:10)あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
:11)〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕
:12)あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
:13)もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
:14)そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
マタイによる福音書 18章
サンンクチュアリ教会は、お父様が率先垂範で伝統を立ててくださった心情世界・心情組織を継承し発展させていく立場にあります。
お父様はあらゆる罪人である我々を赦し抱かれました。
そして我々を真っ新にしてくださり、もう過去を振り向くことはない、ただ前を見て、自由と責任によって歩みなさいと祝福してくださりました。
これはイエス様もそうでした。
お二人に共通することは恩讐という観念がないことです。
葛藤やわだかまりを引きずりません。
私たちも天一国の住人になるためには二人のキリスの精神に従って行くべきでしょう。
この方がいかに多くの財を蓄えていようと、基本的には神と彼の関係の問題でしょう。
自由と責任において本人が人生の選択をされればいいだけのことです。
財に固執されるのも、神に固執するのも、ご自分が決められることでしょう。
聞くところによれば、劉大行さんがサンクチュアリに戻られるきっかけになったのは、
昨年夏頃の臨死体験でお父様にお会いされて、方向転換されたそうです。
お父様は我々一人一人が戻ってこられることを切に願っておられます。
何百万人の命を奪った者をも祝福された父の心があります。
ひとを非難した時は、非難した相手ではなく非難した自分の心の底に葛藤やわだかまりが残ってはいないか注視するべきです。
もしそういう非原理的なものが見つかったとしたら、サタンに見かけ上は正義感を装わせられて、実際は告発する者としてのサタンの情念の相続者にされてしまうのです。
自分はサタンと関係ないと思っていたのに、まんまと罠にかかってしまいます。
例えば以前の組織の問題が裁判沙汰になり悪い結果になりました。
それをあげつらうことはできますが、組織の膿を出すことができなかったのは幹部だけの問題ではなく、かっては一信徒であった自分の問題でもあります。
われわれはそういう意味で非原理的な事に相対して、かえってそれに振り回されてしまい、結果として天一国の主人ではなくなってしまうことがないようにしたいものです。
この道に来て、わからないことが色々ありました。
しかし、聞いてはいけないようで聞けない時があります。
聞いても自分と同じように答えられなくて困るだろうと予想されるからです。
きっとこの胸のつかえを取ってくれそうだと言う方に出会えば、すぐ聞けるでしょうが、そういう機会がないと聞けません。
「モーセは血気怒気で2度打った」とは講義で聞きはするでしょう。
モーセに会ったことはありませんがお父様が怒られる姿も凄まじいものがあります。
モーセ以上じゃないかと・・・
いったいどこが違うのでしょう?
激しく起こり、汚い言葉を使われて表現されます。
お父様にはその感情をその言葉を持ってしか表現できないからなのでしょう。
だが、ひととおり語り終えたお父様は、不思議にけろっとしていてわだかまりがございません。これが不思議でした。
韓国でコンサートが検討されていたマイケル・ジャクソンは「THIS IS IT]
という映画で、メンバーを叱りますが「君を愛しているから、叱るんだ」と言いました。
恨みや葛藤があるサタンの讒訴とは違います。
このあたりがなかなかわからなかったのですが、
私にも年取ってようやくお父様が血気怒気とは違うのだと実感できるようになりました。
そういう世界があるのだと。
亨進様が本に書かれた禅の話を思い出してください。
虎に喰われそうになって追いかけられ、たっとの思いで崖の木によじ登り、
それにからみつく蔦にしがみついてぶら下がって、
命を保ったかと思うや、
今にも切れそう。
おもむろに下を見たら三匹の蛇が舌を出してお待ちかねです。
一難去ってまた一難
一匹の敵が、二匹になって
二匹の敵が、あっと言う間に三匹に。
その時目に映ったのが苺。
それを味わって幸せを知る。
ところが、お父様は
「それはわかるけれども、それならネズミや虎にも分けてあげないとね」
これが心情世界。
総会長がお父様に会って回心されたかどうかは
この方の今後の歩み次第でしょう。
パウロはステパノの殺害に間接的に関わっています。
しかし神の御心が別にあることを知って変容しました。
我々がとやかく言う筋合いではありません。
ある万引き常習犯がありました。
本人はうまいことやっていると思っていましたが
実際には多くの人が知っていました。
ついに男は現場を見つかることになり、警察に捕まりました。
男の家には通路も風呂場もいっぱい盗んだものが積み上げられていました。
毎日のように盗んで捕まる1週間ほど前に、
雨の降りしきる中びしょぬれで親とけんかして、
家出をしてきた少女が男の目に止まりました。
不思議に思って男は少女に話しかけなだめすかし、たくさんのお菓子を子供に買ってあげ、他の人に警察を呼んでもらいました。
家を出ては見たものの帰ることも何処へ行くこともできなかった少女は、
パトカーに乗って無事に家に帰ることができました。
その後、男は捕まりました。
翌日、男は盗んだ先に再び現れ、謝罪して「もうしわけない」と言いました。
それを聞いたある人はこう言いました。
「あなたは先日、困っている女の子に良いことをされたではありませんか?あなたにはいいものがあるのだから、どうか今後はもうこれを機会にやめられたらいいですね。」
すると男は、初めは何のことかと思っていましたが、
気がついて喜びにっこり笑って答えました。
「はいそうします。これからもよろしくおねがいします。」
「あなたがたはどう思うか?ある牧者に百匹の羊があったが、その牧者が一人迷い出たとすれば、牧羊豚ベイブは百匹を山に残しておいて、その迷い出ている牧者を捜しに出かけないであろうか。ブタの癖に牧羊犬面をしてと馬鹿にされながらも、ベイブは探しに行かないと思うだろうか?」
我々は審判主ではない。
同じ父を持つ兄弟姉妹です。
サンクチュアリが心情組織が作れるかどうかは、
私たちが父に似たものになるか否かにかかっています。
受け入れることができないものを受け入れて
祝福することができない者を祝福する。
許して忘れて思い出さず祝福する。
それは父の心と一心になるほかに道があるというのでしょうか?
さあ、父を見本に生きていきましょう!
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