二、何故お父様とお母様が主体と対象で一体化しないと大問題なのか
家庭連合に「一体化しています」と言わさせなければならないサタンの事情がある
教材を作りました。母(オモニ)の教材であり、皆さんの教材です。母(オモニ)が果たせずに誤ったならば、「オモニ、悔い改めて下さい。私によって祝福を受けなければ生きる道がありません」といえるような皆さんにならなければなりません。オモニを再び祝福できる教材が出たので、訓読会の祖となるのは皆さんしかいません。
「平和の主人・血統の主人」
- 亨進様自らの御言葉による説明
2015年9月16日 バビロンのミステリー 亨進様よりの引用
ヨハネの黙示録17章1節から6節
1: それから、7つの鉢を持つ7人の御使いのひとりが来て、私に語って言った、「さあ、来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対するさばきを見せよう。
2: 地の王たちは、この女と姦淫を行い、地に住む人々は、この女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。
3: 御使いは、私を御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。私は、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚す数々の名で覆われ、また、それに7つの頭と10の角とがあった。
4: この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を持ち、
5: その額には、1つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。
6: 私は、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。
1節にでてくる“大淫婦”という言葉をギリシア語でみてみると、“ポルネイ”という言葉です。これは娼婦という意味であると同時に、異端となった共同体も表しています。4節を見ると、『この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を持ち』とあります。
キリスト教の歴史上、このバビロンのミステリーが誰であり、また何であるのか、多くの人が研究してきました。私たちも今の天宙的な状況の中で、お父様が聖和された後の裏切りの歴史をみながら、誰も想像もできなかった状況に全世界の統一家が直面するようになりました。
私たちはお父様が聖和された後、お母様に言いました。「このような行いをされたら、審判を受けるでしょう。お父様を削除するのであれば、全世界から罵られます」。ですが、その後皇帝のような姿で現れました。
その時、謙遜な妻として、夫であるお父様を高め、栄光を返す姿勢で、全世界万民と世界教会に自由と責任を与えたならば、お父様の聖霊の恩赦とお父様を称えるその声で驚くべき祝福の世界が来ていたのです。
ですが、韓氏オモニは皇帝として現れ、漢南洞にあるお父様の写真を全て降ろせと言い、このような偽りの写真を掲げました。私たちはその目で、淫行を見たのです。また、今まで一度も着られた事のない、この偽りの服、紫の服と赤い冠、そして全身に金と宝石を施し、手には金の杯を持っています。
この杯が何でしょうか?お父様は今まで一度もこの棒を持って、シックたちの前に現れることはありませんでした。ですが、韓氏オモニがこの杯を持ち、この杯は私が主体となる象徴であると現れたのです。
誰も私の言葉に逆らうことは許さず、また、私の淫行に対して何の発言権もないという意味の現れである偽りの杯です。その杯を満たしている汚れた姦淫とは何か?その日、お父様を公式的に削除編集する行事がありました。
彼らはお父様の天聖経を削除し、国進お兄さんが偽りの天聖経を韓氏オモニに渡す、そのような行事を予定していました。ですが、国進お兄さんが強く拒否したので、その行事は私たち不在のまま進行されました。
この服は私たちも始めて見る服でした。たぶん、その偽りの行事のために作られたのでしょう。紫と赤、サタンの色、ヨハネの黙示録に出てくるバビロンの大淫婦の啓示、そのままの姿です。
『平和の主人、血統の主人』。8大教材教本にこのような薄い小さな本を含まれました。その中でお父様はどう仰いましたか?
私もこのようにみるとき、心配がありません。アメリカを捨てていくのに教材を作りました。オモニの教材であり、皆さんの教材です。オモニができないならば、間違ったならば、「オモニ、悔い改めなければなりません。もう一度私から祝福を受けなければ生きる道がありません」ということのできる皆さんとならなければなりません。オモニをもう一度祝福することのできる教材がでたので、訓読会の先祖は皆さんしかいません。2世が家庭訓読会のリーダーとなるのです。そうでなければ、誰もそれをすることができません。
どのような2世ですか?お父様を売る2世ですか?そのような偽りの2世たちは裏切り者であり、詐欺師たちです。お父様に服従する2世たち、そのような息子娘たちが家庭訓読会のリーダーとなるのです。お父様はこのように直接み言葉をされました。
その後、詐欺師たちが改竄をし、出版したのです。
アメリカを離れながら教材を作りました。それは皆さんの教材です。
何かが抜けていますね?お父様のみ言葉をもう一度みてみましょう。
アメリカを捨てていくのに教材を作りました。オモニの教材であり、皆さんの教材です。
オモニが抜けているのです。
そして、続いて、、
皆さんのアボジ、オモニが間違ったならば、「アボジ、オモニ。悔い改めなければなりません。私を通してもう一度祝福を受けなければ生きる道がありません。」ということのできる皆さんとならなければなりません。アボジ、オモニをもう一度祝福することのできる教材がでたので、訓読会の先祖は皆さんしかいません。2世が家庭訓読会の指導者となります。
このような詐欺をみたことがありません。お父様が非常に明確にみ言葉をされました。彼らは自らが神となることができると考えるので、再臨主メシアのみ言葉を修正し、オモニへの警告、お父様がお母様に与えた警告、それを全て削除し、アボジ、オモニが悔い改めなければならないと、偽りの内容を付け加えたのです。
2,真の母とバビロンの大淫婦とユダヤの伝説
亨進様は黙示録のバビロンの大淫婦の話しをされました。
エバが主管性転倒し、対象ではなく主体として振る舞う話しでした。
新約にはそのような記述がありますが、旧約を代表とするユダヤには何か関連する物語はないのでしょうか?
「図説 聖書人物記」R.P.ネッテルホルスト著にはこんなことが書かれています。
8世紀から11世紀に書かれたユダヤ教文献『ベン・シラのアルファベット』では、アダムの最初の妻はエバではなくリリスだとされている。この伝説によれば、リリスはアダムと同時に塵から造られたという。リリスはアダムと対等の立場を主張し、アダムと寝る(アダムの下になる)のを拒否した。アダムがリリスを自分の意に従わせようとすると、リリスはアダムのもとから飛び去り、最後は悪魔の仲間になってしまう。悪魔たちとの間に何百人もの子供をもうけたリリスに、神は3人の天使を差し向けた。天使たちは、アダムのもとに戻らなければ毎日100人の子供を殺すとリリスを脅した。だが、リリスは脅しに屈せず、アダムとエバの子供を殺してやると言い返し、アダムのもとに戻ることはなかったのである。
かってお父様は、エバが堕落した時には神様に二つの選択肢があったと語られました。一つはエバを新しく創造する道であり、もう一つは堕落したエバを復帰する道でした。そのお父様のお話を思い出さずにはいられないような話です。
また、原罪のお母様はリリスのようでお幸せには見えなくなられてしまわれた。
亨進様が天使長主導の祝福が聖和時以降為されてきていて無効であるとされ、そのような全ての食口はお父様の権威下に戻るための祝福を、聖和されたお父様が現れ亨進様を直接主管されて祝福を為さらなければならない原理的根拠であり、お父様自身の御言葉であり、御心だというのです。
それが、「お父様の権威下に戻るための祝福」の意義と価値だというのです。
3,神山氏の公開質問状の中から関連するお父様の御言葉を引用する
この血統転換は、真のオリーブの木である真のお父様(男性)によってのみなされます。なぜなら、「生命の種は男性から、生命の根源は男性から出てくる」(天聖経、宇宙の根本)からです。
「神様の血統の中には、真の愛の種(神の精子)が入っていて、真の生命の体が生きています。したがって、この血統と連結されれば、神様が理想とされた理想人間、すなわち人格完成も可能であり、理想家庭も生まれるのであり、さらには神様の祖国、理想国家も出現するのです。平和理想世界王国は、このようにして創建されるのです。」(平和神経1)
「女性は畑でしょう?盗賊が来て種を蒔けば、盗賊の子供がでてくるのであり、王子が来て蒔けば、王孫が出てくる。」(天聖経、宇宙の根本)
「真のお母様の腹の中に入っても、それは真のお父様の真の愛と真の血統にはまだつながっていないのです。お母様は真の愛と真の血統を持っていません。向こうのほうなのです。」(天聖経、祝福家庭)
「女性は畑でしょう?盗賊が来て種を蒔けば、盗賊の子供がでてくるのであり、王子が来て蒔けば、王孫が出てくる。」(天聖経、宇宙の根本)
「真のお母様の腹の中に入っても、それは真のお父様の真の愛と真の血統にはまだつながっていないのです。お母様は真の愛と真の血統を持っていません。向こうのほうなのです。」(天聖経、祝福家庭)
4,正統な御言葉の理解から見たお父様とお母様の格位と統一性
- ,聖書から、主体を中心に対象を統一された神(神は性相的な男性格主体)
聖霊とは如何なる方を指して言うのでしょうか?
:24)わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
:25)これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
:26)しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
イエス様は、「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」と言われ
お父様は、御自身が語った御言葉に「何人も手をかけてはならない」とさんざん我々に言い残して旅立たれた。
それは天の父であられる神の言葉だからでした。
神様がアダムにエバを「助け手」として与えられたように
「わたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させる」
存在を聖霊としてご説明されました。
同様に、お母様が聖霊の実体であられるためには
お父様の御言葉をことごとく愛し、一言一句変えることなく伝えなければならないというのです。
お母様の言葉を一切入れてはならないというのです。
このようにお父様が語られたので、このようにあなたがたはしなさいというように話さなければならないというのです。
そうすることによって、真の御母様は、「助け手」と「助け主」として、
「わたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させる」
という聖霊の役事をすることができ、
真の母としての責任と使命を果たすことができるというのです。
そこで次の章ではこのようにイエス様が語られるのだというのです。
:26)わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
:27)あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
つまり、真の御母様も、われわれ信徒もお父様とその御言葉を証しする使命と責任があるというのです。
:12)わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
:13)けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
:14)御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
:15)父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
:16)しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。
イエス様は
「わたしには、あなたがたに言うべき(絶対「性」や本体論などの)ことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」
真理の御霊(証し人)である真のお母様は
自分から語るのではなく(真のお父様によって)、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
:御霊(である真のお母様)はわたしに栄光を得させるであろう。
(対象である)御霊は(主体である)わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだというのです。
聖和すると、
あなたがたはもうわたしを見なくなる。
しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう
真のお父様を証しされるお母様や、第二代王の亨進様を通して、
また、直接わたし真の父が現れて会えるだろう。
アージュ。
だが、お母様は今何処に?
- 原理講論から、主体を中心に対象を統一された神(神は性相的な男性格主体)
原理講論の創造原理では神の定義に当たる部分がある。
それでは、性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。 神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。
(一) 神の二性性相より
天地創造以前に於いては、「 神は性相的な男性格主体」であられたというのです。
これを要約したのがいわゆる神の定義の部分であるのです。
ここがキーポイントだというのです。
順序を間違えてはならないのです。
初めに、「 神は性相的な男性格主体」在り!
そこでわざわざ聖書を引用してくださっているのです。
コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである
そこで要約文は
神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給う
「神は本性相と本形状の二性性相の中和体」とは決して表現され得ない。
「本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和体」とも決して表現されない。
原理講論は
神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。
としているのです。
そこで、「お父様が実体の神様で、お母様は実体の神様の妻」ということになります。
天の父母様という言葉自体には、何の問題もないのですが、
これが挌位性を無視して徳野会長のように「一体です」と言ってみたところで
正しい原理観に基づいて言うならば、
何も語らないに等しいどころか、天の原理を倒錯する不届きな発言となってしまうというのです。
フェミニズム的神観、
フェミニズム的真の父母観だというのです、
統一原理とは似ても似つかないものになってしまうというのです。
「神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造された」
と聖書にあるように、
原罪のない「独生子」のお父様が、堕落世界の原罪のある韓鶴子女子を選んで、「肋骨を取って、神に選ばれたたった一人の女性という、「独存女」から、原罪のない「独生女」に転換してくださったのである。
ユダヤのタルムードに何故神は男の肋骨から女を造られたのか書かれているという。
それによれば
頭の骨からでなかったのは、男の主人になってはならないからであり、
かかとの骨でつくられなかったことは、女は男の僕としてつくられたからではないからであり、
男の心臓の一番近いところの肋骨であったことからすれば、
女は男の心情の対象としてつくられたからだという。
:22)主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
:23)そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
わたしの肉の肉。男から取ったものだから、
これを女と名づけよう」。
創世記2章
家庭連合があげた聖句の他に原理講論では、以下の記述がある。
神のすべての実体対象に備えられている主体と対象において、その対象の中心がその主体にあるので、主体と対象の合性体の中心も、やはりその主体にある。しかるに、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三対象が相対基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三対象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。
(4)四位基台の存在様相
お父様が真の父母の名で語っていることは、お母様を対象として、主体に立っているお父様という意味で使われることが多いのです。
亨進様も同様に天聖経にしばしばそのように使われていることを指摘されています。
お母様がお父様の対象挌位に立たれ、あらゆる試練の中にあっても見事に勝利され、主体であられるお父様を支えられるお姿こそ我々万民の誇りだというのです。
合成体、すなわち「真の父母が一体化している」状態とは
お母様が黒子のようにお父様を支えておられる状態です。
主体であるお父様の姿が、全面的に現れ、その見えないところで内助の功を働かせておられるお母様の輝きがあるという一体化です。
けっして、今までなかったのに祝福リングの内側にお母様の名前だけが彫られるとか、御父母様の御写真が下げられ、お母様の御写真だけ飾るとか、お父様の席に頻繁にお母様が座られるとか、10以上の不自然なことが今も増え続けて存在しているのは悲しい事実です。
- 原理原本から、主体を中心に対象を統一された神(神は性相的な男性格主体)
先ず以下に家庭連合の神観とそれに対応する真の父母観を、家庭連合の公式見解から理解して参りましょう。
● 真のお母様は、真のお父様の対象に立つと同時に
神の対象に立つ
(真のお母様は神様に直結する道を持っておられる)
● 真のお父様の指示を受けると同時に
神様の直接の指示を受けられる立場
● 神様は「二性性相の中和的存在」
男性的側面と女性的側面を持っておられ
その実体として顕現されておられるのが真のお父様であり、
真の御母様です。
お父様が神様から直接神様の指示を受けているように、もしお母様も同様に
神様の直接の指示を受けられる立場 であったとしたら
真のお父様が主体で、真のお母様も主体となることができるようになり
お二人は統一どころか闘争に入らざるを得ない可能性が出てくるというのです。
それにもかかわらず、家庭連合はこれを論証するための論拠として
原理原本を持ち出してきたというのです。
しかもとんでもない解釈を提示されたのです。
お父様とお母様の闘争は、お父様が聖和された以降は、お父様の後継者亨進様とお母様の主体対主体の戦いになって続けられることになりました。
実はその前兆は全ての食口が目の当たりに見ていたにもかかわらず、気がつくことができないでいたのです。
それが後に説明することになる「代身者・相続者」の色紙の動画なのだというのです。
①主体の位置の夫は主体である神と一つになって
その次に妻を完成させる
②対象的位置にある妻は
主体的な夫と一つになって
夫を完成させる
③夫と妻は息子と娘として生まれました。
各自父母に仕えることで成長して完成される。
④従って、夫は自分の母親に侍り、妻に仕え、
妻は自分の父親に侍り、夫に仕える。
このように家庭連合は
夫を通して妻が完成され、妻を通して夫が完成される関係であると主張します。
そこでは「夫婦」「父母」という概念が強調されていると解説しています。
この御言葉の核心部分は、太字のところです。
「妻を完成させる」すなわち妻は夫の指導によって完成するが
夫は妻の指導によって完成するのではない。
「主体的な夫と一つになって
夫を完成させる」
そのようにお父様は言っておられるのです。
勿論、その前提が
「主体である神と一つになって
その次に妻を完成させる」
神 ← 夫 ← 妻
絶対従順 絶対従順
神に対する愛で絶対従順している夫に
主体の位置にある夫を神の主体と同一視して
一つになってこそ妻は完成され、
夫も完成されるというのです。
ところが、お母様は各位を離れてしまわれたのです。
お母様が対象の位置で一つにならなかったので
真の父母は完成することが一旦お預けとなってしまわれたのです。
縦的な神様と横的な真の父母は一つだというのです。そこに統一された愛、天と地上を連結する愛、体と心が一つになった愛、男性と女性が一つになった愛が問題です。統一された愛の基盤を築くことができ、そこで初めて天の愛と天の生命と天の血統が連結され得るし、それの横的な拡大が八方に展開されることによって王権ができるのです
④ 天聖経から、主体を中心に対象を統一された神(神は性相的な男性格主体)
このあたりをお父様が説明されていると思われるのが、
天聖経 宇宙の根本 第一章 宇宙の根本秩序 1)神の二性性相の大展開
- 神は二性性相の中和的主体
- の次のような文章です。
神様は、二性性相の男性的主体だというのです。それでは、その神様は、誰に似ているのでしょうか。私たちに似ていて、私に似ていて、皆さんに似ているというのです。同じなのです。それゆえに、「主体格」という言葉は、必ず相対格位を介在させて成立するのです。そのような概念が含まれています。相対格というものを必要とするために、「主体格」という言葉が出てくるというのです。
何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。
神様がアダムとエバを造って二性性相を分立して中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在でなければなりませんか。愛を中心として中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。
神様は何を願うのでしょうか。創造をされて、創造理想を完成して何をしようというのですか。神様御自身も愛をなそうというのです。神様御自身が願うことは何でしょうか。神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。
これを、別の角度からお父様が説明されているのが
アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。
実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。
天聖経 真の神様 二 無形の神様は体が必要
1,からだをもつためにアダムとエバを創造
そこで、中心人物はアダム(男性)でなければならないというのです。
アダムの心情と血統の相続者である男子が後継者になることができるのです。
女性を中心ではなく
「アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。」
と言われるわけです。
女性は神ではないのである。厳密には神の妻なので、神の実体のアダムと一体化したときはじめて、共に神になるというのです。
女性は神ではないが、神の妻なのです。
この違いをよくよく理解することが重要なのだというのです。
神の中の男性と女性は同格ではない。
神の女性が主体格で、男性が対象格ではない。
神の中の男性が主体格で、女性は対象格だというのです。
従って神の体ではない女性が
女性に対しては信仰の後継者として祝福することは問題ないとしても
血統と心情の後継者として祝福する権能は与えられていないというのです。
阿部美樹院長や太田朝久副院長が主管する家庭連合の
「教会成長研究院」の見解は教会の成長や完成のためではなく
「教会破壊研究院」でしかありません。
これが、家庭連合の教育機関の中枢に在籍する責任者の原理理解なのです。
どれほどお父様が意図して語られているものと、かけ離れていることでしょう。
天地の差があるというのです!
何故なら、彼らは以下のように家庭連合の信徒を教育するからなのです。
● 真のお母様は、真のお父様の対象に立つと同時に
神の対象に立つ
(真のお母様は神様に直結する道を持っておられる)
● 真のお父様の指示を受けると同時に
神様の直接の指示を受けられる立場
何と馬鹿げた理解でしょうか!
海に向かって死の大行進するネズミの群になってはいけません。
独生女神学の正統性のためには、原理講論の都合よく利用できる部分は活用しながら、都合の悪い部分は切り捨てたいために、聖典からはずさなければならない事情があるよからでしょう。
原理講論どころか、原理原本も天聖経も歪曲して、天のために毎日精誠を尽くしている純粋な信徒を騙し欺いているのだというのです。
亨進様が原理講論も聖典であると強調されるのは、
原理講論はお父様が全て創られたからだというのです。
今日家庭連合の千葉修練所の中村惣一郎所長が
「原理講論はお父様が自ら書かれたものではなく、劉孝元先生が書かれたものだ」と言って、単にお父様の神学を劉先生の力量で纏めたものにすぎないというのです。
だが、それは間違いです。曖昧な表現があっても深い御心があるのです。
原理講論はお父様が直接主管して書かれたものだというのです。
劉先生が書かれたとしても、お父様が直接主管して書かれたものだというのです。
そんな体たらくであれば、お父様が亨進様を直接主管されていることはなおさら理解できずに終わることでしょう。
家庭連合の教育に携わる者たちの責任は非常に大きいものがあります。
こんな教育者たちと共に
海に向かって死の大行進するネズミの群になってはいけないのです。
:1)兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
:2)なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
:3)わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。
:4)そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。
:5)それは、あなたがたの信仰が人に知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
:6)しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
:7)むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
:8)この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
:9)しかし、聖書に書いてあるとおり、
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、
人の心に思い浮びもしなかったことを、
神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」
のである。
:10)そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
:11)いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
:12)ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
:13)この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
:14)生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
:15)しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
:16)「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
コリント人への手紙 Ⅰ 2章
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