原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

信徒を見出し伝道することと、伝道して信徒になった方々に何を提供できるかということ

家庭連合から沢山の方が、お母様ではなく、第二代王の亨進様に、お父様が直接主管され、御旨を進めておられると判断され、サンクチュアリの方にやってこられました。

こちらに来たのはいいのだけれど、

子どもたちの教育は?

子どもたちの祝福は?

親子セミナーは?

信徒の交流は?

夫婦のセミナーは?

などというように聞きたいことがあるでしょう。

信徒の皆さんのニーズに応えていかなければ存在理由がありません。

 

ある会社で顧客の創造ということで、新規の顧客を開拓した。

それは、便利なソフトウエアだった。

ところが、安心して放ったらかしにしていたり、お客の視点でサービスや支援を怠たっていたら、いつの間にか自分のとこのお客だと思っていたのに、別の会社のソフトを使うようになってしまった。

「ああ、なんてえこったい!」

「うちの製品が良いのに、お客が間違っている」

そんな話があったとする。

どこかで聞いたことがないか?

 

顧客の創造の後には、顧客に対する奉仕が必要です。

どのような価値を提供して関係性を強化維持していくかが重要になります。

信仰組織も同じで、

信徒の創造、すなわち伝道をしても、

天一国主人としての主体性が発揮できるような、支援が必要になるかと思います。

子女教育から子女独育とその支援及び恩恵交換

夫婦教育から夫婦独育とその支援及び恩恵交換

信徒の自発性と自主性が啓発されるように、支援・協助する

仕組みや仕掛けをサンクチュアリは次第に整えなければならないでしょう。

家庭連合は精神的にも物質的にも奴隷産業でした。

 

お父様は本気で我々にお父様以上の人間になることを願ってくださいました。

神の子になることを信じてくださいました。

 

家庭連合は、天一国主人、祝福の中心家庭を育てるための、後方支援を怠ったばかりか

過保護の教育ママのように、いくつになっても信徒を支配し続けて、「自発性」を根こそぎ奪ってしまった。

これじゃあ、いつまでたっても「天一国主人」にはなれない。

天一国従人」だ。

祝福の「中心」家庭が泣く。

祝福の「外心」家庭だ。

 

天聖経では、お父様が「習慣性」を繰り返し諌めている。

サタンが携帯する人間堕落の有力な武器だ。

何時になったから、寝なければいけない。

何時間寝なければいけない。

何時になったから食べなければいけない。

まだ二食だから、もう一食食べなければならない。

 

教会でも、礼拝に出ているから信仰者。

十一条をしているから信仰者。

毎月の目標を達成にむかって歩んでいるから信仰者。

アベルに報告・連絡・相談してなんでも決めるから信仰者。

わたしは大丈夫問題ない。

こういう「習慣性信仰」もあることだろう。

摂理の中心、内的摂理の中心である真のご家庭がサタンに攻められて

大変になっているのに、自分の責任分担を達成したから大満足。

 

アベル依存症」だね。

何のために報告・連絡・相談してるのだろうか?

必要上しなければならないことはあるよ。そりゃあ、あるだろう。

しかし、何でもかんでもではね。

報告・連絡・相談するのは、

それによって、自分でも何事も判断できるようになるためではないのかね。

ずーっと、子供扱い、奴隷扱いじゃないか。

「ご主人様、教会長様いかが致しましょう?」

 

家庭連合には教育内容が十分じゃないね。

どこが?

牧会なら牧会、ヨハネ先生の牧会・説教集

これではだめだね。

ヨハネ先生が必要なくなる牧会の本を作らないといけない。

「一人牧会」「自分牧会」

こうしたものに教会成長研究院は挑戦しないといけないね。

牧会者が必要なくなる。

 

善きものをすべて与えて職を失う、また楽しからずや

 

お父様は、サタンが精神的武器として「固執」「習慣性」で、我々を堕落させると警告された。

「固執」は仏教の「執着」のことだね。

地位・名誉・金・家族・親友・会社・仕事・趣味

いろいろあるね。

亨進様と国進様「依存」こそサタンの武器であり、我々の自由と責任を奪い、

主人たる人間から奴隷たる僕に鎖をかける罠だと喝破された。

「依存症」の人は自分がそれに依存していることに気づかない。

だから、気づかせ目を覚まさせてあげないといけない。

 

お母様教のマトリックスに閉じ込められていることに何の違和感もない。

 

イエス・キリスト

人類を奴隷から解放し、養子にして救ってくださった。

新約のこの恩恵に対し

今、家庭連合は、再び旧約の奴隷の信仰に食口を堕落させてしまった。

 

自由というと、選択する権利とそれを行使することができることを思い浮かべる。

人間の選択はただ原理軌道の選択であった。

あれかこれかの選択ではなく、ただこれしかない選択、それが自由だった。

これしか心情的に考えられない。

そういう選択だった。

 

わたしは、「自由」という言葉が、ややもすれば「放縦」に誘惑されやすいことから

「自由」の替わりに、「主体性」を思い描くことが多い。

金日成の「主体思想」という言葉は、本来神の言葉だったという。

家庭に顕現する主体に共通する主体性とは何なのだろうか?

 

原理を求めない主体性はない。

責任を引き受けない主体性はない。

実績をもたらさない主体性はない。

 

他因でなく自因

他責でなく自責

空績でなく満績

 

主体性とは原因性である。

対象である人や環境に原因を帰するのではなく、

我に原因ありとするものである。

したがって、責任もまた原因である自らが、

他に強いられることなく引き受けて行くものである。

そして、そうであればこそ、実績も人や環境に左右されてはならない。

これをことごとくやって見せて、我々の現前に証明してくださったお方が

真のお父様であられた。

 

お父様が100%投入されて、復帰され、教育されたわれわれは

ここで言い訳をして逃れるか

あるいはお父様の行かれ示してくださった道を

追随するか決断しなければならない。

 

この神の子たる「主体性」を骨抜きにして

替わりに「依存性」を叩き込んできたのが

家庭連合であった。

 

主体性を復帰せずして、どうして真の自由を勝ち得ることができるだろうか?

何かに依存するということは、その何かの奴隷になることだからである。

顕進様は亨進様と国進様がなさる自給自足の運動が理解できないと聞く。

もしそうであるならば、お二人の哲学・価値観を理解されていないからであろう。

お二人が推進されていることは、お父様がジャルジン、パンタナールに思い描いた創造本然のエデンの建設である。

万物の主管主として、何ものにも依存せず相互に助け合い、サタンの入る隙のない王国の建設である。

そのためには、「固執心」「依存心」「習慣心」の3つ

まずもって克服しなければならないだろう。

サンクチュアリには、

 

サタンの気体の武器である「タバコ」はない。

サタンの液体の武器である「酒」もない。

サタンの固体の武器である「麻薬」もない。

 

家庭連合が天の伝統を打ち立てることができなかった原因である

「固執心」「依存心」「習慣心」の3つを

「囚われない心」「頼らない心」「新しい心」

限界線を突破しましょう。

 

昨日、相対者が訓読チャートで伝道対象者に説明した。

大変好評で分かりやすかったという。

家庭連合にも感謝すべきものもある。

ありがとうと率直にいいたい。

 

多くの家庭連合に囚われの身になっているお父様が愛する信徒が

外的教会ではなく内的な祝福の中心家庭として

お父様の心情に直結する日が一日も早く訪れることを衷心から希望申し上げる。

アージュ

 


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