:6)主はまた彼に言われた、「あなたの手をふところに入れなさい」。彼が手をふところに入れ、それを出すと、手は、らい病にかかって、雪のように白くなっていた。
:7)主は言われた、「手をふところにもどしなさい」。彼は手をふところにもどし、それをふところから出して見ると、回復して、もとの肉のようになっていた。
出エジプト記4章6~7節
この部分の原理講論の解説は以下の通りです。
第二の奇跡は、神の命令によって、モーセが最初に手を懐に入れたときには、その手がらい病にかかっていた。しかし、神の命令によって、再びその手を懐に入れたときには、らい病にかかっていたその手が完全に快復して元の肉のようになっていたのである(出エ四・6、7)。この奇跡は、将来イエスが後のアダムとして来られ、後のエバの神性である聖霊(前編第七章第四節(一))を送られることによって、贖罪の摂理をされるということを、象徴的に見せてくださったのであった。最初に手を懐に入れて、不治のらい病にかかったということは、最初に天使長がエバを懐に抱くことによって、人間が救われ難い立場に堕落してしまったということを意味したのである。そして、その手を再び懐に入れたとき、病気が完全に治ってしまったということは、人類の父性の神であられるイエスが来られて、人類の母性の神であられる聖霊(前編第七章第四節(一))を復帰し、めんどりがそのひなを翼の下に集めるように(マタイ二三・37)、全人類を、再びその懐に抱くことによって重生せしめ、完全復帰するということを表示されたのであった。
第二節 モーセを中心とする復帰摂理
二)モーセを中心とする民族的カナン復帰路程
(2) 第二次民族的カナン復帰路程
② 実 体 基 台
原理講論ではモーセが見せた奇跡の本質的な説明を以上のように解説しています。
それは神・イエス・聖霊の三位一体による贖罪との関係で解かれています。
そのほか三位一体と関係がある記述は以下のとおりです。
モーセが、神に自分の言葉を代理に語れる人を要求したとき、神はその兄アロン(出エ四・14)と、アロンの姉である女預言者ミリアム(出エ一五・20)とを彼に与えられた。これは、将来み言の実体となられるイエス(ヨハネ一・14)と聖霊とが来られて、堕落によってみ言を失った人間を、み言の実体として復帰されるということを、形象的に見せてくださったのであった。
(2) 第二次民族的カナン復帰路程
② 実 体 基 台
私には長らくこの記述が理解できませんでした。
三位一体にチッポラが出てこないからです。
チッポラは、どうして「後のエバの神性である聖霊」として説明されうる記述が聖書には出てこないのでしょうか?
モーセは一方で神の立場になることがあるとしても、他方ではイエスの模擬者でもあります。イエスの模擬者であるモーセの相対者がチッポラですから、聖霊のような役割を予想することができます。
ハガルが産んだ子孫のミデアン人(クシュ人)の流れエテロを父としているのがチッポラです。チッポラは信仰の本流・本家からは遠い存在です。エテロは祭司ですが異邦の民のような存在でしょう。正統な伝統からずれている異教徒のような存在です。
何故その娘と結ばれる予定であったのでしょうか?
ところでヤコブの妻たちのときはどうだったでしょうか?
そのような天使長的異教徒から、サタン世界から妻を復帰していく路程をヤコブやモーセは歩んでいるように見えます。
お母様も罪悪世界から復帰された妻でした。
そこで異教の故郷を出発する際には、ラケルは尻で偶像を征服しました。
同様に、モーセの時にも何が起こったというのでしょうか?
ミデアン荒野を後にしてエジプトに向かう際には、天使にモーセが殺されそうになります。チッポラがゲルショムに割礼を施し、陽部の皮をモーセの足にあてて難を逃れました。
チッポラが父の信仰から、アブラハムの契約の民の信仰に母子共に改宗したような事態でした。
天使長の異教信仰を滅ぼすような行為でした。
夫の方でも、ヤコブは天使長の実体であるエサウと会う前に天使と命がけの組み討ちをしました。
同様にミデアンからエジプトに向かうモーセも天使に殺されそうになりました。
さて賢明な妻でしたが、その後不思議に聖書には特筆すべき内容が出てきません。
原理講論によると、モーセは神の立場でもイエスの模擬者の立場でもあるならば、
モーセをイエスに、またチッポラを聖霊に喩える記述があっても良さそうですが
そこにはミリアムが出てきます。
これは一体どうしてなのでしょうか?
しかも、ミリアムはマリアの語源(ミリアムのアラム語読みに由来)だというのです。
エジプトの女と結婚したヨセフにはエフライムとマナセの子供。
ミデアン人と結婚したモーセにはゲルショム(国外の寄留者)と、エリエゼル(神は我が助け)と名付けられた子供。
:30)そしてダンの人々は刻んだ像を自分たちのために安置し、モーセの孫すなわちゲルショムの子ヨナタンとその子孫がダンびとの部族の祭司となって、国が捕囚となる日にまで及んだ。
士師記18章
レビ族の祭司はアロンの子孫であるのに対して、モーセの子孫はダン族の祭司となったというのだから、不思議です。
ダン族は壇君神話の韓国と関係があるという説があります。
さて、原理講論が三位一体をもってアロンとミリアムを説明しているのが以下のところです。
つぎにモーセが、神に自分の言葉を代理に語れる人を要求したとき、神はその兄アロン(出エ四・14)と、アロンの姉である女預言者ミリアム(出エ一五・20)とを彼に与えられた。これは、将来み言の実体となられるイエス(ヨハネ一・14)と聖霊とが来られて、堕落によってみ言を失った人間を、み言の実体として復帰されるということを、形象的に見せてくださったのであった。それゆえに、アロンとミリアムとがカナンの復帰路程を通じて、神の立場にあったモーセに仕え、彼の身代わりとなって指導の使命を担ったということは、将来イエスと聖霊とが、世界的カナン復帰路程を通して、神のみ旨に従い、身代わりの贖罪使命をされるということを、形象的に見せてくださったのである。
モーセが神の命令を受けパロの前に行く途中で、主が現れてモーセを殺そうとされた。そのときモーセは、彼の妻チッポラがその男の子に割礼を施して許しを請うたおかげで、死を免れることができたのである(出エ四・24~26)。このように、モーセは割礼をもってその試練に勝利したため、彼の家族が生き得たのであり、したがって、イスラエル民族がエジプトから出られるようになったのであるが、これもまた、将来イエスが来られたときに、イスラエルの民族が割礼の過程を経なくては、神の救いの摂理が成就されないということを、前もって見せてくださったのである。
それでは、割礼がいかなる意味をもっているかということについて、調べてみることにしよう。人間始祖は、サタンと血縁関係を結ぶことによって、いわば、陽部を通じて死亡の血を受けたのであった。ゆえに、堕落した人間が、神の子女として復帰されるためには、その蕩減条件として、陽部の皮を切って血を流すことにより、その死亡の血を流してしまったということを示す表示的条件として、割礼を行うようになったのである。それゆえに、この割礼の根本意義は、第一には、死亡の血を流してしまうという表示であり、第二には、男子の主管性を復帰するという表示であり、また第三には、本然の子女の立場を復帰するという約束の表示でもあるのである。ところで、割礼の種類としては、心の割礼(申命一〇・16)と、肉身割礼(創一七・10)、万物割礼(レビ一九・23)などの三種類がある。
第二節 モーセを中心とする復帰摂理
二)モーセを中心とする民族的カナン復帰路程
(2) 第二次民族的カナン復帰路程
② 実 体 基 台
まずこの部分ですが、
「アロンとミリアムとがカナンの復帰路程を通じて、神の立場にあったモーセに仕え、彼の身代わりとなって指導の使命を担ったということは、将来イエスと聖霊とが、世界的カナン復帰路程を通して、神のみ旨に従い、身代わりの贖罪使命をされるということを、形象的に見せてくださったのである。」
ご承知のように三位一体は神を中心とするアダム家庭を基礎にでてきた概念です。
アダムとエバが兄と妹でしたから、祭司アロンと女預言者ミリアムも兄と妹でした。
ラケルやチッポラの行為はイエス様や再臨主の時の教訓ということもできます。
外的なサタンと戦う前には内的なサタンを滅ぼさなければならない。
いわゆる内憂外患です。
家庭の中のサタン、家族の中のサタンを滅ぼしてから、
サタン世界のサタンを滅ぼすことができるという順序があります。
ラケルのように偶像崇拝を滅ぼし、チッポラのように絶対「性」で聖別するのが、
お母様も神でない偶像を滅ぼし、絶対「性」で家族を分別・聖別しなければならないと言うのです。
モーセを助けたチッポラのように、
お父様の命を助けるというのです。
ところが、お母様が偶像崇拝を始められ、お母様が絶対「性」を不信されてしまったら、どうなるというのでしょうか?
お父様に死の試練が来るというのです。
心霊と真理によって神と御旨を我々は知ることができます。
ところが霊感に偏って頼りすぎて、聖書や統一原理をおろそかにすれば、
道に迷ってしまいます。
お母様が誰からも御言葉を学んだことがないとおっしゃられるのは、我々がお父様から預かった御言葉を本来最も必要であるお母様や子女様に所有権の返還をしなかったことに問題がございました。
その不足故にお母様が今日迷走されることになってしまわれていることは、大変残念で仕方がございません。
イスラエルと同様に絶対「性」の割礼なくして本郷の世界に帰っていくことはできないのです。
そこに6マリアということが出てきているのです。
これを我々食口は聖別しなければなりません。
聖書にはもう一つらい病になる奇跡が神によって示されています。
それはモーセがクシュ人の妾をつくったことに対して、アロンとミリアムがモーセを糾弾したことに対して、神も当然同意するかと思いきや、反対に大叱責にあうというのです。
:1)モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。
:2)彼らは言った、「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」。主はこれを聞かれた。
:3)モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。
:4)そこで、主は突然モーセとアロン、およびミリアムにむかって「あなたがた三人、会見の幕屋に出てきなさい」と言われたので、彼ら三人は出てきたが、
:5)主は雲の柱のうちにあって下り、幕屋の入口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。彼らふたりが進み出ると、
:6)彼らに言われた、「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。
:7)しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。
:8)彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか」。
:9)主は彼らにむかい怒りを発して去られた。
:10)雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病になっていた。
:11)そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。
:12)どうぞ彼女を母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人のようにしないでください」。
:13)その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。
:14)主はモーセに言われた、「彼女の父が彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日のあいだ、恥じて身を隠すではないか。彼女を七日のあいだ、宿営の外で閉じこめておかなければならない。その後、連れもどしてもよい」。
:15)そこでミリアムは七日のあいだ、宿営の外で閉じこめられた。民はミリアムが連れもどされるまでは、道に進まなかった。
:16)その後、民はハゼロテを立って進み、パランの荒野に宿営した。
民数記12章
6マリアを証しせず、恥ずかしいと隠せば
母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人
になってしまうというのです。
祝福家庭は堕落してしまうというのです。
お父様の伝記が80%ならば
その記念の祝賀の日に前に並ばされた6マリアとささやかれる女性たちは
我々が証さないといけないというのです。
そうでないと2月13日をもって祝福家庭は堕落家庭になって滅び去って行くというのです。
お父様の権威に戻るための祝福を亨進様から受けなければなりません。
彼らは言った、「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」
アロンとミリアムがそう言ったように、
もし、真の家庭で実体の神様であるお父様が立てた亨進様にたいして
同様の言葉を子女様兄弟や、お母様が発すればどうなるというのでしょうか?
深刻な問題だというのです。
ミリアムは来るべき聖霊を表していました。
その聖霊がモーセを批判したことは、モーセを立てた神を批判していました。
神よりも私の方を上位に据えてしまいました。
そのようになってはならないと神は教示されたのです。
ところが新しい三位一体が発表され、クリスマスにお母様が語られた独生女神学を食口が訓読するよう指導されています。
楕円の中に神様とその下にお父様が書かれています。
お父様の文字の大きさは、お母様や神様より小さく書かれています。
お二人が楕円の内側にいるのに対して、お母様は楕円の外の上位に書かれています。
これが新しい三位一体だというのです。
お母様、次に神様、その次がお父様の階位
お母様はお父様を批判しただけに止まらず、神様の裁定が間違っているとされたのです。
まったくミリアムそっくりではありませんか。
八定式が終わった後の年で、1991年頃にお父様はこの聖句をめぐったお話をされ、モーセに妾を取らせることが神の御心だったことを説明されたそうです。
根本復帰の為には妾が絡む三角関係が必要であることをご説明されたのでした。
残念ながら原文を知りません。
ご存じの方は兄弟にお伝え頂けると幸いです。
韓国ドラマでは、王様や王妃様が何か間違った道を行こうとする時には
家臣たちが王の住まわれる宮殿の前の庭に土下座して集まります。
そこで大合唱するシーンが頻繁に出てきます。
「王様、お考え直しください」
「王妃様。お考え直しください」
だが、統一家ではそのような姿を見ることも聞くこともございませんでした。
誠に、誠に残念でなりません。
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