原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

5,真のお母様を掠奪した天使長達の正体と陰謀  真のお母様奪還の為に食口が知るべき動機と経路 Ⅱ 

真のお父様が語られている、大変美しい真の父母様のお姿がここにございます。

お父様とお母様の主体と対象の各位関係を確認して参りますが・・・・

 

多くの兄弟達はお父様が聖和されると、ペンテコステが起きることを待ち望みました。

だが、天宙の和動の中心であれれる父が、どうして生や死の拘束に縛られるというのでしょうか?

父は地上におられる時も、天上におられる時も

常に我らの中心として臨在され、主体として導かれ給う!

まして実体の第二大王がおられるというのに、

何処を探そうというのでしょうか?

亨進様や国進様にお会いしながら、

「来るべき方はあなたでしょうか?それとも他に誰かを待つべきでしょうか?」

そのような愚かな者たちがいる限り、お父様の流される血の涙は尽きることがないというのです。

われわれはお父様が我々に精誠を尽くされた至誠を決して無駄にすることができない、

父の子女であり、孝子として行くべき道理があるというのです。

 

完成した立場は天地一体化家庭

地上と天上を統一し、心身を統一するのが責任分担の完成です。縦的な神様と横的な真の父母は一つだというのです。そこに統一された愛、天と地上を連結する愛、体と心が一つになった愛、男性と女性が一つになった愛が問題です。統一された愛の基盤を築くことができ、そこで初めて天の愛と天の生命と天の血統が連結され得るし、それの横的な拡大が八方に展開されることによって王権ができるのです。内容は簡単です。

天聖経 罪と蕩減復帰 第一章 蕩減・復帰原理の根拠

3)責任分担を完成すれば 

 

1,原理講論に学ぶ、主体を中心に対象を統一された神様神は性相的な男性格主体

 

原理講論の創造原理では神の定義に当たる部分がある。

 

それでは、性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造された記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。 神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。

(一) 神の二性性相より

 

天地創造以前に於いては、「 神は性相的な男性格主体」であられたというのです。

これを要約したのがいわゆる神の定義の部分であるのです。

ここがキーポイントだというのです。

順序を間違えてはならないのです。

初めに、「 神は性相的な男性格主体」在り!

そこでわざわざ聖書を引用してくださっているのです。

 

コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである

 

そこで要約文は

神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給う

「神は本性相と本形状の二性性相の中和体」とは決して表現され得ない。

「本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和体とも決して表現されない。

 

原理講論は

神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである

としているのです。

 

そこで、「お父様が実体の神様で、お母様は神様の妻」ということになります。

天の父母様という言葉自体には、何の問題もないのですが、

これが挌位性を無視して徳野会長のように「一体です」と言ってみたところで

正しい原理観に基づいて言うならば、

何も語らないに等しいどころか、天の原理を倒錯する不届きな発言となってしまうというのです。

フェミニズム的神観

フェミニズム的真の父母観だというのです、

統一原理とは似ても似つかないものになってしまうというのです

 

「神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造された」

と聖書にあるように、

原罪のない「独生子」のお父様が、堕落世界の原罪のある韓鶴子女子を選んで、「肋骨を取って、神に選ばれたたった一人の女性という、「独存女」から、原罪のない「独生女」に転換してくださったのである。

 

ユダヤのタルムードに何故神は男の肋骨から女を造られたのか書かれているという。

それによれば

頭の骨からでなかったのは、男の主人になってはならないからであり、

かかとの骨でつくられなかったことは、女は男の僕としてつくられたからではないからであり、

男の心臓の一番近いところの肋骨であったことからすれば、

女は男の心情の対象としてつくられたからだという。

 

:22)主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。  

:23)そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、

わたしの肉の肉。男から取ったものだから、

これを女と名づけよう」。

創世記2章           

 

 家庭連合があげた聖句の他に原理講論では、以下の記述がある。

神のすべての実体対象に備えられている主体と対象において、その対象の中心がその主体にあるので、主体と対象の合性体の中心も、やはりその主体にある。しかるに、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三対象が相対基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三対象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。
(4)四位基台の存在様相
 
 
お父様が真の父母の名で語っていることは、お母様を対象として、主体に立っているお父様という意味で使われることが多いのです。
亨進様も同様に天聖経にしばしばそのように使われていることを指摘されています。
お母様がお父様の対象挌位に立たれ、あらゆる試練の中にあっても見事に勝利され、主体であられるお父様を支えられるお姿こそ我々万民の誇りだというのです。
 
合成体、すなわち「真の父母が一体化している」状態とは
お母様が黒子のようにお父様を支えておられる状態です。
主体であるお父様の姿が、全面的に現れ、その見えないところで内助の功を働かせておられるお母様の輝きがあるという一体化です。
けっして、今までなかったのに祝福リングの内側にお母様の名前だけが彫られるとか、御父母様の御写真が下げられ、お母様の御写真だけ飾るとか、お父様の席に頻繁にお母様が座られるとか、10以上の不自然なことが今も増え続けて存在しているのは悲しい事実です。

 

2,原理原本に学ぶ主体を中心に対象を統一された神様神は性相的な男性格主体

 

先ず以下に家庭連合の神観とそれに対応する真の父母観を、家庭連合の公式見解から理解して参りましょう。

 

●真のお母様は、真のお父様の対象に立つと同時に

神の対象に立つ

(真のお母様は神様に直結する道を持っておられる)

 

●真のお父様の指示を受けると同時に

神様の直接の指示を受けられる立場

 

●神様は「二性性相の中和的存在」

男性的側面と女性的側面を持っておられ

その実体として顕現されておられるのが真のお父様であり、

真の御母様です。

 

お父様が神様から直接神様の指示を受けているように、もしお母様も同様に

神様の直接の指示を受けられる立場 であったとしたら

真のお父様が主体で、真のお母様も主体となることができるようになり

お二人は統一どころか闘争に入らざるを得ない可能性が出てくるというのです。

それにもかかわらず、家庭連合はこれを論証するための論拠として

原理原本を持ち出してきたというのです。

しかもとんでもない解釈を提示されたのです。

お父様とお母様の闘争は、お父様が聖和された以降は、お父様の後継者亨進様とお母様の主体対主体の戦いになって続けられることになりました。

実はその前兆は全ての食口が目の当たりに見ていたにもかかわらず、気がつくことができないでいたのです。

それが後に説明することになる「代身者・相続者」の色紙の動画なのだというのです。

 

①主体の位置の夫は主体である神と一つになって

その次に妻を完成させる

②対象的位置にある妻は

主体的な夫と一つになって

夫を完成させる

③夫と妻は息子と娘として生まれました。

各自父母に仕えることで成長して完成される。

④従って、夫は自分の母親に侍り、妻に仕え、

妻は自分の父親に侍り、夫に仕える。

 

 

このように家庭連合は

夫を通して妻が完成され、妻を通して夫が完成される関係であると主張します。

そこでは「夫婦」「父母」という概念が強調されていると解説しています。

 

この御言葉の核心部分は、太字のところです。

妻を完成させる」すなわち妻は夫の指導によって完成するが

夫は妻の指導によって完成するのではない

「主体的な夫と一つになって

夫を完成させる」

 

そのようにお父様は言っておられるのです。

勿論、その前提が

「主体である神と一つになって

その次に妻を完成させる」

 

神   ←   夫   ←   妻

  絶対従順    絶対従順

 

神に対する愛で絶対従順している夫に

主体の位置にある夫を神の主体と同一視して

一つになってこそ妻は完成され、

夫も完成されるというのです。

 

ところが、お母様は各位を離れてしまわれたのです。

お母様が対象の位置で一つにならなかったので

真の父母は完成することが一旦お預けとなってしまわれたのです。

 

縦的な神様と横的な真の父母は一つだというのです。そこに統一された愛、天と地上を連結する愛、体と心が一つになった愛、男性と女性が一つになった愛が問題です。統一された愛の基盤を築くことができ、そこで初めて天の愛と天の生命と天の血統が連結され得るし、それの横的な拡大が八方に展開されることによって王権ができるのです

 

3,天聖経に学ぶ、主体を中心に対象を統一された神様神は性相的な男性格主体

 

このあたりをお父様が説明されていると思われるのが、

天聖経 宇宙の根本 第一章 宇宙の根本秩序 1)神の二性性相の大展開

①神は二性性相の中和的主体 の次のような文章です。

 

神様は、二性性相の男性的主体だというのです。それでは、その神様は、誰に似ているのでしょうか。私たちに似ていて、私に似ていて、皆さんに似ているというのです。同じなのです。それゆえに、「主体格」という言葉は、必ず相対格位を介在させて成立するのです。そのような概念が含まれています。相対格というものを必要とするために、「主体格」という言葉が出てくるというのです。

 

何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます

 

神様がアダムとエバを造って二性性相を分立して中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在でなければなりませんか。愛を中心として中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。

 

 神様は何を願うのでしょうか。創造をされて、創造理想を完成して何をしようというのですか。神様御自身も愛をなそうというのです。神様御自身が願うことは何でしょうか。神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。

 

これを、別の角度からお父様が説明されているのが

天聖経 真の神様 二 無形の神様は体が必要

1,からだをもつためにアダムとエバを創造

 

アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。

 

実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。

 

 そこで、中心人物はアダム(男性)でなければならないというのです。

アダムの心情と血統の相続者である男子が後継者になることができるのです。

 

女性を中心ではなく

アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です

と言われるわけです。

 

女性は神ではないのである。厳密には神の妻なので、神の実体のアダムと一体化したときはじめて、共に神になるというのです。

女性は神ではないが、神の妻なのです。

この違いをよくよく理解することが重要なのだというのです。

 

神の中の男性と女性は同格ではない。

神の女性が主体格で、男性が対象格ではない。

神の中の男性が主体格で、女性は対象格だというのです。

 

従って神の体ではない女性

女性に対しては信仰の後継者として祝福することは問題ないとしても

血統と心情の後継者として祝福する権能は与えられていないというのです

 

阿部美樹院長太田朝久副院長が主管する家庭連合の

「教会成長研究院」の見解は教会の成長や完成のためではなく

「教会破壊研究院」でしかありません。

これが、家庭連合の教育機関の中枢に在籍する責任者の原理理解なのです。

どれほどお父様が意図して語られているものと、かけ離れていることでしょう。

天地の差があるというのです!

何故なら、彼らはこう家庭連合の信徒を教育するからなのです。

 

●真のお母様は、真のお父様の対象に立つと同時に

神の対象に立つ

(真のお母様は神様に直結する道を持っておられる)

 

●真のお父様の指示を受けると同時に

神様の直接の指示を受けられる立場

 

何と馬鹿げた理解でしょうか!

海に向かって死の大行進するネズミの群になってはいけません。

 

独生女神学の正統性のためには、原理講論の都合よく利用できる部分は活用しながら、都合の悪い部分は切り捨てたいために、聖典からはずさなければならない事情があるよからでしょう。

原理講論どころか、原理原本も天聖経も歪曲して、天のために毎日精誠を尽くしている純粋な信徒を騙し欺いているのだというのです。

亨進様が原理講論も聖典であると強調されるのは、

原理講論はお父様が全て創られたからだというのです。

今日家庭連合の千葉修練所の中村惣一郎所長

「原理講論はお父様が自ら書かれたものではなく、劉孝元先生が書かれたものだ」と言って、単にお父様の神学を劉先生の力量でまとめたものと認識しているというのです。

だが、それは間違いです。

原理講論はお父様が直接主管して書かれたものだというのです。

劉先生が書かれたとしても、お父様が直接主管して書かれたものだというのです。

そんな体たらくであれば、お父様が亨進様を直接主管されていることはなおさら理解できずに終わることでしょう。

家庭連合の教育に携わる者たちの責任は非常に大きいものがあります。

こんな教育者たちと共に

海に向かって死の大行進するネズミの群になってはいけないのです。

 

 :1)兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。  

:2)なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである

:3)わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。

:4)そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである

:5)それは、あなたがたの信仰が人に知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。

:6)しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。

:7)むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。

:8)この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

:9)しかし、聖書に書いてあるとおり、

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、

人の心に思い浮びもしなかったことを、

神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」

のである。

 :10)そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

 :11)いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

 :12)ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

 :13)この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。

 :14)生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。

 :15)しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。

 :16)「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

コリント人への手紙 Ⅰ 2章 

 


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