信仰基台と実体基台を個性完成から考えてみると
通常は、「主なるあなたの神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」の二段階で説明されますが、以下のように3段階で理解するといいかもしれないと、講座を学んでいる人との和動をしている中で思うようになりました。
1,神を信じ愛する(神の受け入れ)
2,神の信じ愛する自分を愛する(自分の受け入れ)
3,神の信じ愛する隣人を愛す(隣人の受け入れ)
神様の愛を「受け入れる」とか、神様の愛に「委ねる」という観点から
3つにまとめてみたものです。
と申しますのも、どうも信仰基台から実体基台に移行する際に
どうもひっかかっているようなものがありそうだと感じたからでした。
人間関係においては、先に両者の神との「信仰」関係がしっかり確立して
次に、人と人との「信頼」の関係が築かれるというものでした。
そこで一方が神との関係性が強くなければ、人と人との関係が円満になりにくい場合も生じてきます。
伝道されこの道に来たにもかかわらず、停滞することがあります。
「自分が神に愛されているとは思えない」とか
「自分は神に愛される価値が無い人間だ」とか
神の愛と信頼をそのまま素直に受け入れることができない自分がいるというのです。
私自身が伝道された時も、
「この人達は純粋な人達なので、自分のような人間が煩わせてはならない」と
強く感じました。
人情的な良心によって、私という人が復帰されることを邪魔されたというのです。
鶴田浩二の歌じゃあないけれど、
「明るすぎます。おいらには。」
のような感情が常に生じました。
兄弟姉妹の姿を見て惹かれるような自分もいるが、足がすくんでためらっている自分もいる。そんな感じでした。
献身して今度は私が和動する番になると、
自分を自分が許せないでいる人がいて
それが信仰の前進を妨げているように見えました。
親子関係に原因がある場合もありました。
親に期待されている姿になった時に私は親に愛されるが
期待に応えることができない時には、愛されないのではという不安。
また、不安ではなく挫折のようなものが、多かれ少なかれある場合には、
なかなか隣人を愛するという情が自然に湧いてきません。
隣人に関心が注がれる前に、自分の問題が引っかかっていて前に進めないようでした。
このような場合には、形からだけでも隣人に伝道する中で、犠牲と奉仕を捧げていく中で、ある時点からこの問題が解消されていると気づく場合と、
霊の親などから無条件に尽くされる中で、期待どうりではなくても、わたしはわたしとして愛され信頼され得るのだと実感することで解決することもあるようです。
祈りであれ実践であれ、神の愛する自分を如何に臨場感を持って実感することができるかということは、信仰にとって大きな礎となり、様々な試練を無駄に大きく受け止めることなく、神の愛の中に受け入れることができるようになるものです。
そして、如何に自分を神が無条件に愛し尽くされているかという実感の程度が
隣人に対しても、同様に神がこの方を愛している指標と確信の実感となり
伝道にとあるいは授受作用にと駆り立てる力になるのだと思います。
この「神の信じ愛する自分を愛する」ということを
どれほど掴めることができるかは、神が臨在される生活をすることにとって
大変重要な避けることのできない課題ではないかと思うのです。
如何でしょうか?
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