原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

知性や理性が真の愛を与えられますか?

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この映画は私がずっと以前に娘と見た映画です。

たまたま私がレンタルショップから借りてきた時に娘がいて、自然と何の映画だろうと見ることになりました。まだ少女の頃です。

見終わった後、確か娘がこう言いました。

「パパにはわかるね。」

その後しばらくして、彼女は「アバウト・ア・ボーイ

という映画を紹介くれました。

こちらも冴えない男の役を二枚目のヒュー・グラントが演じている、考えさせる映画でした。マーカスという少年の成長をめぐったお話でした。

シンプルで洗練された出で立ちで生きているヒュー・グラント演じる男が

多くの人の前でマーカスと並んで ダサいパフォーマンスを続けてブーイングと

嘲笑を浴びてる姿が、最高にカッコ良かったです。

「パパには やっぱりわかるとおもった」

手強い娘にかろうじてお褒めに与りました。

 

サムは私のライバルです。

もっとも相手にしてくれないかもしれませんが・・・

 

さて、「アイ・アム・サム」の映画ですが・・・

パパの知性は7歳程度、娘が8歳になる頃には、知性で言えば親子の立場が逆転してしまう。それからは名前上は父と娘だが、精神年齢上は逆転してしまう。どんどん離れてしまう。どう考えたって子供を養育することができそうもない。

大きな子供を成長過程の子供が持つことになり、生活の妨げになってしまいかねません。

それでも社会の支援によって、なんとか簡単な業務をこなして、お店で一生懸命に働いて親子二人で生きている。

この子はどうして生まれてきたのか?

行きずりの女がサムと一夜を過ごして生まれてきた。

サムにとっては本当の愛だったけど、

彼女にとってはどうだったのかな。

生まれるや将来に不安をだいたのか、女はサムのもとを去っていった。

でも彼には、ダイヤモンドで身をまとって、大空高く舞うかのような娘を残してくれた。

 

知性が育たない彼には、物事を比較したり、検討したり、多くの事柄の関係のなかで生じてくる問題なんぞはわかるはずもありません。

なんだかよくわからないけれど、愛する女性は去って行ってしまった。

 

ルーシー きみを愛している

 

きっとなにか りゆうがあるのかな。

でも、ここにあるぼくのたからはルーシー。

きみはぼくのほんとうのたからもの

ぼくのあたまが 7さいのまま、きみはぼくをおいこしていくけれど

ぼくの愛はかわらない。

きみといっしょにただいたいだけ。

きみのしあわせをただみていたいだけ。

きみのせいちょうは ぼくのせいちょう。

ぼくはもうきみなしでは とてもいきていけそうもない。

 

(でも、大人たちは反対でした。

法律がどうの、子供のための環境がどうの、施設に入れるべきだと。)

 

どうしてぼくらが ひきさかれなければ いけないの。

ぼくはただきみを愛したいだけ。

ただそれだけなのに。

ぼくにはみんなのように  ちえがないことはわかっているけれど、

ぼくは みんなよりずっとなにかがかけているけれど、

ぼくのこころはとまらない。

ぼくのこころはおさえられない。

だってぼくは  ルーシー きみを愛している。

どうやって このおもいを  きみにつたえることができるの。

だれかぼくをたすけてほしい。

それでも ルーシー、ぼくはきみを愛しつづけていく。

だれよりも。

 

 

 

神様の愛するエバ

神様の愛するお母様

天の父が  とりみだし、なりふりかまわず、叫んでおられます。

その声がきこえますか?