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原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

堕落性を脱ぐ

日本文化の美徳である「恩」のお話をして、次には堕落性から生じた代表的な感情についてお話しました。

十偽心と十住心と名づけてお話しました。

わたしに対する統一原理の理解の立ち位置はシンプルで一貫しています。

お父様が語られた「宇宙で最も重要な真理は、神と人間が親子であるということである」というような「父子関係」でしか本当の解決はないだろうと思うからです。

イエス様の放蕩息子の話も、父の愛の本当の価値を息子が初めて知った時、罪を自覚し回心に導かれ「僕としてでもいいから」ともに住みたいと願ったのが転換点でした。

父の真の愛 ⇒ 本当の罪の自覚 ⇒ 本当の回心 ⇒ 本当の息子の姿

 

別の表現をすれば、

神の許しを受け入れて ⇒ 自分を許して受け入れて ⇒ 人を許して受け入れることができる

 

というような流れになるかと思います。

神が許すと言っているのに、自分は許されないという傲慢な思いを持つことが、

我々堕落人間には時々あります。

重荷を下ろし、主に委ねることをイエス様は教えました。

 

神の愛する自分を愛し、神の愛する隣人を愛する。

 

何故、神は堕落人間を愛するかというと、神から賦与された創造本然の価値が一人ひとりにあるからでした。

統一思想の原相論の個別相のところに説明があります。

神の普遍相が個別化され特殊化されて生まれてきたのが、一人ひとりの人間です。

神の普遍相である「原普遍相」、神の個別相を「原個別相」と呼ぶように、

人間一人ひとりの価値は神を由来としていることに根拠がある尊貴性にあります。

 

さて、神様もイエス様もお父様も、堕落と関係のあるものには相対することができません。

我々の中に創造本然の姿を見て接してこられます。

同様に、我々も自分自身の堕落性ではなく、創造本然の自分を見つめなければなりません。また、隣人の中にもそのような尊い賜物があることを見逃してはなりません。

原理では堕落性を脱ぐためには、神との関係性が重要であると言っています。

また次には、その神との関係性をもって隣人と交わりそこに、神と同様の関係性を築くときに、堕落性を脱ぐことができるのだといいます。

相手が如何なる人であるかは問題ではなく、

如何なる人であっても私はどうあるのかが問題だというのです。

これを人生において勝利しなければなりません。

 

ですから、サタンの存在や人類始祖の堕落によって原罪が血統的に引き継がれ、それゆえサタンに支配されてしまっている現状をはっきり知らなければ、サタンと戦い、彼と関係のあるもの一切と関係を断つことができません。

そこで、堕落論が必要になってきます。

 

堕落性と戦うために律法を神は与えました。

新約では心霊的な御言があたえられ、見える行為の聖別だけではなく、

見えない心の聖別、動機の聖別の時代を迎え、

成約時代では心情が中心です。

聖別された心でとどまるのではなく、至福を与えたいという抑えがたい心にまで至らなければならないというのです。

そのことをすべての食口はお父様に学ぶことができました。

さあ、今度は我々の番です。

 

旧約・新約・成約の3つは互いに浸透して重なり合っている一つのものです。

樹の幹の年輪のように、外側を見れば律法であり、その内側には福音があり、中心には心情があります。

したがって、心情を中心に霊性をもった御言葉を受けたり、語ったりしなければならないというのです。

律法学者にはこれがわかりませんでした。

 

目的と手段の関係で説明すると、

十偽心は十住心を知るための手段です。

十住心は正午定着心を知るための手段です。

三段ロケットで考えてみましょう。

十偽心を知ってサタンを知ったなら、この一段ロケットは切り離さなければなりません。

十住心の二段ロケットを噴射して、サタンや堕落と関係ない霊性によって導かれいくのです。

しかし、それさえも切り離して三段目の最終ロケットの心情を噴射して、

正午定着の心をもって生活するようになるというのです。

新約時代は聖霊によってわれわれの心霊が呼び覚まされる時代でした。

その役事を通過して、父と子の心情を中心とした成約の生活が始まってきます。

忠誠と忠孝の侍義の時代に心情文化は築かれていきます。

 

授受作用や善神の業と悪神の業をよくよく信仰生活に応用することが我々には必要です。

我々が罪や堕落性の課題ばかりを見つめると、

「そうそう、おまえはよく知っているはずだ、おまえは神の子ではなく、実はわたしサタンに似ているのだ。そのことをお前は自認しているのだ」と囁いてきます。

わたしは映画エクソシストを何度も見てサタンを研究しました。

若い神父は負債がありました。

献身することによって、老いた母親を見捨ててきました。

サタンはこの一点を中心に彼に試練します。

堕落性を見るのは、創造本性を探すためです。

堕落性を見たら180度回転して、神の神性を求めよということです。

さもなくば、サタンを父と自認することに結局なってしまいます。

 

家庭連合は草創期より自分自身の内側で、堕落性と霊的な戦いをしてきましたが、

今日はこれを横において、仲良し子良しお手々繋いでちいぱっぱになってしまいました。

その辺の新興宗教と何も変わらなくなってしまいました。

誰も堕落性と戦いをしようとは叫ばなくなりました。

われわれはサタンと血の出るような戦いをして勝利し神の創造本性を復帰しなければなりません。

このことから逃げることができません。

片目が罪を犯すならこれをえぐりだし、片手が罪を犯すならこれを切り落とし、サタンの死亡の血を流してでも、サタンの血統と決別して真の自由の身になりたいと、身悶える生活が信仰の道であり、統一食口の本分です。

すべてを曖昧にして過ごす道は中間霊界です。

だが、結局そこにいればサタンに主管されてしまいます。

神は誰が本当に正午定着の心を持ちたいと真剣に模索しているかを見ておられます。

この道は簡単な道ではありません。

やるかやらぬかです。

サンクチュアリにいたって、地獄に行く者も出てくるでしょう。

天によってわれわれは本物の孝子女か偽物の孝子女か試されているのです。

お父様も江利川会長もすべて兄弟姉妹とともに天国に住もうと思っていますが、

5%なのです。

大母様が天使たちに「神の子たち」という言葉を使って我々のことを話した時に、天使たちは言いました。「地上のどこに神の子たちがいるのですか?」

 

人々も言うでしょう。

「文先生は確かに立派だったが、文先生の弟子たちはどうでしょう?文先生は偉大な業績を残されました。ですが、弟子たちの教育には残念ながら失敗したとしかいうことができませんね。」

 

生涯をすべてかけて父は我々を教育し続けられました。

お父様を勝利者にするも、敗北者にするも我々次第です。

背水の陣を敷いて、徳俵に残って明武谷のようにうっちゃりをしてでも、

神の祝福をヤコブのごとく受けなければ、

父の苦労はすべて無駄に終わります。

 

私達の信仰基台が本物であったか否かは、実体基台に現れます。

すなわちわれわれの人間関係に現れます。

神とサタンの一線がそこにあります。

 

 


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