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原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

聖霊体験と重生について  1

新郎のイエス様の愛と新婦の聖霊の愛が一体となったその愛が、私の骨肉と一つにならなければなりません。すなわち、「私があなた方の中にあり、あなた方が私の中にあって」というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤が成される前には、キリスト教でいう重生はあり得ないということです。(111-27,1981.5.14)

天聖経 祝福家庭 第1章 真の父母と祝福 2)真の父母と重生と血統転換 ➁重生摂理の核心

 

家庭連合の失敗とは、一言に重生ができなかったということに起因します。

日本会長であれ、教会成長研究院の責任者であれ、高名な講師であれ、一般信徒であれ、

この道を誰一人避けて通ることができません。

深刻な身悶えする問題です。

いい加減な道はありません。

 

いったい、家庭連合の誰がこの問題に立ち向かい、

「現在自分はこのような路程の中で、ここまでわかりました。これから先はこのように求めてまいりたいと思います。」

そのように、御言葉をご自分の実践の中で明らかにして、我々を指導してくれたことでしょうか?

或いは、恩恵交換の報告をなさってくれたことでしょうか?

全くもって不可解なことです。

家庭連合の教育は単に原理講論の記述の説明でしかなかったのです。

そのような修練会でどうやって我々は生まれ変わることができましょうか?

その先に我々は進まなければならないことでしょう。

ここに、サンクチュアリの存在価値があります。

 

「君たちの祝福は条件的祝福だよ。」

とお父様は言われました。

では、本当の祝福とはどこにあるというのでしょうか?

どうすれば、お父様、我々は本当の祝福に与ることができるのでしょうか?

このお父様の謎のような言葉はずっと私を悩まし続けました。

 

聖愛、すなわち三位一体の愛によって、我々の永遠の命は蘇生されます。

 

「新郎のイエス様の愛と新婦の聖霊の愛が一体となったその愛が、私の骨肉と一つにならなければなりません。」

 

カトリックの修道院ではそのような信仰の核心と神霊の核心を求めた、頂点の信仰の継承者が歴史を貫いてイエス様の精神と心情の伝統を、再臨の準備のために死守すべく神によって導かれてきたのです。

だが、われわれはそのような世界を知らず、また知ろうと努めることも疎かにしてきました。

血統転換・心情転換。

堕落性の克服という最も険しい道を避けて通って来てしまいました。

その結果が、今日の家庭連合の有様です。

浮ついたことに踊っているに過ぎません。

 

だが、このような批判は、ただちに我々にもブーメランのごとく戻ってまいります。

我々は如何にしてこの難題を乗り越えて行かなければならないことでしょうか?

 

お父様の生涯をかけて価値なき我々に注がれた心情を今こそ真摯に受けとめて、

我々は真の意味において重生していかなければならないことでしょう。

 

すなわち、「私があなた方の中にあり、あなた方が私の中にあって」というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤が成される前には、キリスト教でいう重生はあり得ないということです。

 

イエス様と信徒、再臨主たるお父様と我々の関係が、

二人であるはずなのに、そうであることが判然としないほどの融合一体化した境地

神と相対しても、宇宙の最も重要な真理である「父と子の関係」において完全なる「愛の心情基盤」が為されなければならないというのです。

それでは修道生活の中で信仰の秘儀を授かった彼らは何を掴んだのだと報告しているのでしょうか?

そしてそのような世界を獲得するためにこそ巡礼はあることでしょう。

 

アビラのテレサの場合についてウィキペディアでは以下のように簡単に書かれています。

 

テレサの全著作を通じての神秘思想の要点は、4つの段階を経るの向上である(『自叙伝』第5章22節)(訳注:この段階については諸説があり、必ずしもここでの説明が全てではない)。第一段階の「瞑想」(heart's devotion)は、敬虔な沈思黙考あるいは集中力のことであり、魂を外部から撤退させて、ただひたすらにキリストに従い、忍耐することである。

第二段階は「静寂」(devotion of peace)であり、その段階においては少なくとも人間の意志は失われ、神から与えられたカリスマ的、超自然的な状態に基づいて、神の中にいる。その一方で、記憶、理性、想像力などの他の働きは、まだ現世の喧騒から守られてはいない。部分的な注意散漫は、祈りの反復や霊的な事柄を書き記すような外部に向けての行動のために起こる。しかし、その一方で次第に一種の静けさの状態が心を占めるようになる。

第三段階は「合一」(devotion of union)であり、これは超自然的なだけではなく本質的に宗教的な意味での恍惚状態(訳注:法悦)である。この段階においては、神への信仰に理性までも没頭するので、ただ記憶と想像力だけが取りとめもなく広がって行くに任せられる。この状態は、この上ない平和、(最上ではないにしても)より高次の魂の働きの甘いまどろみ、現実との接点を残した状態での神の愛への歓喜、などとして描写される。

第四段階は「恍惚あるいは歓喜」(devotion of ecstasy or rapture)という受動的な状態であり、ここでは身体が存在するという感覚が消滅する(「コリントの信徒への手紙二」12.2-3)感覚の働きが消えるということは、つまり、記憶や想像力までもが神にすっかり夢中になってしまう、あるいは、酔ったような状態になってしまうということである。身体と精神は、甘美な激痛、幸せな苦痛、恐ろしいまでに激しい輝きと完全な無能・無意識との間の交替現象、そして、しばしの窒息状態の中に置かれる。そしてそれは、身体が文字通り宙に浮く恍惚の浮揚のような現象によって時々中断される。半時間ほどこうした現象が続いた後、数時間の気絶のような衰弱状態の中で反動の弛緩を味わう。この時、神との合一の全ての働きを否定する気分を伴う。ここから、主体は自分のに気付く。つまりそれが神秘体験の絶頂、恍惚状態の創出なのである。

 

なかなか、難しいですね。

また、お父様が公式路程というような形で詳しくご説明されているわけでもありません。

だが、重生の御言葉を読めば、

聖人・聖女が行かれた道が重生と実に深い関係があることに気づかされます。

 

ですから、み言葉にあるような「愛の心情基盤」を成すということの

ひとつの参考となる聖人・聖女の個人体験ですが個別的普遍性を持っていますので

我々に強く関わってくると思われます。

彼らに言わんとするところは、先に公式があるわけではなくて、振り返ってみるとこのような段階があったように思います、というようなことでしょう。

我が国の例で言えば空海の十住心もそのようなことかと思います。

 

私は田中恵の以下の聖テレサの論文も聖テレサどんな方か知るのにいいかと思います。

 http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/72862/2/lacs018001.pdf

 

テレサが如何なる信仰心情に至ったかは、たとえばこのような詩において

我々は見出すことができます。

 

テレサの詩

 

なにものにも乱されるな

 

なにものにも乱されるな

なにものにも驚くな

すべては過ぎ去るが

神は変わらない

忍耐が

すべてに至る道

神を体験している人は

なにも欠くことがない

神のみで満ち足りる

 

思いを高め

天上まで上がれ

空しいものに嘆き悲しみ

なにものにも乱されるな

 

イエス・キリストに従いなさい

胸をふくらませ

なにがこようとも

なにものにも驚くな

 

世の栄光を見た

空しい栄光を

安泰なものなど なにもない

すべては過ぎ去る

 

天上のものを求めよ

常にとどまるものを

約束には忠実に豊かに

神は変わらない

 

価値あるものを愛しなさい

きわまりない最高善を

だが 純粋な愛は

忍耐なしには求められない

 

信頼と生きた信仰が

霊魂を養うなら

信じ望む人は

すべてに至る

 

地獄の苦しみを

たとえ味わおうとも

その怒りを避けるだろう

神を体験している人は

 

見捨てなさい

十字架 苦しみを受けなさい

神が宝であるのだから

なにも欠くことがない

 

さあ 世の富よ 去れ

そして その空しさよ

すべてを失っても

神のみで満ち足りる

 

高橋 テレサ

 

アビラの聖女テレサの詩 (聖母文庫)

アビラの聖女テレサの詩 (聖母文庫)

 

 

 私は、ないがしろにしていた、私自身ののっぴきならない心の問題を解決するために、5月3日をもちましてCYBERサンクチュアリ人協会を退会いたしました。

今後は家庭教会としてご縁のある方々と恩恵交換をしていくことになりました。

わがままを許諾してくださった協会の方々に心から感謝いたします。

 


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