原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

理屈理性をすっかり脱ぎ去って行く 十字架の聖ヨハネの言葉を添える

ブッダの「毒矢の話」というものがありますね。

皆さんもどこかで聞いたことがあったり、読んだことがあることでしょう。

ある人がブッダに質問するのです。

「世界は永遠なのか、無限なのか」とか「如来は死後存在するのか」とか様々です。

それに対してブッダはまるであなたは毒矢に刺さっているにもかかわらず、この毒矢の毒の正体は何だとか、誰が矢を射たのだろうかとか?その者の肌の色は?どこに住んでいるのだ?どんな階級の者なのか?というように、

それを知るまでは毒矢を抜かないと言っているようなものだとたしなめます。

放おっておけば死んでしまうよと。

だから、私の説いたことは説いたようにそのまま受けっとって

説かないものも説かないままそのままで受けとりなさいと。

 

男性は特に理屈の迷宮に奥深く入ってしまって、もとのところに帰れないばかりか、ぐるぐるぐるぐるとぐろを巻くように迷宮の森にさまよって抜け出せなくなることがあるようです。

その迷宮の森には綺麗な花々が咲いているようですが、

ああでもないこうでもないと次から次に新しい花を摘んでは香りを嗅いで

その刺激の繰り返しによってとうとうそこで一生を終えることにもなりかねないというのです。

 

律法学者やパリサイ人もそうでしたし、彼らを挙げるまでもなく

多くの我々男性の試練を受けるところです。

知的に理解することは単なる入り口に過ぎなかったはずとわかっていながら

麻薬に溺れた人たちと同じようになってしまうことがあるようです。

 

エス様の答弁は理屈の世界からやって来るのではありませんでした。

理屈を捨て、理屈を超えたところからやって来ました。

 

人間が21年で心の成長を果たして成人になるとすれば

はじめの7年間の幼児期には本能が中心になって行動しているのでしょう。

本能は肉身に属するような動物にもある心のようなものです。

自分が一番大切という心と考えればいいのかもしれません。

そのような動物でも子どもが外敵に襲われそうになれば

小さな体を張ってでも大きな獣に立ち向かって子どもを守ろうとする親の心があります。

本能で生活する動物にも愛ゆえに死を越えていきます。

勿論、われわれのように死を理解しているわけではないでしょうが・・・

 

次の7年の少年期には理性が中心になって行動する時期になります。

理屈によって、または理屈で判断する基準であるルールに本能はバトンタッチします。

天使長基準ですね。

 

蛇は成長するときに脱皮していきます。

幼虫は蛹になって死を迎え、新たな蝶に変身して自由を得ます。

 

我々人間は脱皮することはありませんが

幼年期から少年期に移る時には、心の主役が本能から理性へと移り変わって行くようです。

バトンゾーンを経て移り変わっていきます。

理性は本能のようにはむき出しに自分が一番大切という行動は取りませんが、

比較分析しながら、私が自分を大切にするように、相手も自分を大切に思っていると考えます。

「わたしはこうすべきである」とか

「わたしはこうしなければならない」

理性は私たちにそう命じて行動を規定しようとします。

 

信仰をする者にとって、この「must」から「want」への移行がスムーズに行かないと

大変苦しいことになるでしょう。

昔も今もクリスチャンの悩みのひとつです。

「あるべき自分」「すべき自分」とそれを生きるのではなく、演じる行為を、

静かに見つめるときに、努力し続けてもこの乖離が埋まらない時はどうなることでしょうか?

もしかしたら自分は本当は偽善者ではないだろうか?

そのように思い悩むことにもなりかねません。

 

頭のなかで造り上げた「理屈の世界」と

心のなかで実際に感じている「情の世界」が

どこまでも交わることのない平行線のように思えてくる期間があるからです。

 

孟子は惻隠の情を説きました。

自分の命も顧みずに直ちに人のために行動せずにはいられない情のことです。

 

ある時、プラットホームから人が落ちてしまった事がありました。

その場でそれを目の当たりにしていた人は、電車が近づいてきている気配を十分に感じながらも、線路に降りて行き落ちた人をホームに押上げ、ホームの人もこれを助けて引き上げました。

ところが助けた人にはホームに戻る十分な時間が残っていませんでした。

彼は隣人の代わりに犠牲になりました。

ニュースでお聞きになったことがあるかと思います。

人間にはそのような心があります。

 

最後の少年期から成人期に至る7年間には、理性中心から心情中心にこころの転換が行われるようになっているようです。

 

理屈の世界に留まっていれば、本質的な恵みを得ることができません。

ずうっと、すっきりしない悩みの中に暮らすことになります。

理屈理性は霊性に開かれていくべき心を地上に引きとめようとします。

物質に引きとめようとします。

理性を至高のものと捉えると、その霊界に住むことになります。

神の霊性の届かぬ薄暗い世界に。

知性が霊性をではなく、霊性が知性を導いてこそ心情世界が開かれていきます。

 

十字架の聖ヨハネの著作から学んでみましょう。

人間の知性ではなく、神の知性を求めて。

み言葉の理解ではなく、その背後に潜む神の愛の享受と実践のために。

「とうはん」とは険しい岩の壁をよじ登って行くことです。

 

 神にゆくこの道は、たくさんのことを考えたり、いろいろの方法や形式や味といわれるもののうちにあるのではない。もちろん、こうしたものは、初歩の人にとっては必要なものであるが。

 ともかく、われわれにとって必要なものはただひとつしかない。それは、外的なことにも内的なものにも自分を捨て、キリストのために苦しみに身を委ね、すべてのことにおいて自己を全く無にすることである。

 

 神の英知に結びつけられるために、自分の知恵や賢さに頼ろうとするものは、神のみ前において無知も甚だしいものであり、その英知からはるかに遠ざかる。

 

 何かの理解、感じ、想像、考え、意志、自分自身のやり方、あるいは、何かほかのことや、自分自身のことにとらわれ、それらすべてのものから離脱して赤裸になることを知らなければ、神との一致という高い状態に達することを、はなはだしく妨げられる。

 

 神の英知と結びつくに至るためには、「知」よりも、むしろ「不知」の道を通ってゆかなくてはならない。

 

 神に達するためには、理解することよりも、理解することなしに歩まなくてはならない。すなわち、変わるもの、理解されるものは、変わらないもの、理解できないものに、その席を譲らなくてはならない。

「カルメル山登攀」

 

 

 はじめからよい道を行く人々は、目に見える用具に執着したり、それらをむやみに集めたりすることがなく、業を実行するために知る必要のあること以外は、何も知ろうとしない。というのも、彼らの目は、神の望みに適うことと、神をお喜ばせすることの上にのみ注がれているからであり、彼らの望みといえば、ただこれだけなのだから。

 

 霊魂が偉大なことに達しようとするならば、観想の暗夜がまず、霊魂のうちの程度の低いものを無に帰し、滅ばし尽くしてしまい、霊魂を闇と乾きと苦悩と空虚のうちに置くことが、何よりも適当不可欠なことである。というのも、霊魂に与えられている光は、自然界のあらゆる光を超越する最も高い神秘的な光であって、自然的には理性の中に入れないからである。

「暗夜」

 

 あなたの能力が知覚するものに決してとどまるな。神についてあなたが理解することのうちに満足を求めず、むしろ、あなたが理解できないことにおいて喜べ。神について悟り、感じえたことに、決して、愛も喜びもおくな。むしろ、かれについてあなたが悟ることも感じることもできないことを愛し、喜べ。これこそ、信仰によって神を求めるということである。

 

 この世で、神について知り得るすべてのことは、どんなに崇高なものであろうとも、真の認識ではない。それは、部分的で、実際からはきわめて遠い認識だからである。

 

 ある霊魂が、その霊的の道において、神との交わりに自然的な行き方や、やり方を離れ、考察とか、想像とか、感じとか、その他、感覚や被造物から来るなんらかの方法を通じて神を求めることをやめ、そうしたものすべてを超越し、自分としての方法や様式をすべてさしおいて、ただ信仰と愛とによって神と交わり、神を楽しむようになれば、この霊魂は真実に神を見出したのだといい得る。それはこの霊魂が、神でないすべてと自分自身に対して、真実に自分を失われたものとなしたからである。

 

 霊魂が神的上知の繁みにはいり、その美をもっと奥深いところまで知ろうと激しく望む理由の一つは、神のすべてのみわざのうち、その神的上知を最高度に、かつ、こころよく輝かし出すご托身の奥義の知識によって、自分の知性を神に一致させたいからである。

 

 キリストの奥義は、この世で達しうる程度のことでさえ、まず神から前もって、あまたの知的、感覚的恵みを受け、霊的修業に一心に励むことなしにはそこに達することができない。これらの恵みは、みなキリストの奥義の知識以下のものであり、みな、そこに達する準備のようなものである。

 

 霊魂は、どんなに高い神の知識に恵まれ、どんなに崇高な観想にあげられ、すべての奥義に通暁していても、愛がなければ、聖パウロも言っているとおり(コリント人前13・2)神との一致のために、何の役にも立たない。

「霊の賛歌」

 

 観想においては、神がその観想を通じてご自分の方から霊魂に注ぎ入れてくださるので、霊魂は明白な知識を持つことも、また知的な行為をすることも必要ではない。なぜなら、ただ一つの行為において、神は霊魂に光と愛とを同時にお与えになっておられるからで、これは愛においてみちた超自然的和解であり、それは事物を暖める熱い光のようなものだからである。

「愛の生ける炎」

 

 これらの文章は以下の本よりの引用です。

ヨハネの著書や手紙から332の珠玉の言葉を集めて掲載されているので、霊性を正してくれることうけあいです。

愛への道―十字架の聖ヨハネの生涯と教え (聖母文庫)

愛への道―十字架の聖ヨハネの生涯と教え (聖母文庫)

 

 

 


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