原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

9月以降に何かが起こる! かって日本にも明治時代に同志社でリバイバルがあったのです

神の導きによって、明治時代のクリスチャン原忠美の書いた「神人合一」という本に行き着きました。

そこで、いくらか調べてみると、同志社の人だと分かりました。

同志社新島襄の指導のもとリバイバルが起きた情況を紹介しているサイトが有りました。池袋清風というクリスチャンが克明に日記をつけていたことから、それをもとにして、当時のリバイバルの情況を伝えています。

日本の明治時代のクリスチャンは、信仰がありますね。

キリスト教にしても統一教会にしても、草創期には霊的復興の証に満ちていますが、どうして次第にそのような雰囲気が失われていってしまうのでしょうか?

さて、新島は面白い説教をするもんですね。

 

キリスト教文化センター │京都 同志社大学

そこで新島は得意とするエピソードをもちだします。むかし源氏と平家が讃岐の屋島で戦ったときのこと、ある日平家方から一艘の小舟が漕ぎ出ました。小舟には竿の先に日の丸の扇を高く掲げ、側に立つ官女が手招きしました。源氏の皆さん、この扇を射ることができますか。おできになるならば、射てごらんなさい、という意味です。浜辺に群集する源氏の武将たちは躊躇して、なかなか挑戦する者が出ません。しかしこのままでは源氏の恥であるというので、ついに那須与一という若武者がこの乾坤一擲の勝負に挑みました。彼は八幡大菩薩に祈りをささげてから、波に揺れる小舟の扇の的にねらいを定め、矢を放ちました。矢は見事に扇の的を射抜き、味方は勿論のこと、平家方も船端を叩いて喝采を送ったといいます。「平家物語」に出てくる有名なエピソードで、私も小学国語読本で習いました。新島にとって一八八四年は、沖合いに漕ぎ出した扇の的が手招きする年だったのです。新島は説教壇から、諸君の中に那須与一はいないのか、と問いかけたのです。「射落スヘキ的アルニ之ヲ射サレハ、何レ[ノ]時カ之ヲ射ルヲ得ン」(全集第2巻 一七七頁)というのであります。まるで新島のこの説教に答えるかのように、それから一ヵ月以内に同志社リバイバルが起こりました。私たちは池袋の日記から、同志社の学生の間に起こったリバイバルの状況を詳細に知ることができるのであります。

 

新島には新島の役目があり、その生徒にはその生徒が神によって与えられたまた一つの役目があったようです。

 池袋の日記が貴重な記録であることはおわかりいただけたと思いますが、なかでも最も貴重であると考えられるのは、この一八八四年二月の終りから三月にかけて、同志社英学校で起こった顕著なリバイバル、信仰復興の事実を池袋が詳細に記述しているからです。皆さんは「リバイバル」といえば、リバイバル映画、あるいはリバイバル・ソングの事を考えられるかもしれませんが、本当のリバイバルというのは、人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していくことを指しますキリスト教の歴史には世界の各地でしばしばこういうリバイバルが起こりました。この前の日曜日、五月三十一日は、キリスト教ではペンテコステといいまして、初代のキリスト教徒たちに聖霊が下り、教会が誕生したことを記念する日でありました。新約聖書の「使徒言行録」第二章にその状況がいきいきと描かれています。
 同志社リバイバルのことが池袋の日記に初めて登場するのは三月二日の記録からです。この日は日曜日でした。池袋は午後、足が冷えるのを怖れて礼拝堂に入りました。恐らく礼拝堂にはストーヴがあったのでしょう。礼拝堂には二年生で、鹿児島出身の山路一三という生徒が一人いて、池袋を見ると興奮しながら、十字架の愛を悟ったことを語ってきかせました。池袋はまだ十字架の愛を味わうことができませんでしたが、ともかく二人で第二教会の礼拝に出席しました。教会からの帰り、池袋は英語神学生の竹原義久と一緒になりましたが、竹原もまた十字架の愛を感じたと言うのです。竹原のところにその朝、五年生の新原俊秀がやってきたので、信仰の話をしたところ、新原は突如として悟ることができて、大いに喜んだというのです。その時点で池袋は、同志社英学校のクリスチャンである教員生徒のなかで、この十字架の愛を味わったのは新島先生竹原義久、英語神学生の上原方立山路一三、二年生の海老名一郎、この五人くらいであるけれど、自分はこれでもう五、六年も熱心に聖書を研究してきたのに、まだその域に達していないと、大いに自分のことを嘆いています。
 その翌日になると、十字架の愛を悟ったのはこのほかにも四年生の原忠美がいることを知ります。しかし五年生の村井知至はそんなことはまったくわからない、といいます。池袋はその日もまた、どうか十字架の愛を悟り、敵を愛することのできる信仰を与えて下さい、と真剣に祈っています。翌朝池袋は夢を見ます。夢の中に故郷都城の父が現れ、にこにこして京都の市街を見渡しながら、「お前はこの京都で長らく伝道したらよい、私はいつでもお前と一緒にいるから」と告げたところで目覚めました。池袋は神に感謝し、ぜひとも神のために生涯尽力したいと考えます。そして「嗚呼吾神恩ニ依テ天国ノ愉快ノ一端ヲ窺ヒ得タリ」と日記に書いています。
 三月十一日の日記を見ると、池袋は十字架の愛を悟っている四人の信仰上の先輩、即ち年齢からすれば四人とも自分よりも若い連中ですが、先ほど挙げた山路一三、原忠美、新原俊秀、海老名一郎を招き、涙を流しながら、自分の信仰の状態を告白し、何とかあなたたちのような天国の愉快を得られるよう、祈っていただきたい、と頼みました。(これから先、私は池袋の日記を現代風に訳してご紹介します。)すると原忠美は池袋を叱って言いました。「池袋さん、あなたはわれわれが天国の愉快を得たことを羨ましがって、それを今すぐ手に入れたがっていますね。しかしそれは自己中心主義というものですよ。どうしてそんな心の状態で天国に入れますか」と。それから四人はかわるがわる池袋に質問し、池袋がそれに答えます。新原俊秀が言いました。「あなたはまだ自分の罪を感じていませんね。罪の意識なしで十字架はわかりっこありません」。他の三人もその言葉に大いに賛同しました。「その通りです。いま愉快を得ている人は、初め非常な罪を感じ、胸がふさがって食べ物もノドを通らぬくらいで、眠ることもできず、まるで泥の中で塗炭の苦しみを嘗めるような経験して、初めて突如として、十字架の意味がわかり、それまでの肉体は罪とともに十字架につけることができ、天国に生まれるという経験をしたのです」。池袋は大いに驚き、涙ながらに友人たちの言葉を聞きました。四人は池袋のために熱心に祈り、最後に池袋が泣きながら祈りました。
 しかし池袋にも遂にその日がきました。三月十七日の日記にその状況が克明に記録されています。概略を私の言葉でまとめて説明します。池袋は鹿児島時代の話を思い出します。鹿児島の若い武士たちが政治的な争いに巻きこまれ、兄弟のうち弟の方がそれに連座して座敷牢に入れられました。彼には切腹の命令が下りました。彼の兄が座敷牢の番をしていたのですが、弟を憐れみ、密かに弟を福岡へと逃がしてやりました。この兄は不行き届きを上司から責められて、切腹したのでした。このような実例がキリストと父なる神の関係を深く理解するのに役立ちました。池袋はクリスチャンと称しながらも、いかに自己中心的な生き方をしてきたかを思いました。キリストは父母よりも、自分自身よりもこの私を愛さないものは天国に入る事はできない、と言われたことを思い出しました。まさしく自分は偽クリスチャンだった。このことを悟り、自分の罪を赦していただけるようにと、池袋は又も泣いて祈りました。すると急に心が晴れ渡り、重荷は肩から落ち、喜びに満たされたのでした

 

聖霊体験を自分よりも先に体験した後輩を、信仰の先輩として招いて、懇願する姿勢は立派なものです。ですが、そんな池袋の動機が純粋でないことを原は見ぬいてしまいます。ズバッと直球で池袋の問題を指摘しています。

 

原忠美は池袋を叱って言いました。「池袋さん、あなたはわれわれが天国の愉快を得たことを羨ましがって、それを今すぐ手に入れたがっていますね。しかしそれは自己中心主義というものですよ。どうしてそんな心の状態で天国に入れますか」と。

 

他の者は、もう少し池袋の事情を質問して把握してアドバイスを与えたのでしょう。 

聖霊体験は自分の罪の自覚とその悔い改めから始まるというのが基本だとかたっています。

「その通りです。いま愉快を得ている人は、初め非常な罪を感じ、胸がふさがって食べ物もノドを通らぬくらいで、眠ることもできず、まるで泥の中で塗炭の苦しみを嘗めるような経験して、初めて突如として、十字架の意味がわかり、それまでの肉体は罪とともに十字架につけることができ、天国に生まれるという経験をしたのです」

 

わたしたち食口は、そのような体験的自覚をもって、心底自分の罪を打ちのめされるような悔い改めに至り、十字架による贖罪の天恵に浴することをいつしか忘れ去ってきてはいないでしょうか。

霊的な恵みは、また危うさも伴うことがあります。

以下の報告もその一端を現すものでしょう。

三名は神の恵みに乗ったようですが、恵みのボードから落ちてしまった人もいたようです。

 こうして池袋にも聖霊が下ったのでしたが、学校内は異常事態へと移っていきました。チャペルで夜通し祈る者、まだ聖霊を受けていないクラスメートに聖霊が下るようにと攻撃的に攻め立てる者、今ただちに学校を飛出して、伝道に出掛けようとする者が続出して、同志社英学校は大混乱に陥りました。新島校長は、地方伝道に出掛けるのは、春休みになるまで待つようにと説得しましたが、生徒たちは聞き入れません。とうとう妥協が成立し、二年生の海老名一郎、四年生の原忠美、邦語神学生の辻籌夫の三人が、代表ということで大阪に向けて出発し、それから三田、神戸、岡山、高梁、今治等を巡回することになりました。他方英語神学生の綱島佳吉と、五年生の木村恒夫は狂信的な言動をするようになりました。綱島の如きは「池袋清風!」と大声で呼び、「貴様は悪魔かそれとも聖霊か? おれはイエス・キリストだぞ」と言って睨みつけ、とたんに大声を上げて泣き出し、その場で倒れてしまう、といった出来事も起こりました。綱島はやがて回復しましたが、木村恒夫の方は精神を病み、新島邸に収容され、精神病院に入れられ、ついに七月四日に息を引き取りました。
 新島をはじめとする教員たちは同志社リバイバルを比較的冷静に受け止めました。学生の中でも、五年生の安部磯雄、岸本能武太、重見周吉のように、熱狂的になることなく、しかもクリスチャンとしての生活を続けた人もありました。新島はこの年の四月の初めからヨーロッパまわりで渡米することになり、リバイバルの経験をそれぞれの学生に書かせ、それをみやげにしてアメリカに行くことにして、それをまとめるようにと、池袋に宿題を与えました。池袋は何時間もかけて若い友人たちの証言をまとめて清書し、それを新島がロンドンで入手できるように郵送しました。
 リバイバルで信仰復興を経験した人たちのうち、綱島佳吉はのち福島県の伝道に尽くし、東京に出て霊南坂教会や番町教会で牧会に当たりました。原忠美は新潟県新発田で伝道し、のちには明石教会で牧会に当たりました。竹原義久はのちに井出義久と姓を改め、私が現在所属している京都教会の初代牧師となりました。しかし、安部磯雄のような、リバイバルの影響を受けなかった学生も、ずっとクリスチャンとして押し通し、彼の社会主義は唯物主義でなく、キリスト教社会主義と形容すべきものを信念として、生涯をつらぬきました。新島の伝えたキリスト教は、キリスト教福音主義と、社会救済主義(社会の底辺の人々を救済しようとする博愛主義)の両方を包含することのできる、活力に満ちた、しかもふところの深いキリスト教であったことを最後に申しあげて、今日のお話を終ります。

二〇〇九年六月四日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

 

さて、また別のサイトに原忠美の妻となった女性のことが書かれていて驚いた。

「八重の桜」 では女性のための教育について積極的であった新島夫妻の姿が見られたが、その初穂ともいうべき二人の女性のうちの一人が、原忠美の妻になった山岡登茂であったからです。

 

明治時代から大正へ~「八重の桜」から「カーネーション」の時代へ(その2) - 岸和田市公式ウェブサイトより引用する。

 

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山岡登茂

 

 

《図書館》 新島襄の後は山崎為徳(ためのり)が引き継ぐことになった。「8月31日に山崎が帰京して1週間も経たない9月6日には、岸和田から7名の生徒(そのうち一人は女子)が同志社で学ぶために来るという信仰の盛り上がりであった」と書いている。その女性は、山岡尹方・左居夫妻の長女、山岡登茂だ。「他に妹2人(京と満寿)がいて、次女の京も姉の後を追ってすぐに同志社女学校に入学した」。その後、元岸和田藩士・田代環の娘である初とつぎも入学している。『同志社談叢』では、「登茂と初は、在学期間中ずっとスタークウエザ―から寮生活を通して、キリスト教の価値観を学び、讃美歌も日・英語で上手に歌えるようになっていた」ことや、宣教師が本国に学校の様子を伝えた次のような手紙も紹介している。(2人の少女とは、山岡登茂と京)

新島夫人は今日の午前中に、2人の少女を連れて、彼女たちの郷里、岸和田へ行かれました。(中略)そこでは、夏休み以来、2週間ごとに説教が行われています。

新島夫人は、休暇になったので帰郷する女性と2人に付き添って、岸和田に行かれました。(中略)夫人は当地の人々に説明したり話しかけたりするのに、2人の少女が助けになると大変喜んでおられました。…2人のうちの1人[山岡京]は僅か10歳で、身体つきも小さく華奢(きゃしゃ)ですが、心の中には神様への愛がしっかり根付いており、その愛の力で生来のはにかみ癖を乗り越えてキリストのために働いています。

【くまた】 八重さんが登茂と京を連れて岸和田まで来る様子が眼に浮かぶよ。当時は道中も長かったから、いろんな話をしただろうね。小さな娘を寄宿舎住まいで学ばせるのは、山岡家の両親も心配だったと思うよ。だから、八重さんと山岡家とは長いつき合いがあったんだ。

《図書館》 そして、山岡登茂と田代初は同志社女学校第1回卒業生となった。山岡登茂が卒業式で読んだエッセー「責任」には、そもそも責任には2種類ある。一つは、人に対する(直接人に尽くす)責任、他は、人のためにする責任(他人の幸福を保護増進する)責任である」と、教育を受けた女性として、日本の女性全体に対する責任について論じている。

【くまた】 その後、山岡登茂や田代初はどうなったの?

《図書館》 登茂は卒業後岸和田に戻り、明治17年9月に上原方立と結婚(登茂は19歳)した。結婚式は、新島八重に導かれて挙行されたらしい。しかし、「新婚生活1ヵ月も満たない10月15日、泉州および河内の伝道旅行中に、方立は腸チフスに感染し、病臥数日で他界した。余りにも痛ましい早死に、新島襄は登茂に歌を添えてお悔み状を送っている。」

悲しみを乗り越えた登茂は、自活の道を選んだ。最初は岡山県高梨の順正女学校で、英語・音楽を教え、その後は大阪の梅花女学校で教鞭をとっている。

明治25年には、新潟の新発田教会に赴任していた原忠美牧師と結婚。再び牧師夫人の道を選んだが、「新潟は仏教の盛んなところで、原夫妻は様々な迫害を受けた上に、新発田に居る間に忠美の母と第一子(生後40日)を失った。さらに忠美は7年に及ぶ新潟の寒気のため健康を害し、ついに明治28年明石組合教会に転任した」ということだ。その後、忠美は肺患にかかり明治40年に他界。同書では「結核の夫の看病に加えて、病気を子供にうつしてはならないという用心と覚悟はさぞかし大変なものだったろう。登茂の母親としての底力と揺るがない信仰の証である」と書いている。再び寡婦となった登茂には、14歳を筆頭に2男1女がいたため、神戸女子神学校に舎監として入居し生徒指導にあたった。

 

明治の人には風格がありますね。

我々は物質文明に毒されて、美しい日本の文化を途絶えさせてしまったようです。

原忠美については、また別の機会に書いてみようと思います。

 

 

 


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