「谷響きを惜しまず、明星来影す。」三教指帰 序
古神道由来の修験道において、24歳にして、明けの明星が空から口に飛び込んできたという霊的な体験を空海はしたというのですが、空海が偉いのはそのような体験に有頂天になるのではなく、さらに精進されたところです。
具体的には、霊的体験というのは個別性、特殊性の話ですから、普遍性を求めたようです。理論的バックボーンが欲しかったというのです。
「経路いまだ知らず。岐に臨んで幾度か泣く」性霊集 7の54
そこで、空海の御遺告に不二の経典を与え給えの願目が出てきます。
「唯し願わくは三世十方の諸仏、我に不二を示し給えと。
一心に祈願するに、夢に人ありて告げて曰く。
此に経あり。名字は『大毘盧遮那経』という。
是れ汝が要(もと)むるところなりと。」
以上の内容は安達駿氏の「大日経の真髄を解く」に依った。
大日経がどこにあるかを知って雀喜した空海であったのでしょう。
ところで、この経典には60の種類のいわゆる我々が言うところの堕落性が説明されていて、修行僧の克服すべき課題ということなのでしょう。
これを読んで思うことは、統一原理が堕落性をわずか4つで分類することができるということは、それだけでもまさに神業だという感慨です。
原理講論恐るべし。
安達氏は不二の経典として大日経が与えられたというようにお話されていますが、それはそうなのでしょうけれども、内容を見て感じることは、経典自体というよりも、どうも大日如来との邂逅ということの方に、空海にとっては意義があったのではと思いました。
密教の二大経典と言われるのが大日経と金剛頂経だと言いますが、金剛頂経の方は地方の図書館には見受けられませんし、あまり解説の本もなく、あっても入手しにくいようです。
「大日経の住心品講讃」という本を松長有慶が書いていて、最近の本では一番詳しい説明がありますし、一般の人には大栗道栄の「 弘法大師六十心説法―法話に生きる大日経」あたりが読みやすいかと思う。
だが、実際に堕落性を克服するためのヒントを得るのであれば、60心は人間の堕落性の理解には参考にはなるが、その克服には不案内でありむしろ「菩提心論」の方に何かがあるかもしれません。
仏教徒が見事だと常々思うことは、単に自分一個人の救いにとどまらず、私の心の問題に終止符を打つことが、すべての衆生の救いに直接つながっているという感覚であり、使命感です。
私自身が自分の堕落性の克服で精一杯の暮らしをしているのに、彼らは敬服すべき心を持っています。ただ仏の道に導くというのではなく、しっかりと仏の心を現せるよう導くというのですから大したものです。
自分を分別できなければ、到底人様を分別することなぞできません。
仏教徒の高僧はその点実に誠実なように見えます。
霊界のメッセージでは、
イエス様が仏陀と語り合い、ひとつ自分も仏教徒になったつもりで学んでみようとされたというお話がありました。
清らかな世界というものが確かにあるのだと思います。
さて、天聖経にもあるように霊的な現象はみ言葉によって判断し明らかにされなければならないということを空海も彼なりに求めていたのでしょう。
われわれもまた様々な霊的な現象の証を聞いたり、また自分自身が体験したりすることがありますが、その真意を知るためには、み言葉の理解が前提であり、もしそのような立場で理解できない時には、それができる人に説明を求めるのもひとつの方法でしょう。
霊的な体験や体験者が重要なのではなく、そのような現象や人を通じて、天が伝えようとしているメッセージが重要だというのです。
お父様は木の葉が舞い散る様子を見ても天が何かを伝えようとしているのではと考えたといいます。
メッセージさえ正しく受け取ることができるなら、
人ではなく木の葉であってもかわりはないのでしょう。
お父様は霊界に主管されるのではなく、霊界を動かす人間になれと言います。
まさに亨進様や国進様は今回そのような見本を我々の前に見せてくださいました。
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