読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

隣人との葛藤から祝福する思いに

神様は私たちに様々な体験を与えてくださって、その体験から真のお父様とのどのような関係を見出し成就することを願っておられるのでしょうか?

恵みに満ちた神様に感謝いたします。

 

数日前、ここしばらく体験したことがなかった、理不尽で納得の行かない出来事に私は包み込まれ、1日の間その人に対する葛藤を拭い去ることができませんでした。

随分引っ張ったものです。

せめて1時間位であってくれたら・・・

いや、1日も1時間も同じ未熟なことですね。

 

その方は私がある程度の誠意を尽くした方でした。

またその方が扱われている内容に対して他の方と同情もしてきました。

わたしは、その方が知らないところでその方のためにある提案を断っていました。

プライドを傷つけたくないからでした。

問題の日、その方が気づかないことを助言しましたが、理由を言って拒否されたので、私が代わってしてあげました。するとたまたまそれを知って感謝の言葉をいただきました。

ところが、1時間も立たない内にその方は急変して、何を勘違いしたのか文句を言い始めました。

わたしは、単なる勘違いだと思い簡単にそれは誤解だと説明しました。

まあ、納得しただろうと思ったのですが、さらにまくし立ててきます。

一体何が起こっているのか理解ができませんでした。

あなたのためにプラスにはなってはいても、マイナスにはなっていないはずなのに。

この人のために役に立っているはずなのに、何故このように否定されるのだろう?

狐に鼻をつままれた気分でした。

いくら解消しようとしても、納得がいかないとばかりにもやもやした感情が現れては消えていきます。これではだめだと、そう思うのです。

そこでその人との別れ際に、その方のやり残したことをして差し上げました。

祝福する心で別れなければと思ったからです。

ところが翌日も彼が爆発したというので、わたしは驚きました。

わたしがやる必要のないことをして差し上げて、別れても言い張るのか?

 

私は次回合う時には、前回説明不足だったから、今度はきっちりと事実と数字で説明して疑いを晴らそうと思いました。

二日後に会う時までには、当初の意気込みはやわらぎ、説明しなければならない環境に自然になった時には説明して、そうでない時はよそうと思うようになりました。

 

実は不思議な別の感情が私の心に湧いてきていたからです。

「お父様なら弁解はしないだろうに」という声でした。

必要に迫られないかぎり、何事もなかったようにされるだろう。

 

二つの思いがヤコブと天使のように組討ちしました。

そこで、自分はだんだん天に対して恥ずかしくなりました。

天に対してやましいことがないのであれば、どうして人に説明する必要があるのかと。

「お父様なら弁解はしない」

 

29日に再び会って、自然な形で説明する機会は訪れませんでした。

さらにもう一歩踏み込まなければと思い、その方が一番関心があり大切に思っているだろう事柄に触れて話しかけました。

わだかまりを解消しなければなりません。

「あなたの娘さんは大学生だったけど、そろそろ卒業かね?」

「来年の春なんだけどさ、一時は進学したいといってね」

「大学院ですか?」

「いや、そうじゃないんだがさらに専門の履修がしたいというんで、ちょっと困ったんだよ」

 

そんなふうにして話が続きました。

まあ、親父は娘のことになると誰でも嬉しそうに話すものですね。

とても幸せそうなお顔で話されました。

 

さて、私は最初不可解でした。

実はその方は一年間あることで疑いをかけられ、心を痛めておられました。

それなのに、何故同じことを他人にはするのだろうか?

相手の立場で見られないのかというものでした。

 

だが、「お父様は弁解されない」という言葉が頭を離れなくなっていくと

この人は疑われつづけた結果、自分も他人に対して疑心暗鬼の心が現れやすくなり

ついついそのような本来の姿と別の態度を取るようになってきたのではないかと。

そう思えば不憫でもあり、祝福したいと思うのが当然ではなかったかと。

 

超越には慣れた自分が、足もとの日常生活の基本が元付かないでいるのを

神がご覧になって、

「こいつ、もうお迎えもいつ来ようといい時なのに、早く心の問題を解決できないでどうする」

尻を叩いてくださっている今日です。

 

晴れてよし 曇りてもよし 富士の山  

 

                             中村 天風