原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

サンクチュアリ人は特別に選ばれた者ではなく  むしろ十字架の右の強盗

マザーテレサが見本としたというリジューの聖テレーズは、イエスのアニェス院長にこのようなことを書き綴っています。

 

 

福音書を開いてみますと、『イエスは山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」(マルコ3・13)という句が目につきました。

 これこそ、私の召命と全生涯の秘密、ことにイエスさまの私に対する特別な慈しみの神秘です。主は召命にふさわしい人々を招くのではなく、お望みの人々を呼びます。あるいは、パウロが言うように、「神は、あわれもうとする者をあわれみ、慈しもうとする者を慈しむ。こうして、選びは、望む者や走る者によらず、神のあわれみによる」(ローマ9・15−16)のです。

 長いあいだ、私はどうして神さまはある人々を特別に愛され、すべての人も魂は同じ度合いの恵みを受けないのかと、不思議に思っていました。パウロや聖アウグスチヌスのように、主にそむいた人々にまれな恵みを惜しげもなく注がれ、まるで恵みを無理に与えられたような聖人がいるのに、驚きました。また、聖人伝を読みますと、主はある人たちをゆりかごから墓場にいたるまで慈しみ、主へと向かう妨げとなるものは何ものもその道に残しておかれず、彼らの洗礼の衣の純白の輝きを少しも曇らすことないように、いろいろな恵みで守られます。それなのに、どうして神のみ名を一度も聞かずに死んで行くかわいそうな人々もいるのでしょうか?イエスさまは、この神秘について教えてくださいました。主は私の目の前に大自然の本を開かれました。それで、主が造られた花はどれもみなそれぞれに美しく、バラの輝くような美しさも、百合の清らかな白さも、小さいすみれの香りやひな菊のかわいらしいあどけなさを、そこなうものではないとさとりました・・・・。また、もし小さい花がみなバラになりたいとおもうならば、自然は春の装いを失い、野山にはもう色とりどりの花が咲き乱れることがなくなる、と悟ったのです。

 イエスさまの花園である霊魂の世界も、これと同じです。主は百合やバラにたとえられるような偉大な聖人を望まれましたが、もっと小さい霊魂も造られました。彼らは、主が足もとをごらんになるときに、そのおん目を喜ばせる小さなすみれや、ひな菊であることを満足に思わなければなりません。完徳とは、神さまのみ旨を行うこと、主が望まれるような者となることなのですから・・・。

 私はまた、主の愛は、主の恵みに少しも抵抗しないもっとも単純な人々のうちにも、もっとも崇高な人々のうちにおける場合と同じように、表れることを悟りました。愛の特徴は、自分を低くすることにあります。もしすべての人が教会を学識の光で輝かせた教会博士たちのようだったとしたら、神さまはこの方々のところまでお下りになっても、それほど低くなられたことにはなりません。けれども主は、何もわきまえず、弱々しい泣き声しかあげられない幼子や、自然の掟だけを行いの規範としている人々をも造られ、その心にまでお下りになります。彼らこそ、その単純さによって主のみ心を奪う野の花なのです。神さまは、このように低くお下りになることによって、ご自身の限りない偉大さを示されます。ちょうど太陽の光が杉の大木と同時に、小さな花の一つひとつを、まるでこの地上にはその花しかないかのように照らすのと同じで、主も、一人ひとりに、まるでその人以外だれもいないかのように、特別な心をお配りになります。自然界ではいちばんささやかなひな菊さえ、定められたときに花開くことができるよう、四季が配置されています。同じようにすべては一人ひとりのために、いちばんよいように取り計らわれるのです。

 

幼いイエスの聖テレーズ自叙伝―その三つの原稿

幼いイエスの聖テレーズ自叙伝―その三つの原稿

 

 

3000家庭は我々の資質によって選ばれたエリートではありません。

むしろ、我々はお父様が堕落天使長たちに苦しめられていた頃、お父様のご事情を察知することができず、お支えすることもできませんでした。

堕落天使長たちの陰謀からお父様をお守りすることができれば、120歳位は優に生き永らえることができて、天一国やお孫様たちのご指導をされていたことでしょう。

お父様を亡きものとする毒性女神学に体を麻痺され命を縮められてしまう結果となりました。

我々は肝心なときに父をお守りすることができませんでした。

我々が常にお父様の心に生きていたとするならば

神さまがどうして知らせないことがありましょうか?

我々はお父様が与えてくださった祝福の泥棒たちにすぎませんでした。

 

聖和後においても、亨進様の不可解な訪米生活をツイッターで知りながらも

何が起こっているか理解することができませんでした。

本来であれば、沈黙を破る前から亨進さものもとに私達が駆けつけなければなりませんでした。

霊的に暗く、御父や御子と心情が離れていたので我々は、この親子を見捨てて荒野に置き去りにして放おっておいたのでした。

それにもかかわらず、亨進様は全食口の前に悔い改めの言葉を発することから始められました。

我々はどうして得意になり、悔い改めを忘れることができましょうか?

 

我々は霊的ヌケサクでした。

スヌーピーなら我々に

”Stupid!”

ということでしょう。

犬に笑われるべき我々です。

 

お粗末な我々が似ているとするならば

それは十字架上の右の泥棒ではないでしょうか?

 

:39)十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。 
:40)もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 
:41)お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 
:42)そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
:43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

ルカによる福音書23章

 

こんな話があります。

パエジという名の娘が父母を失い残された遺産で善行を施そうと決意しステの隠者に家を宿泊所として提供したのですが、悪魔のささやきに人より自分を大切にしようとして、ついには悪事さえ始め、徳を忌み嫌うようになってしまいます。

この有様にステの隠者たちはヨハネ神父に助けを求めます。

パエジの変わり果てた姿を見て、神父はさめざめと泣きました。

彼女はどうして泣くのか聞き、今からでも償いの余地があるかと尋ねます。

ヨハネ神父はこれを請け合いました。

するとパエジはこの償いができるところに導いて欲しいと懇願します。

償いのための苦業も厭わず、すべてを捨てて回心して、神父について行きました。

 

 ヨハネがパエジをどこに連れて行くつもりであったかはよくわかりません。たぶんどこかの女子修道院であったかもしれません。とにかく彼らが砂漠まで来たときは、すでに夜でした。ヨハネは砂を固めて枕のようなものを作り、それに十字架のしるしをして、パエジにそこに眠るように言いました。それから彼はさらに先に進み、祈りを済ませて眠りにつきました。真夜中に、ヨハネがふと目を覚ますと、パエジの上に天から光線が降り注ぎ、多くの天使がその光の道を通って、パエジの霊魂を天国に運んでいくのが見えました。彼はこの幻に驚き、すぐさまパエジのもとに行き、彼女が死んでいるかどうかを調べるために、足で押してみました。彼女はすでにその霊魂を神に返していました。するとそのとき、ある不思議な声が聞こえました。

「彼女の1時間の償いは、ほかの者が長期間行う償いよりも、はるかに神の気に入った。なぜなら彼らは彼女ほどの熱心をもって行わないからである」と。

ミシェル・アンジュ・マラン師著 「東洋の砂漠の教父伝」より(上記同書による)

 

 

2月13日以降、亨進様は次第に家庭連合から手を引き始められました。

それまで精誠を十分尽くされたので、後は本人の自由と責任に比重が移されていきます。

これは箱舟で言うと、搭乗ゲートが閉まりつつあることを暗示しています。

家庭連合は動画での配信を見ればわかるように、浮ついた表面的な華やかさにだけ関心を持っているかのようです。そこに心情文化はできることでしょうか?

単なる数ある新興宗教の一つに成り下がったと見て間違いないでしょう。

批判する価値すらなくなりつつあるようです。

だが、我々も下手をすれば同じことになるlことでしょう。

 

我々は天一国の文化を築いていかなければなりません。

聖フランチェスコシエナのカタリナもイエス様と合一してスティグマータ(聖痕)が現れたほどだといいます。

また聖テレーズも然りでした。

心情一致の基準は大変なものでした。

 

マリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンは1873年1月2日に生まれ24歳で生涯を終えたフランスの修道女です。二歳の頃から修道女になることを願っておられました。

33人いる教会博士のひとりでもあります。

1883年5月13日 (聖霊降臨の祝日) 聖母のほほえみにより病気を癒される。

1886年か87年のある日曜日に、十字架上のイエス様の絵を前に恵みを受けます。

1889年7月 聖女マグダラのマリアの隠遁所にて聖母に一致する恵みを受ける。

1895年6月14日(金) 十字架の道行をしている時に、愛の傷手の恵みを受ける。

 

パウロはガラテヤ人への手紙でこう言っています。

:1)兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
:2)互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。 
:3)もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。 
:4)ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。 
:5)人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
:6)御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。 
:7)まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。
:8)すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 
:9)わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 
:10)だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。 
:11)ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。 
:12)いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。 
:13)事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。 
:14)しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
:15)割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。 
:16)この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。 
:17)だれも今後は2、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、エスの焼き印を身に帯びているのだから。 
:18)兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アァメン。

 

聖なる合一を得て、

主にあって家畜のように焼き印を押され、

主の奴隷として所有される者は幸いです。

痛みをもってスティグマータが現れることでしょう。

 

 


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