原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

聖霊体験と重生について  2

皆さんは、重生されなければならないといいますが、重生されるには、イエス様を誰よりも愛さなければなりません。堕落圏内で、すなわちサタンの愛圏内でなされるそのいかなる愛よりも、神様を中心としてなされる愛がより次元が高くない限り、神様と連結できる道がないことを知るべきです。
 これが受難の道であり、宗教人たちが行くべき険しい道だというのです。キリスト教徒たちもイエス様を日ごとに思慕していて、イエス様が再臨されることを首を長くして待っていて、無心になり、「新郎イエス様、おいでください」と2000年間、叫んできませんでしたか。しかし、体がばらばらになり、胸が裂け、骨髄が溶ける立場、体の中 にあるのか体の外にあるのか分からない境地、ただ神様やイエス様とのみ通じる境地に入るとき、初めて聖霊が臨むのです。
 聖霊が臨むことにより、霊的な赤ん坊として再生できる霊的重生の役事が起こるというのです。皆さん、そのような体験がありますか。そのような体験がない限り、まだサタン世界の息子、娘だということです。まだ、サタンの讒訴を受けざるを得ない人だということを皆さんは知らなければなりません。そのような人は、天国に行くことはできません。地獄に行かなければならないのです。(114-27,1981.5.14)

 

天聖経 祝福家庭 第1章 真の父母と祝福 2)真の父母と重生と血統転換 ➁重生摂理の核心

 

 イエス様来たりませと花婿を2000年間キリスト教は待ち望んできました。

その中でも修道女の方々はまさに真剣そのものでした。

「あなたがわたしの内にあり、わたしがあなたの内にある」

人の姿で現われた神であるキリスト、その方との聖なる結婚、それが神と人、キリストと信徒の合一でしょう。

アビラの聖テレサは言います。

 

私の内に生きることなしに   私は生きています

最も高い命を  私は望んでいます

私は死なないゆえに私は死にます

 

今   私の外に   私は生きています

愛のために私が死んでしまってから

なぜなら主の内に私は生きているからです

主はご自分のために私を愛してくださいました

私は主に私の心をお与えしたとき

私の心にこう書き込みました

私は死なないゆえに私は死にます。

 

女性は聖霊の実体となるべく歩んで行くことが期待されています。

テレサにあっては、すっかり私という思いは死にきって、心のすべてを主に捧げています。

「私は死なないゆえに私は死にます。」

その思いは、地上の命ある生活をも捧げたいほどです。

 

命よ   私の内に生きている主

あなたに何をお与えできるでしょうか

あなたにもっと一致するために

私を失うこと以外に

私は死んであなたにとどきたい

それほど私は主を愛しているのですから

私は死なないゆえに私は死にます

 

主の花嫁であることの心情の位置を如何に獲得し如何に死守しているか、

さらに主にお与えできるものに対して飽くなき探求を続けられます。

女性信徒の在り方も、聖霊の在り方も、真の母のあり方も

ここに集約されていることでしょう。

 

この私の心をごらんください

あなたの御手に

私の身体と命と霊魂を

私の奥底と愛情を委ねます

私の甘美な花婿よ   私の甘美なあがない主よ

あなたのものとなるために私を捧げます

主よ   あなたは私に何をお望みでしょうか

 

主の花嫁である自覚をもった生活をおくることの大切さを、この言葉は我々に訴えてきます。身も命も霊魂も一切捧げて、主のものとなり、その方のただ望みのごとく生きる。

そのような女性の中から、再臨の日に真の母が選ばれていくというのです。

真の母にはひとかけらの私という思いはあってはならないのです。

「主が私にあり、私が主にある」という証であるなら。

すべては主の御心のままに語り、主の御心のままに動じ静じるばかりです。

お母様は「わたしならもっとうまくやれる」とお父様が聖和された時に、信徒に言ったのでした。悲しいかな聖霊の実体の役割を放棄なさってしまわれました。

テレサは続けます。

 

私にお与えください   死か    生か

健康か   病か

名誉か   不名誉か

戦いか   平和か

弱さか   強さか

いずれでもお受けいたします

主よ   あなたは私に何をお望みでしょうか

 

私にお与え下さい   豊かさか   貧しさか

慰めか   痛みか

喜びか   悲しみか

地獄か   天国か

心地よい生活か   灼熱の太陽か

全てを甘受いたします

主よ   あなたは私に何をお望みでしょうか

 

お望みなら   祈りを

お望みでないなら   乾きを

信仰の深みを

心のすさみを私にお与えください

いと高き威光よ

あなたにのみ平和を見出します

主よ   あなたは何をお望みでしょうか

 

「あなたにお目にかかりたくて   私は死にたくてたまらない」とまで聖テレサは告白します。日夜ランプの灯火を消すこと無く、信仰の目をまどらせることながないようにと、カルメル会のシスターたちに訴え続けられました。

 

兄弟姉妹の皆さんの中には、大変な道を行かれておられる方が多いことでしょう。

主体者が行方不明であるとか、捨てられてしまったとか、

破産して電気やガスも止められかねない。

米を買う金もない。

子供の学校をやめさせなければならない。

自分は親から大学に行かせてもらったのに、子供にはしてあげられない。

お先真っ暗で目前には怒涛の波が押し寄せる紅海ばかりが立ち塞がる。

 

そのような限界状況にあなたが立った時こそ

御父に会う貴い機会でしょう。

お父様はどのように生きられ、我々に神に対する愛を証明されましたでしょうか?

わたしたちはそんな時に、どのような真の愛を御父に捧げるというのでしょうか?

 

最後に聖テレサの詩を今読み終えて、もう一つ共感する詩をご紹介いたします。

ここに引用した聖テレサの言葉は、前回と同じく

アビラの聖テレサの「詩」 鈴木宣明監修・高橋テレサによります。

詩の他に

鈴木氏の書いた論文で

「教会博士アビラの聖女テレサの神秘霊性」

という45ページほどにまとめられたものが掲載されています。

ぜひ女性の信徒の皆さんに読んでいただきたい本です。

主の花嫁の心情を復帰することを相続されんことを。

 

後ほど、聖テレサの著作で「霊魂の城」というものがありますので、

読後、いくらかご紹介したいと思います。

 

詩26

 

私の喜びは涙のうちに

 

私の喜びは涙のうちに

驚きが私の憩い

私の痛ましい安らぎと

私の凪は破り砕かれのうちに

 

しけのさなかに私の愛が

私の贈物は傷のうちに

死のなかに私の命が

蔑みに私の心の燃え立ちが

 

私の宝物は貧しさのうちに

私の凱旋は戦いに

私の慰めは労働に

私の満足は悲しみのうちに

 

暗闇のうちに私の光が

私の身分は低い地位に

私の道から近道が

私の栄光は十字架のうちに

 

私の名誉は恥じいること

私の栄誉は傷つくこと

衰えのうちに私の栄が

減りゆくなかに私のいや増しが

 

飢えのうちに私の豊かさが

私の希望は恐れに

私の安楽はおののきのうちに

私の好みは苦しみに

 

なおざりに私の思い出が

私の高さはへりくだりのうちに

辱しめに私の思いが

屈辱のうちに私の勝利

 

私の称賛は蔑みに

心苦のうちに私の愛の強さが

私の尊厳は片隅に

孤独のうちに私の命の意味が

 

キリストのうちに私の信頼が

神のみに私の愛のとらわれが

彼の疲労のうちに私の元気が

彼のまねびに私の休養が

 

ここに私の決心を記します

ここに私の確信を

私の真実の証を

私の贈物の見本を

 

 

 

テレサの詩に重ねて、訳者の高橋テレサ姉の心を確かに受け取らせていただきました。心からお礼申し上げます。

皆様方にも、聖テレサの「詩」を通じて神の真の愛が与えられますことを!

 


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