2歳にして修道女になりたいと願ったという、聖テレーズはいったいどんな誓願を17歳の日に抱いたのでしょうか?
お父様も数えで16歳、満15歳でイエス様にお会いして、御旨の成就を要請され、これを許諾され天地に誓って生涯貫かれました。
我々サンクチュアリは、古の元服式のように、子孫にたとえば15歳のイースターの朝の誓願式に向けて養育するような伝統を持つべきではないでしょうか?
お父様が模範を示された、あのイースターの朝。
イエス様が家出したとき教会で、親から聞いたことがなかった、自分がメシアであることを天使に告げられた12歳。
アダムとエバが思春期に堕落して神に悲しみを与えたことを蕩減復帰して
二世の行く道は、このような思春期に神を喜ばす誓願の日を設けて
それに向かって内外の準備をし、霊性を高め神にお会いする一日を決めるべきでしょう。
百日は親がいたしました。
子ども自身ではありません。
子どもたちはどこで宣誓するべきでしょうか?
その日は彼らの献身の日になることでしょう。
さて、17歳の聖テレーズは如何なる思いを抱いて生きておられたのでしょうか?
幼いイエスのテレーズが誓願の日に胸にしまっていた紙片
1890年9月8日
おお、イエスさま、私の天の花婿! !私の洗礼の第二の衣が決して失われることがありませんように! ごく小さな過ちも知りながら犯さないうちに、私を引き取ってください。いつもあなただけを求め、あなただけを見いだし、私にとってこの世のものが、またこの世にとって私というものが何でもなくなってしまいますように・・・。イエス様! あなたが私のすべてでいてください・・・! 私の心が、地上のことによって乱されることがありませんように。何ものも私の平和をかき乱すことがありませんように。イエスさま、あなたに平安だけをお願いします。それから愛も・・・。あなたご自身の無限の愛・・・。私のイエスさま、もう私自身ではなく、あなた自身であるような愛を・・・。イエスさま、あなたのために殉教の死を遂げられますように。心の殉教か、または肉体の殉教か・・・。いいえ、いっそのこと、両方を・・・。私の立てた誓願を、できるだけ完全に果たすことができるようにしてください。そしてあなたの花嫁はどうあるべきかを悟らせてください。決して共同体に迷惑をかけることなく、かえってだれにもかまわれず、イエスさま、あなたの小さい砂の一粒と見なされ、忘れられ、足もとに踏みにじられるようにしてください。私のうちに、あなたのみ旨が完全に成し遂げられ、あなたが前もって私のために準備してくださったところまで達することができますように・・・。
イエスさま、私にたくさんの人々を救わせてください。今日は、一人も地獄に堕ちる者がなく、煉獄の霊魂が、全部助け出されますように・・・。イエスさま、言ってはいけないことを言ったのでしたら、許してください。私はあなたを喜ばせ、慰めることしか望んでおりません。
イエス様なのか私なのか区別できないほどの境地を、主の花嫁として尋ね求めて行くというのです。
そして渾然一体であるならば、同じ事情に通じる道こそが望まれ、心の殉教も肉体の殉教も両方望んでイエス様に対する愛の証として、殉教の死を迎えたいと懇願されます。
「私のイエスさま、もう私自身ではなく、あなた自身であるような愛を・・・。イエスさま、あなたのために殉教の死を遂げられますように。心の殉教か、または肉体の殉教か・・・。いいえ、いっそのこと、両方を・・・。」
祝福二世からはこのような女性がおびただしいほど現れることを神は切に願っておられたことでしょう。
「あなたの花嫁はどうあるべきかを悟らせてください。」
キリスト教200年は主の花嫁とはどうあるべきか訪ねてきた道であって、独生女を求めてきたのではありません。主の花嫁となるべき独生女はどのような心情を持つべきでしょうか?
「かえってだれにもかまわれず、イエスさま、あなたの小さい砂の一粒と見なされ、忘れられ、足もとに踏みにじられるようにしてください。」
自ら進んで主の足もとに踏みにじられることを望むような主の花嫁候補の中から、再臨主の花嫁は選ばれるというのです。
何故なら、その方の行かれる道は、歴史上のすべての女性が蹂躙された愛の拷問を越えていかなければならないからでした。
6マリアと言われる愛の十字架を自ら喜んで行かなければなりません。
自分が身も魂も捧げ尽くしたお方を、神のため人類のため、全ての女性に差出してゆかなければなりません。
真の母になるために。
若き日のお母様は偉大な歩みを行かれておられました。
さて、聖テレーズ22歳の時の祈りはいかがでしょうか?
神の慈しみ深い愛にいけにえとしてわが身を献げる祈り
おお、私の神、至福の聖三位よ! 私はあなたを愛し、人々にもあなたを愛させたいと思います。地上の人々を救い、煉獄で苦しむ霊魂を助けながら、教会の光栄のために尽くしたいと望みます。主のみ旨を完全に果たし、私のために準備されたみ国の光栄に達したいと思います。つまり聖人になりたいのです。しかし、私にそのような力はありません。主よ、あなたが聖徳となってください。主はおん独り子を、救い主、天の花婿として与えてくださったほど私を愛しておられるのですから、おん子の功徳の限りない宝は、すべて私のものです。それゆえ、私は喜んでそれを主に捧げます。どうぞ、ただイエスさまの尊い面影を通して、また愛に燃えるみ心のうちにだけ、私を眺めてください。
また、天上と地上の聖人そして天使のすべての功徳と愛の行いを、あなたに捧げます。そして、おお、限りなく幸いな聖三位よ、さらに愛するおん母、おとめ聖マリアの愛と功徳をも献げ、聖母のみ手にこの奉献をゆだねて、聖母おん自ら献げてくださるよう心から願います。
尊いおん子、最愛の天の花婿は、地上におられたとき、「あなたたちがわたしの名によって父に求めることは、何でも与えてくださるだろう」(ヨハネ16・23)と言われました。それゆえ、主は必ず私の望みをかなえてくださることを信じます。おお、私の神、主の与えたいとの思いが強ければ強いほど、ますます私の望みは激しくなります。
私の心の中の望みは、実に限りがありません。深い信頼を持って、主が私を完全に主のものとしてくださいますように願います。ああ!私は自分が望むほどたびたび聖体拝領ができません。主よ、ななたは全能でいらっしゃいます。どうぞ聖櫃におられるように、私の中にとどまり、主のちいさなホスチアから決して遠ざからないでください!
私は罪人たちの忘恩を償って、主を慰めたいと思います。主のみ心にかなわない行いする自由を、どうぞ私から取り去ってください。弱さゆえに、ときに過ちに陥ることがあれば、すぐに主の尊いまなざしが私を浄め、火がすべてのものを同化してしまうように、私のすべての不完全を焼き尽くしてくださいますように!
おお、私の神、主が私にくださったすべての恵み、ことに苦しみのるつぼの経験をくださったことを感謝します。この世の終わりに、私は十字架の王笏(おうしゃく)を手にとる主を喜んで拝することでしょう。主は貴重な十字架を私にも分け与えてくださいました。それゆえ、私は天国で主に似たものとなり、私の光栄のからだに主のご受難の傷跡が輝くことを希望します。
このさすらいの後、天のふるさとで主を受ける喜びを望みます。しかし天国のために功徳を積むのではなく、ひたすら主を喜ばせ、主のみ心を慰め、人々を救い、永遠に主を愛させることだけを目指して、ただ主の愛のためにのみ働こうと望んでいます。
命の夕べに、私は空の手で主のみ前に立つことでしょう。自分の業を数えてくださいとは願いません。主のおん目から見れば、私たちのすべての正義もなお汚れたものです!それゆえ私は主の正義を着て、主の慈しみによって、主ご自身を永遠に自分のものとすることを願います。おお、最愛の方よ、主のほかには、どんな王位も王冠も望みません。
主のおん目には時間は何ものでもなく、『一日も千年のよう」です。それゆえ、主は一瞬のうちに、私を主のみ前に立つふさわしい者となさるでしょう。
あなたの愛に生かされるために、あなたの慈しみ深い愛に、私をいけにえとして献げます。どうか私を絶え間なく焼き尽くしてください。あなたの中にせきとめられた無限の慈しみの波を、私のうちに満ちあふれさせ、主の愛の殉教者にしてください。殉教によって主の前に立つにふさわしいものとされてから、ついに死を与えてください! 主に向かって、すみやかに飛んでいき、主の慈しみ深い愛に永遠に抱かれますように!
おお、私の最愛の方よ、「この世の影が消え失せて」永遠に主を目の前に拝し、わが愛を主にお伝えできる日まで、心臓の鼓動のたびに、数限りなくこの奉献をくりかえすことを望みます。
不肖なるカルメル会修道女
マリー・フランソワーズ・テレーズ
1895年6月9日 三位一体の祝日
(黒い太字は著書のままで、赤い字の処理は私がしています)
「つまり聖人になりたいのです。」
22歳にして聖人になりたいと公言して祈ることができる女性が修道院には現れてきました。我々は何をしていたのでしょう。
女性ばかりではなく男性の信徒も彼女のように、お父様に似た者となりたいと公言し祈りたいものです。
「しかし、私にそのような力はありません。主よ、あなたが聖徳となってください。」
本当にそのとおりです。
我々もそのような道を行きましょう。
「主のみ心にかなわない行いする自由を、どうぞ私から取り去ってください。」
創造本然の自由以外の逸脱した自由はすべて消し去って欲しいと訴えられます。
私たちの良い見本ですね。
続いて行きたいと思いますね。
「おお、私の神、主が私にくださったすべての恵み、ことに苦しみのるつぼの経験をくださったことを感謝します。」
イエス様に同化したいと願うあまり、自ら進んで「苦しみのるつぼの経験」を主の受難になぞらえて感謝し拝受していきたいと強く願われるのです。
「私は天国で主に似たものとなり、私の光栄のからだに主のご受難の傷跡が輝くことを希望します。」
受難の痕跡、スティグマータ。
それが霊的なものによって現れるのか、それとも医学的に説明しうるもので現れるのかは、私にとってはどうでもいいことのように思われる。
それが現れざるをえないほどキリストと合一している心情だけが、私には重要な事です。
そのような心情基準というものはいったいどのような世界なのでしょうか?
「しかし天国のために功徳を積むのではなく、ひたすら主を喜ばせ、主のみ心を慰め、人々を救い、永遠に主を愛させることだけを目指して、ただ主の愛のためにのみ働こうと望んでいます。」
天に宝を積むにせよ、もはや自分という観念が全く欠如されておられます。
本当に敬服する御姿ですね。
我々のみ旨における姿勢もこのようでありたいと思います。
永遠にお父さまを愛し、お父様を愛させることのみを目指す。
主の花嫁や真の母はこのようにあるべきでしょう。
「おお、最愛の方よ、主のほかには、どんな王位も王冠も望みません。」
お父様以外は、女王の位や、特別な王冠もお父様が握ったこともないような権能権力を表す杖も望みませんというようになるべきでしょう。
これが2000年のキリスト教の伝統であって、現在のお母様はキリスト教さえ理解できていません。ましてや、お父様のみ言葉はご理解できていないでしょう。
聖和後、一度もお父様の大切な御言葉を引用して語られたことは今もってありません。
聖テレーズのように、我々もこうありたいものです。
「おお、私の最愛の方よ、「この世の影が消え失せて」永遠に主を目の前に拝し、わが愛を主にお伝えできる日まで、心臓の鼓動のたびに、数限りなくこの奉献をくりかえすことを望みます。」
心臓の鼓動のたびに、数限りなくこの奉献をくりかえすことを望みます。
引用は以下の本によります。
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