と言うのに、判事が「この野郎、私がするというのに何だ」と言うことができますか? (できません)。同じことです。神様は裁判長であり、サタンは条件を引っかける検事だというのです。同じだというのです。それでは弁護士と同じ責任は誰がするのですか? それは善なる先祖と天使長たちが、私たちと同じ復帰された善なる祖先たちと天使長たちがやるのです。

 ところで、皆さんが決定することができるのかというのです。皆さんが「おお神様、私がアベルに決定しましたので神様よ! 先祖たちよ! 天使たちよ! サタンよ! 公認しなさい」、それができますか? 自分がそうすることができますか? (いいえ)。アベル側にはなることができます。アベル側には立つことができますが、アベルになることはできないということを知らなければなりません。アベル側です。それを知らなければなりません。それが何の話か分かりますか? (はい)。

 さあ、アベルに選定されようとするならば、まず神様の召命を受けなければなりません。「やあ、誰それ、お前はこういう責任を果たさなければならない」と言うとき、「はい」と言わなければならないのです。神様がそのように呼んだなら、神側に立っている善なる先祖たちが喜びますか、喜びませんか? 反対しますか? (喜びます)。(89−21)

 アベルはどのようにしなければならないのでしょうか? 最初に神様と一体にならなければならず、二番目に天使長を愛さなければなりません。それでサタンである天使長に「あなたは神様の息子であるため間違いなく相続者です」と認定を受けられなければなりません。この時、天使長の立場にいる人はカインであり、アダムの立場にいる人はアベルになるのです。これをはっきり知らなければなりません。

 それでは皆さんはアベルですか、カインですか? (アベルです)。アベルになりましたか? アベルになろうとすれば神様の愛を受けなければならないのに、皆さんは神様の愛を受けていますか? 受けていると思っていますか? 自分の手を見れば「ああ、この手は神様の愛を受ける手だ。ああかわいい」、そうしてみましたか? 「私の四肢は神様の愛を受ける手だ。ああかわいい」、そうしてみましたか? 「私の四肢は神様の愛する体であるなあ」、そう感じてみましたか? 「私の血と肉には神様の血と肉があり、私の愛には神様の生霊要素が躍動している」ということを感じてみましたか? そういう感覚を受けることができなければなりません。しかし、みなそうはできないというのです。分かりますか?

 最初は何をしなければならないといいましたか? これをはっきりと知らなければ駄目なのです。最初は神様の愛を受けなければならず、二番目は天使長を愛さなければならないのです。この二つができなければ駄目だというのです。

 人間が堕落することによって偽りの父母が出てきたのです。それでカインとアベルに分立して復帰摂理をするのです。すなわちアダムの代わりにアベル、天使長の代わりにカインを立てて復帰摂理をするのです。

 それではアベルになろうとすればどうしなければならないのでしょうか? まず神様と心情一致しなければならないといいました。心情一致して神様の気に入れば、神様が愛さずにはいられないというのです。また、心情が一致するようになれば、神様の息子になるために「おい、お前こうして生きなさい、ああしなさい」というふうに生活的なことを提示するようになります。それでは指示したとおりにしなければなりませんか、しなくていいですか? (しなければなりません)。指示どおりにして神様の目的を成してあげなければなりません。こうすることによって心情的一致が外的一致に現れるのです。皆さんはこういう原理をはっきり知っていかなければなりません。(34−85)

 カインとアベルはどんな位置で決定するのでしょうか? これが問題になります。カインとアベルは平安で良い位置で決定するのではありません。

 カインとアベルが必要なのは何のためですか? 考えてみてください。それは蕩減復帰するために必要なのです。そうでしょう? それでは蕩減復帰しようとするならどうしなければなりませんか? 祭物にならなければなりません。(34−91)

 神様はアベルをどんな位置で決定するのですか? サタンの讒訴を受けない位置で決定するのです。それではサタンの讒訴を受けない立場とはどんな位置でしょうか? 神様と一致した位置ですが、その位置はどんな位置であるかといえば、うれしい位置ではなく一番悲しい位置、一番難しい位置です。言い換えれば、死のうとする位置、一番悲惨な位置で神様と一体になることができるというのです。(34−51)

 原理的な立場でアベルとは何ですか? 中心です。この中心の中には神様が入っていなければなりません。ところで皆さんはアベルになりましたか? (なれていません)。なぜなれていませんか? アベルになるためにはまず従順でなければなりません。神様に従順で一体とならなければならないのです。神様と一体となろうとすれば神様がしなさいというとおりにみなしなければなりませんか、してはなりませんか? (しなくてはなりません)。神様がしなさいということをみなできなければアベルになれません。九十九まで全部やったとしても、一つができないならアベルになれないのです。(34−46)

 皆さんに「お前は個人的なアベルになったのか」と言うとき、皆さん自身がアベルになろうとするなら三人のカインがいなければならないのです。ですから「そのカインとは誰か?」と言うとき、「私のカインは誰と誰です」と言えなければなりません。そうすればそういう個人は、そのカインを中心にして縦的な歴史を横的に蕩減することができるのです。そのためその縦的基準において、その個人が中心の位置に立つようになれば一人の人として横的に蕩減することができますが、そういう個人になれないときには三時代、すなわち三段階を経なければ駄目なのです。そのため「お前のカインは誰か」と言うとき、「誰、誰です」と天の前に盾になるのが、統一教会でいう信仰の三子女です。三子女だけもっても駄目です。その三子女によって家庭の基盤を築かなければならないのです。家庭をもてばいつでも天国に行く道があります。(56−98)

 それでは統一教会でカイン・アベルというとき、「私が先に入ってきたからアベルだ」、その言葉は当たっていますか、当たっていませんか? (当たっていません)。かえってそれはサタンになります。かえってそれがカインになる可能性があるというのです。ちょっと間違えばサタン側に先立ちやすいのが、統一教会に先に入ってきた輩たちです。

 それではアベルになれる資格は何かといえば、アベルになった勝利的基盤がなければなりません。さあ、ここで統一教会で見てみれば先に来たのがカインです。あとで来たのがアベルになるというのです。そのため先に入ってきた人が神様と同じく天使に命令することができて、堕落していないアダムと同じく一つになることができるならいつでもアベルになりますが、もし自分を立てて神様のみ旨の模範になれない人は全部カインになるというのです。これは統一教会においてもそういう関係になりますが、統一教会を中心にしてすぱっと世の中を見れば、こういう世の中に現れたためにカインだ、こう見るのです。ですから私たちはアベル側になることができるのです。

 さあ、それではこの外的な世の中を見たなら、ここにもカイン・アベルがいることを知らなければなりません。悪い人の中にさらに悪い人、少し悪い人、カイン・アベルがいます。ですから外的世間ででも民主世界と共産世界が争い、内的世界ででも統一教会と既成教会が争い……。こういうことが起こってくるのです。既成教会が兄さんで私たちが弟だというのです。それでは先に現れたキリスト教は兄さんでカインの立場であり、私たちは弟でアベルの立場であるから、弟に屈伏しなければならないのにそうしなかったなら、ちょん切るのです。(76−329)

 

3 誰がアベルで誰がカインか

 今日統一教会の信徒の中に「お、私が先に入ってきたのでアベルであり、あとで入ってきた人はカインだから、私に侍りなさい!」と言う気違いたちがいます。そういう気違いたちが多いのです。アベルとはどんな者がアベルですか? 神様のみ旨どおりにする人がアベルです。より公的な人がアベルです。これを知らなければなりません。カインは何ですか? サタン側です。サタンは何ですか? 自分を考えるところから出発するのです。アベルは自分のことを考えず、神様を考えるところから始めるのです。これを知らなければなりません。

 先に入ってきたとしても、自分の欲心を振るう人はカインです。自分の考えが先に立つ人がカインです。そういう人は追放しなければなりません。先生はこういう原則で人に対します。どんなに長くなった食口でも、その心根が自分のためになるときは目もくれません。今は仕方なく私がそのままにしていますが、時が来れば荷物をまとめて追い出すのです。先に入ってきたといってアベルではないというのです。分かりますか? 私的な基準が先に立つのがカインで、自分より公的な問題、天をより考えるのがアベルです。これをはっきり知らなければなりません。(58−68)

 ここ統一教会の信徒たち同士で兄弟を決定するのに、先に入ってきた人はアベルの立場であると同時にカインであり、あとで入ってきた人はカインの立場であると同時にアベルです。(24−348)

 カイン・アベル問題を中心として……。「私は、本部から発令された地区長であり、または教域長であり、または教区長だから、私の言葉を聞くのです」。とんでもないです。こちらは神側であちらはサタン側であるため、サタン側が自分の言葉を聞くようになっていますか? カインはサタン側なのに、サタン側が自分の言葉を聞くようになっていますか? なっていないというのです。自分の言葉を聞かせるためには三倍努力しなければならないのです。三倍努力すれば一つは返ってくるのです。それはなぜですか? 蘇生、長成を越え完成数が天のものであるから、今日復帰路程でカインを救おうとすれば三倍努力して一つが返ってくるのです。そうなっているのです。それなのにこれは伏せておいて、命令することだけ知っていて、命令を受けることを知りません。姿勢が間違っているのです。

 カイン・アベル原則はそうではないというのです。アベルはカインの生きる道を整えるために血を流したというところに価値があるのです。そこに貴いものが、そこに勝利の基準があるのです。皆さんも同じです。皆さん自身がみな食口たちのためにどのくらいアベル的な責任を果たしたのですか? 犠牲になってその一つの生命を……。人生の最高の目的と同じくらいその一人に生命を傾けて、どのくらい育ててみたのかという問題を、皆さんが自問自答してみなければならないというのです。(70−149)

 統一教会の信徒たちの中でも自分を主張する人は全部カインです。先に生まれたのがカインでしょう? 先に生まれたのがアベルではないのです。先に生まれたのがカインであるため、教会に先に入ってきたと自分を高く考え、遅く入ってきた人を無視する人たちはカイン族内の血統を受け継いだ人です。そういう人たちは将来霊界に行って修練を受けなければなりません。そうしなければならないというのです。見ていなさいというのです。

 自分が先に入ってきたといって自分を主張する人を、先生は使いません。そういう人を使えば間違いなく滅びるのです。そういう人たちはサタン側です。

 そのため最後まで尊敬しなさい。最後まで愛し、最後まで恭敬しなさいというのです。先生が早朝から起きて水沢里に来るにもかかわらず朝寝坊をする者たちは、これから全部追い出されるのです。そういう原則があるということを知らなければなりません。分かりますか?

 統一教会の信徒の中でどんな人がカインでしょうか? 頭を振りかざして人を使おうとする人たちがカインです。それではアベルは誰でしょうか? 責任を果たそうとする人たちがアベルです。分かりますか? (はい)。本来は先に入ってきた人たちがカインであるにもかかわらず、今日統一教会の信徒たちは、先に入ってきた者どもがアベル役をしようと威張り散らしています。それは自縄自縛することです。そういう人がどんなまねをしたとしても、原理原則どおりにやらなければ、先生は使ってあげないというのです。(49−214)

 アベルという存在はどんな存在で、カインという存在はどんな存在ですか? 私たちの原理で見てカイン・アベルを端的にいうなら、カインという存在は自分に心配があればその心配を他人におおいかぶせようとする人であり、アベルという存在は自分の心配もあるが他人の心配までも引き受けようとする人です。その差だというのです。(62−189)

 アベルとはどういう人ですか? 神様の愛を先に受け、その愛に比例するみ旨を抱き、そのみ旨を愛を受けただけ行い、み旨を立ておいた人です。アベルは神様の愛を受けたので、神様の復帰のみ旨を選ぶためには犠牲にしながらも行かなければなりません。み旨の基台ほど相対圏を死んでも成さなければならないので、行かなければなりません。この世界は相応的世界でなく、堕落圏内の相衝的世界です。その相衝的世界を取り除いてしまい相応的世界圏を願ってきたので、その世界は今のこの世界ではありません。新しい時代が来るのです。(51−82)

 アベルとはどんな人ですか? どんな環境でも喜ぶ人です。喜ぶのに誰がまず喜ぶのでしょうか? 神様がまず喜び、その環境で喜ばなければなりません。これと同じ内容を見るとき、アダム・エバの家庭でアベルが責任を果たせなかったということを知ることができます。

 二人の人が互いに怨讐と同じ感情をもって耐えられずに対決する位置にいるとき、どちらの人が残るでしょうか? ここでは復讐をするのが鉄則ではありません。その復讐の裏面に一つの条件、すなわち許すことができる雅量があれば復讐は成立しません。より勝るものの前にはより劣るものが吸収されるのです。ここでどちらが主体でどちらが対象でしょうか? より勝るものが主体で、より劣るものが対象です。

 それでは、皆さんが良い人になろうとするその人はどんな人でしょうか? 絶対者であられる神様の前に絶対的基準を立てる人です。その絶対的基準には世界も含まれ、国家と民族、そして社会のすべての制度と理念が含まれるのです。そうでなければならないのです。そうすることができる絶対的環境を備えなければなりません。どんな社会、どんな制度の中でも、自分自身が与えることができる雅量をもった存在にならなければなりません。(34−233)

 皆さんは今までの神様とサタンの作戦法を知らずにいます。打たれて奪ってくる道がアベルの行く道です。サタンはまず打つので勝ったようですが、あとには、もっている自分の善なるものまでプラスさせて返してあげなければならないのです。何の話か分かりますか? 悪の側というのは相対を打って占領したとしても、占領したそれが栄えるのではなく、悪の中にある善なるものまで奪われるのです。言い換えれば、神様はもちをついて渡してから、それを取り戻す時には、もちにきび粉をつけてくるのと同じような役事をなされるのです。一時的には悪が盛んで善を打つ立場に立つのですが、だからといって天が滅びるのではありません。

 それでは、カインとアベルをどのように区別するのかという問題を皆さんが知らなければなりません。統一教会の信徒たちの中でも、二人の人がいればその中にカインとアベルがいるのです。どんな人がアベルでどんな人がカインかといえば、侵害を受ける人がアベルで、害を加える人がカインです。じっとしている人のところに行って意味なく「この野郎!」と一言でも言ったらカインになるのです。例えば父母の前に二人の息子がいて、大きい息子は年が上で小さい息子は年下だとしましょう。ところで、その父母の相談の相手とかすべての面において父母の代身になれる息子は長男だけだとしても、この長男が、下の息子が何の失敗もせず何の過ちもないのに、下の息子に手を挙げるなら、一遍にその父母は上の息子側に立つのではなく、下の息子側に立つのです。これが今日社会で適用される善悪の判別基準であるということを知らずにいるのです。害を与える人が必ずカインになるのです。

 私たち統一教会の信徒たちにおいて、教会のために熱心に働き精誠を尽くす人を見て、「あの人、人と違って際立ってあれは何だ」と悪口を言えば彼はカインになるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。カイン・アベルはそうやって分かれるのです。罪のない立場で批判を受ける人、被害を受ける人は必ずアベルになるのであり、批判する人、害を加える人はカインになるのです。

 一言話をするにしてもそうです。言葉を話すにしても、他人に利益を与える言葉を言う人はアベルになるのであり、他人に害を及ぼす言葉を言う人はカインになるのです。言い換えれば、私が他人に利益を与えるということは加害ではありませんが、自分の利益のために何かをするということは人に害を与えるということです。ですから他人に利益を得させるための位置が公的な位置であり、自分の利益のための位置は私的な位置です。このように、公と私を中心にアベルとカイン、善と悪は分かれるのです。これを皆さんは知らなければならないのです。(56−85)

 より公的な存在がアベルです。統一教会の信徒たちの中に先に入ってきたからアベルだと考える人がいますが、先に入ってきても公的な立場に立てなければカインです。間違いなくカインです。カインも自分が先に生まれはしましたが、アベルより公的な立場に立てなかったためアベルに従わなければならなかったのです。統一教会の信徒の中でも先に入ってきたとドカッと居座って「私が先に入ったのでアベルだ」と言う人がいるかもしれません。しかし、あとで入ってきた人より公的な位置に立てなければ何ですか? (カインです)。カインです。アベルだというのは盗賊です。アベル的存在はより公的な立場に立った人です。(31−165)

 統一教会内で皆さんは、カイン・アベルの関係に互い違いにかかっています。原理的カイン復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰をしなければならないのに、平面的に関係を結ぼうとすれば皆さん同士ぶつからなければなりません。統一教会は無慈悲なところです。皆さん、統一教会を良いところだと考えないでください。統一教会は冷たいところです。冷やかでなければなりません。そうでありながらも言葉なく頭を下げて他人のために生きなければなりません。

 そのためお互いが無関心主義であるように見える人たちが多いです。しかし、全体のために犠牲になる人がアベルであることを知らなければなりません。分かりますか? いくら先に入ったとしても関係ないことです。先生には好きなように変更する権限があります。縦的歴史が蘇生、長成、完成の三段階になっているために横的な歴史も蘇生、長成、完成の三段階になっています。先生が定めるとおりに、この期間を延長することもできるし、短縮させることもできます。皆さんはそれを知らなければなりません。(49−217)

 先生が全生涯をささげて自分の利益よりも公的な利益のために犠牲になり、そういう材料なら材料、量なら量をたくさん投入したことが隠されているために、皆さんが自然に仰ぐようになるのです。それが原理です。それが天運です。

 皆さんが今回帰ったなら、いろいろな人たちの胸に残ることができる自分になるように願います。そうすればこそアベルになるのです。分かりますか? アベルのみ旨は反抗する位置で成されるのではなく、心から頭を下げて、「ために」生きる因縁が起こることによってアベルの基盤が連結されるのです。

 アベルの完成は個人的アベルの完成、家庭的アベルの完成、氏族的あるいは民族、国家、世界的アベルの完成の基盤に続いていかなければ、世界復帰ということは不可能なことです。そういうことを知っている私たちは、夜も昼もやって来るその日その日を中心にしてこの原則を適用させ、この原則の発展を連結させるために休まず走っていくことができなければなりません。そういう人を、「天の人だ」と言うことができるのではないでしょうか。分かりますか? (64−81)

 

4 食口間におけるカイン・アベル関係

 統一教会の信徒の中でもカイン・アベルがあるのですが、先に来た人がカインなので先に来た人が重要だというのです。そういう意味で統一教会に一番先に来た人は誰ですか? 一番先に入ってきた人が先生でしょう? 先生より早く統一教会に入った人がいますか? ですから先生がカインでしょう。神様に尋ねてもそうだというのです。しかし「やあ、侍りなさい、こっちに来い、この者ども」と、先生は皆さんに強制して「私に侍れ」とは言いません。するならし、しないならするなというのです。ただ正しく教えてあげるだけです。秋風が吹く前に遭うことになる夏風が恐ろしいということを、皆さんは知らなければなりません。

 私たち統一教会の信徒たちを中心にして見るとき、カイン・アベルが誰かといえば、横的には先に入ってきた人がアベルで、縦的には新しく入ってきた人がアベルです。縦横関係を見るとき、横が縦を重要視しなければならないのであって、縦が横を重要視するのではありません。こうなるのです。

 神様と人間を見るときにも、神様が人間を重要視することよりも人間が神様をさらに重要視しなければなりません。この伝統を重要視しなければならない摂理歴史は、手本にする路程だというのです。私が今まで三十六家庭に苦労をさせるのは、この法度に引っかからないようにするためです。統一教会の信徒たちにはみな黙っておきましたが、祝福を受けた家庭たちは全部苦労の道に送ったのです。それはアベルとしてしなければならない責任を果たしなさいということなのです。統一教団を中心にして、アベルとしての責任を果たしなさいということです。

 ですから四方を備えなければなりません。皆さんの思いどおりにするのではなく、先生がするとおりにし、先生が行くとおりに続いていきなさいということです。先生が別に教えてあげるのではありません。統一教会の伝統を受け継ぎなさいというのです。統一教会の文先生がするとおりに皆さんもしなさいというのです。先生も家庭を捨て、父母を捨ててこの道を歩んできました。皆さんもそれに従順に従っていかなければなりません。

 アベルになる秘訣は何ですか? 伝統を守ることです。殺されようとしながらも反発しない人がアベルになるのです。皆さんはこれを知らなければなりません。イエス様を幼い羊だといったでしょう? ですからたとえ刺されたとしても反発してはならないのです。(49−214)

 さあ皆さん、責任者たちはカインですか、アベルですか? 先生の前にはカインです。そうすると皆さんは先生に対して「先生は私より兄さんになってもいいんです」と言うでしょう? 先生が先生になろうとすれば、先生自身よりもさらに皆さんを、「ために」尽くし愛さなければなりません。そういう論理です。それはどこででも同じことです。何の話か分かりますか? (はい)。横的に見れば皆さんが先に立たなければならないというのです。サタン世界に対しては皆さんが前に立ったというのです。何の話か分かりますか? 横的に見れば皆さんがサタン世界に先立っているというのです。先に生まれたのと同じような位置に立つというのです。しかし縦的に見れば皆さんが私の下に立つアベルです。あとで生まれた位置に立つというのです。ですから私が神様と絶対に一つにならなければなりません。絶対一つになって、カイン・アベルと一つにならなければなりません。

 これは原理的です。これは縦的であり原理的です。神様が先にいるから長子であり、私は次子です。また統一教会で見れば、私が長子で統一教会に入ってきたみんなは次子の位置にいます。縦的基準は原理型です。しかし、横的基準はサタンになるのです。反対になるのです。それをはっきり知らなければなりません。縦的な基準が原理型です。分かりますか?

 縦的に見れば先生が長子の位置にいて、皆さんは次子の位置にいるのです。また、横的に見れば皆さんが長子の位置にいて、先生が次子の位置にいるのです。それで皆さんを復帰させようとするならば、先生は奉仕しなければならないというのです。論理がそうなのです。反対になるのです。ですから皆さんが横的に責任を果たしてこそ、ここに入ってくるのです。皆さんが先生と完全に縦的横的に一つになればこそ、アベルの位置に立てるのです。

 ですから縦的なときには皆さんが兄の位置に立ち、横的なときには弟の位置になるのです。サタン側ですから皆さんが指導している食口が兄の位置になるのです。それを確実にしなければ全部間違ってくるのです。分かりますか、何の話か。講義するとき……。分かりますか。(はい)。

 言い換えれば、先生と皆さんの関係と同じように、皆さんと食口の関係においても、縦的には皆さんが兄の位置にいて、食口たちは弟の位置にいるために、自動的に支配することができるのです。支配することができますが、外的な世の中で横的に対するときには支配できないのです。皆さんがアベルの位置にいて、食口たちがカインの位置にいるのです。逆さまになるのです。ですから彼らを復帰するためには、責任者がアベルの蕩減路程を代わりに経なければならないのです。そうしなければ復帰できないのです。同じ道理です。

 それが何のことかといえば、絶対に信仰を誓う統一教会の信徒たちは全部私の中にいるために、好きなように主管してもいいけれども、新しく入ってきた人たちは蕩減復帰歴史を経なければならないのです。縦的な立場では兄の位置で弟を扱うようにしてもいいけれど、横的な立場にいるときはそうではないのです。一つになれないときは、カイン・アベルの蕩減復帰の役事をしてあげなければ、彼らが帰ってくる道がないのです。同じ道理です。

 そのため統一教会に入るなりすべてのものを、自分の持ち物と体と心をみんなアベルに与え、「愛さえもあなたの前にあげます」と言ってこそ初めて一つになるのです。それが簡単なことですか? 皆さんが神様と完全に一つになって、先生と完全に一つになる前には息子になることができません。息子の位置に立てないのです。完全に一つになる前にはアベルの位置がないのです。立つ位置がないのです。

 さあ、ですから私が立って東西南北に人をつくらなければなりません。十二支派がそれで出てくるのです。十二の月があるので、十二支派をつくっておかなければなりません。私に絶対屈伏し、横的に完全に一つになって授受することができるようにです。ですから地にも十二の月があって一年になるのと同じように、霊界にもそういう十二の真珠門があります。十二支派はそれで出てきたのです。十二方数を合わせられなかったら四方四位基台を形成させなければならないのです。それは四方の立体性を表示する角度でなく十二方数、十二カ月の代わりだというのです。四位基台を完成して四方を備えなければなりません。

 ですから、イエス様も自分を中心にして三弟子を立て四方になったのです。これを中心にして十二弟子をつくっていったのです。ですから統一教会が祝福するとき三名を伝道しなさいというのです。そうしなければ四数基盤をもてないために立つことができないのです。平面的基準でカイン・アベルの蕩減条件圏をもてなかった位置になるのです。分かりますか、何の話か。(……)。はー、皆さん、そんなことも分からないのですか! それなのに何が蕩減復帰ですか。復帰歴史だといったのも全部無駄な苦労をしたというのです。皆さんの信仰は全部サタンの位置にいたということになります。(116−266)

 

5 アベルの使命

 私たちは原理でカイン・アベルの問題に関して習いました。アベルは、サタンあるいはカインから自分自身を分立しなければなりません。その次に神様の愛の圏内に入って、神様と兄の悲しみを感じて体恤することによって、彼らを身代わりして自分自身を進んで犠牲にしようという覚悟をしなければならず、生命を懸けて、生命をささげることがあったとしてもその兄を救わなければなりませんでした。しかしそうする過程で、アベルはカインによって殺害されてしまいました。

 統一食口は原理を知っています。ですから食口たちはアベルの位置に立っているのです。そのため、皆さんはとりあえずサタンに対抗して闘うことができなければならず、サタン世界から皆さん自身を分立することができなければなりません。これは、皆さんが神様の愛の圏内に入らなければならないということを意味しています。

 しかしこれが全部ではありません。その時から、皆さんは神様の悲しい心情と、サタン世界につながれている兄弟姉妹の悲しい心情を解いてあげるために、自分自身を喜んで犠牲にしようとしなければなりません。皆さんの生命、皆さんの犠牲の代価で、サタン世界から彼らを喜んで救い出そうとしなければなりません。アベルが犠牲になるところから復帰摂理は進展するのです。これが皆さんが記憶しなければならない公式です。これが神様の摂理の一つの単位になります。(52−52)

 これからアベルは何をしなければならないのでしょうか? アベルはカインがいなければならないので、カインを探さなければなりません。その家庭なら家庭で、一番代表になるカインは誰ですか? このカイン一人だけを屈伏させれば、みな屈伏するのです。カインの中で一番悪いカインを屈伏させなければならないのでしょうか、少し悪いカインを屈伏させなければならないのでしょうか? (一番悪いカインです)。どうしてですか? 悪い者ほどその悪い相対をたくさん主管しているためです。さあ、それを屈伏させるのが簡単ですか? 難しいですか? (難しいです)。(76−333)

 アベルが誰を愛さなければならないのですか? (カインです)。アベルはカインを愛さなければなりません。愛で自然屈伏させなければなりません。血の涙で彼らを愛する立場に立たなければなりません。誰よりももっと、高い愛で愛してあげなければならないのです。そうしなければ屈伏させることができないので復帰されません。私たちは既成教会のために、大韓民国のために、北韓のためにそうしなければなりません。それで先生が今北韓のために祈祷するのです。(34−283)

 アベルを愛する前に天使長を愛さなければならず、カインを愛してからアベルを愛さなければなりません。これが原理です。天使長がサタンになったのでサタンが兄さんです。ですからアベルはサタンを愛さなければならないのです。神様も愛さなければなりません。それが重要です。ここにかかっているのです。

 愛さなければサタンが離れて出ていかないのです。サタン分立、すなわちサタン世界をいつ分立するのかという問題を、今日既成教会は夢にも思っていないのです。「何信仰で、十字架のおかげで救われた」と言っているのに、どうしてキリスト教が衰退しているのですか? サタンを分立しなければならず、カインを屈伏させなければなりません。アベルがこの二大事件をどのように収拾するかというのです。

 アベルの責任とは何ですか? サタンを屈伏させることです。屈伏させなければ分立できないのです。サタンを屈伏させなければならず、カインを屈伏させなければなりません。愛でです。兄さんを弟の位置に立てて、弟が兄さんにならなければならないという原理を知らなければなりません。堕落しなかったらアダム、エバを中心にして一度に個人完成、家庭完成、氏族完成、民族完成、国家完成、天宙完成基盤、神様の愛の圏が形成されるのです。そこにはサタンもいないのです。堕落もありません。

 神様が直接主管する愛の波紋が……。しかし人間が堕落したために……。堕落することによって個人にも垣根が生じ、家庭にも垣根が生じ、全部垣根が生じたのです。ですからアダムとエバも怨讐です。アダム・エバの息子、娘、カインとアベルも怨讐です。また母、父全部が怨讐になったというのです。サタンを中心にすれば破綻です。神様のみ旨がここに入ってくることができなければ、全部破綻なのです。全部が分立だというのです。ですから皆さんの家庭では個人的な争い、兄弟の争い、氏族的な争い、民族的な争い、国家的な争い、世界的な争い、地獄の争いまで、全体にわたって、霊界の神様のみ座の下に至るまで、争いの場面が展開されるのです。

 これを誰が収拾しなければならないのですか? アベルが収拾しなければなりません。言い換えれば、アダムが堕落したためにアベルがアダムの位置で収拾しなければならないのです。ところが個人からこの世界四十億人類が繁殖したものを一度に収拾することができないので、そのレベルを中心にしてカインレベル、家庭レベル、氏族レベルすべて蕩減復帰して連結させてつなげていく運動を、今するのです。

 最初のレベルに何があるのかといえば、サタンがいてカインがいるのです。これを知らなければなりません。サタンは父でこれ(カイン)が息子です(黒板に書かれながら語られる)。それではいつ屈伏するのですか? 神様の愛の内容を中心にして私たちに生命をささげ、死んでも神様を賛美していくことができる位置で分立されるのです。そうしようとするならば、どのようにしなければなりませんか? サタン世界にアベルが入っていかなければなりません。自分の故郷を離れてサタン世界に入ってこのサタン夫婦を屈伏させるなら、本然の位置に上がることができるのです。出なければなりません。家を離れなければなりません。(129−216)

 アベルはカインのために死ぬことができる、生命をすべてささげることができる立場に立たなければなりません。そうしなければカインがアベルの前に屈伏しません。カインのために代わって死ぬことができる位置に立ちさえすれば入ることができるのです。分かりますか?

 そのためイエス様の教えの中に「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」というみ言があるのです。このみ言はアベルにも適用されるみ言であり、カインにも適用されるみ言です。アベルがカインを救おうとするなら自分の生命を惜しんではいけません。そうでなくてカインを救うことができますか? できません。また、カインがアベルについていこうとすれば死を覚悟しなければなりません。そうでなくてついていくことができますか? できません。二つとも同じことです。こういう観点で「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」というのです。(34−99)

 アベルは何をしなければならないのですか? 三大復帰をしなければならないのです。最初はカインを復帰しなければなりません。分かりますか? その次には父母を解放してあげなければなりません。その次には何の使命があるのですか? 神様を解放してあげなければなりません。このように三大使命があるのです。分かりますか? 言い換えれば、サタン世界を解放してあげなければ父母が出てこれないのです。その次には、父母を解放してあげられなければ神様が解放されません。この三大解放圏の責任をもたなければならないのが、アベルの使命です。(58−68)

 アベルは子女の立場であり、カインは養子の立場です。ですからカインはアベルの前に絶対服従しなければなりません。ところがアベルがカインから背反されました。アベルはカインを再び探していかなければなりません。すなわち、イエス様が十字架の死を受けても復活して弟子たちを訪ねられたのと同じように、アベルもカインに死を受けても訪ねなければなりません。裏切ったカインの後孫を訪ねなければなりません。そういう立場を身代わりしたのが、ノア時代のハムとセムでした。(24−331)

 

6 アベルとしての牧会者の使命

 これから先、蕩減復帰をしなければなりません。蕩減復帰でなければならないのです。蕩減の道は誰が行かなければならないのですか。アベルが行くのです。それでは、教会責任者と新しく入った人を見たとき、誰がアベルですか? (教会責任者です)。それではカインが蕩減の道を行くことができますか、できませんか。答えてみなさい。そういうことがありますか、ありませんか? ないというのです。蕩減の道はアベルが行くのです。統一教会の責任者たちはこれを知りません。忘れてしまったというのです。これを知らなければなりません。ここに今いる各国の代表者たちも、それを知らなければなりません。蕩減の道は誰が行くのですか。カインが行くのではありません。アベルが行かなければなりません。涙を流すのも、まず最初に流さなければならないし、おなかがすくのも先におなかがすかなければならないし、悪口を言われるのも先に言われなければならないし、殴られるのも先に殴られなければならないのです。それが、蕩減の道を行ってあげるということです。既に一人が入ってきたとすれば、その人の話を聞き、その人の過去の話をすべて聞いてあげ、お父さんと同じ立場で相談してあげ、涙を流してあげ、祈祷をして、こういうことをしてあげなければなりません。

 親しい人が行ってしまえば心が落ち着かず、その家の前まで送っていき、また朝になれば心が落ち着かずその家の前に行って待ってあげて再び会う、このようにすることができなければなりません。結局、誰よりもその人を好きになる人間になればよいということです。カインを最も好きになる人間になればいいのです。そこから蕩減の道が……。そうすればこそ、その人は私のあとを正常に従ってくるというのです。蕩減の道に従ってくるのです。ですから、蕩減の道を行かなければならないのです。それでは、誰が一つになるようにつくらなければならないのですか? (責任者です)。それはアベルです。カインではありません。カインは無条件にかみつき、破り捨てようと何度も妨害するのです。それゆえに、天の前に涙を流しながら祈祷をして、夜通し祈祷をして、というようにするのです。病人の中の病人、憂いを抱く者の中の憂いを抱く者になって、天の前に事情を痛哭していく道が蕩減の道だということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは、何も分からずに包囲されて窒息していくことを感じなければなりません。心が休まらない状態でなければならないのです。(88−263)

 カインとアベルのうち蕩減は誰がしなければならないのですか? カインがしなければならないのですか、アベルがしなければならないのですか。アベルがしなければならないのです。祭司長は、座っていながら稼いで食べていくのではないのです。心で精誠を尽くし、精誠を尽くして再創造の力を投入する人間であればこそ、座って食べていけるようになっているのです。それが原理です。再創造の役事です。見てごらんなさい。誰かが伝道して入ってきた人間はみな土の塊です。土の塊、石の塊、サタンです。それは自分勝手にできているのです。それを粉にして、つばきで練り水を注いで練り上げて泥んこを作り、ただひたすら努力していって自由に創作できるようにしてこそ、私が願う人をつくることができるのではないですか。同じことです。再創造なのです。再創造の役事なのです。(75−167)

 今日、統一教会の皆さんは行くや否や「えっへん。先生が何々教区長、何々教域長をさせたから、私はアベルだ」と言うのです。アベルになったのではありません。アベルの使命を果たしなさいといって送ったのです。ところが、アベルの使命をすべてすることができないで「私に仕えろ。私の命令を聞け」と言うのです。親が子供に仕事を言いつける時、自分は座っていながら言いつける親は、義理の親というのです。分かりましたか? 義理の親、本当の親は連れて出かけて仕事をするのです。教えてあげながら仕事をします。そうではないですか? そうでしょう? (はい)。それが本当の親です。(75−168)

 皆さんは今まで、統一教会のカイン・アベルの愛を間違って理解しているのです。責任者は無条件にアベルだと思っているのですが、そうではありません。アベルはカインを救ってあげなければなりません。そのようにして、カインと一つになってこそお母さんのところへ行けるのです。責任者と一つになることができなくても、皆さん同士で一つになればその場には責任者が訪ねてくるのです。それで二人、三人が祈祷するところには、いつも神様が共にいてくださるというのです。一人で祈祷するよりも、二人が集まって祈祷するようになれば……。皆さん、肉を切り血を分けることができる友達がいますか。そういう同志がいますか。

 きょうからは、今までの責任者中心の考えを捨てて、食口中心の思想をもたなければなりません。どうして、そうしなければならないのですか? 家庭に主人がいた場合、その主人は、家庭天国をつくるためには自分のためのではなく、家族を中心とした観を立てなければなりません。そうしなければ家庭天国は生まれてきません。同じことです。今まで統一教会の先生のためにやったことを、統一教会の食口の皆さんのためにやり、集中的に愛の群れを横的に組んでいかなければなりません。そのようにすることによって天国の環境が成し遂げられます。縦的に先にやってしまってはいけません。縦的にだけやるのではないのです。

 それゆえ、神様を愛するように父母を愛さなければならないし、父母様を愛するように世界万民を愛さなければならないのです。世界万民と一つになりなさいというのです。横にいる二人の人から足のにおいがし、口臭がするし、体臭がするという嫌な環境を消化しなければなりません。足を洗ってあげなさい。服がなければ自分の服を持っていって着せてあげなさいというのです。(拍手) (115−56)

 

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