私が好きな宮沢賢治の作品に「セロ弾きのゴーシュ」という童話があります。
ゴーシュは英語やフランス語では「不器用な・未熟な」というような意味があります。また、フランス語では「左手」なども意味します。
左手は左翼を意味し、その由来はアベルとカインのカインまで遡ることができます。
賢治がどのような意図をもってつけたのかは知りませんが、「カイン的な心」を意味する名前に導かれてつけられたように思われます。
作品最後の文では、カイン的心情からアベル的心情に転換された
素直なゴーシュで締めくくられていることは安らぎを覚えます。
オーケストラの一員であるゴーシュは一生懸命にセロ(チェロ)を弾いていますが、ところが指揮者の評価は不評です。
こんなに自分は努力しているのに、ちゃんと持ち場の責任を果たしているはずなのに、どうしてみんなはわかってはくれないのだろう?
いったいどこがわるいというんだ!
どこも問題はないじゃないか!
オーケストラのメンバーに音が遅れたり、音程が不揃いの課題を指摘されたゴーシュは、演奏の発表会の日までにその課題を克服するよう指揮者に求められました。
さあ、ゴーシュはこの後どうなるのでしょう?
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YouTubeではないので、ここには貼り付けることができませんでした。
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20分ほどです。お子さんとどうぞ。
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ゴーシュが家に帰ってきてセロの練習をしました。
それから頭を一つふって椅子(いす)へかけるとまるで虎(とら)みたいな勢(いきおい)でひるの譜を弾きはじめました。譜をめくりながら弾いては考え考えては弾き一生けん命しまいまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもごうごうごうごう弾きつづけました。
夜中もとうにすぎてしまいはもうじぶんが弾いているのかもわからないようになって顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄(ものすご)い顔つきになりいまにも倒(たお)れるかと思うように見えました。
突然ドアをノックして三毛猫が訪ねて来ました。
「先生、そうお怒りになっちゃ、おからだにさわります。それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「生意気なことを云うな。ねこのくせに。」
セロ弾きはしゃくにさわってこのねこのやつどうしてくれようとしばらく考えました。
「いやご遠慮 はありません。どうぞ。わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです。」
「生意気だ。生意気だ。生意気だ。」
ゴーシュはすっかりまっ赤になってひるま楽長のしたように足ぶみしてどなりましたがにわかに気を変えて云いました。
「では弾くよ。」
主の訪れは突然やって来ます。
しかもそれは考えられない存在を通してやって来るというのです。
ゴーシュにアドバイスをしたのはオーケストラの人ではありませんでした。
ドアをノックしたのは、知人のホーシュかと思ったら、そうではなくてなんと三毛猫でした。
しかもこの猫は上から目線で高飛車な物言いでした。
猫の分際でプロのセロ弾きの俺様を何だと思っているんだ、という怒りがゴーシュにはこみ上げてきました。
そこで、今に見てろとばかりに、嵐のような勢で「印度の虎狩」という譜を弾きはじめました。
不協和音のような演奏を強烈にして、猫に仕返しをして追い出してしまいました。
自分より低級なものや、低位のものにたいして、聞く耳を持たないのが我々堕落人間の性質です。天使長のルーシェルもそうでした。
お父様はいと高き者の権能を隠されて、最も低い僕の姿で我々の前に現れてくださいました。それはイエス様もそうであられました。
次の晩にはカッコウがやって来ました。
「鳥まで来るなんて。何の用だ。」ゴーシュが云いました。
「音楽を教わりたいのです。」
かっこう鳥はすまして云いました。
ゴーシュは笑って
「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか。」
するとかっこうが大へんまじめに
「ええ、それなんです。けれどもむずかしいですからねえ。」と云いました。
「むずかしいもんか。おまえたちのはたくさん啼(な)くのがひどいだけで、なきようは何でもないじゃないか。」
「ところがそれがひどいんです。たとえばかっこうとこうなくのとかっこうとこうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。」
「ちがわないね。」
「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまならかっこうと一万云えば一万みんなちがうんです。」
「勝手だよ。そんなにわかってるなら何もおれの処(ところ)へ来なくてもいいではないか。」
「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです。」
「ドレミファもくそもあるか。」
「ええ、外国へ行く前にぜひ一度いるんです。」
「外国もくそもあるか。」
「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」
「うるさいなあ。そら三べんだけ弾(ひ)いてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」
ゴーシュはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとかっこうはあわてて羽をばたばたしました。
「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」
「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」
「こうですよ。」かっこうはからだをまえに曲げてしばらく構えてから
「かっこう」と一つなきました。
「何だい。それがドレミファかい。おまえたちには、それではドレミファも第六交響楽(こうきょうがく)も同じなんだな。」
「それはちがいます。」
「どうちがうんだ。」
「むずかしいのはこれをたくさん続けたのがあるんです。」
「つまりこうだろう。」セロ弾きはまたセロをとって、かっこうかっこうかっこうかっこうかっこうとつづけてひきました。
するとかっこうはたいへんよろこんで途中(とちゅう)からかっこうかっこうかっこうかっこうとついて叫(さけ)びました。それももう一生けん命からだをまげていつまでも叫ぶのです。
ゴーシュは自分が絶対正しいと信じていました。
そこで聞く耳を持ちませんでした。
でもカッコウはゴーシュを先生と呼び、
自分が教えられながら、ゴーシュを教えてしまいました。
問題はゴーシュにあります。
問題を解決する主人はカッコウではなくゴーシュです。
ですから、カッコウはどこが問題かははっきり指摘しました。
そこで、次に問題を克服するのはゴーシュでしかありませんでした。
カッコウはゴーシュを主管せず、上手に協助しました。
自らが教えた時に教えられた者以上に教えられたと感ずる者は幸いです。
その人は人を通して神の顔を仰ぎ見ることができたからです。
続きをみてみましょう。
カッコウが動物たちに中で一番の主役のようですから。
ゴーシュはとうとう手が痛くなって
「こら、いいかげんにしないか。」と云いながらやめました。するとかっこうは残念そうに眼(め)をつりあげてまだしばらくないていましたがやっと
「……かっこうかくうかっかっかっかっか」と云ってやめました。
ゴーシュがすっかりおこってしまって、
「こらとり、もう用が済んだらかえれ」と云いました。
「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいようだけれどもすこしちがうんです。」
「何だと、おれがきさまに教わってるんではないんだぞ。帰らんか。」
「どうかたったもう一ぺんおねがいです。どうか。」かっこうは頭を何べんもこんこん下げました。
「ではこれっきりだよ。」
ゴーシュは弓をかまえました。かっこうは「くっ」とひとつ息をして
「ではなるべく永くおねがいいたします。」といってまた一つおじぎをしました。
「いやになっちまうなあ。」ゴーシュはにが笑いしながら弾きはじめました。するとかっこうはまたまるで本気になって「かっこうかっこうかっこう」とからだをまげてじつに一生けん命叫びました。ゴーシュははじめはむしゃくしゃしていましたがいつまでもつづけて弾いているうちにふっと何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきました。どうも弾けば弾くほどかっこうの方がいいような気がするのでした。
「えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。」とゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。
するとかっこうはどしんと頭を叩(たた)かれたようにふらふらっとしてそれからまたさっきのように
「かっこうかっこうかっこうかっかっかっかっかっ」と云(い)ってやめました。それから恨(うら)めしそうにゴーシュを見て
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と云いました。
「何を生意気な。こんなばかなまねをいつまでしていられるか。もう出て行け。見ろ。夜があけるんじゃないか。」ゴーシュは窓を指さしました。
東のそらがぼうっと銀いろになってそこをまっ黒な雲が北の方へどんどん走っています。
「ではお日さまの出るまでどうぞ。もう一ぺん。ちょっとですから。」
かっこうはまた頭を下げました。
「黙(だま)れっ。いい気になって。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ。」ゴーシュはどんと床をふみました。
するとかっこうはにわかにびっくりしたようにいきなり窓をめがけて飛び立ちました。そして硝子(ガラス)にはげしく頭をぶっつけてばたっと下へ落ちました。
「何だ、硝子へばかだなあ。」ゴーシュはあわてて立って窓をあけようとしましたが元来この窓はそんなにいつでもするする開く窓ではありませんでした。ゴーシュが窓のわくをしきりにがたがたしているうちにまたかっこうがばっとぶっつかって下へ落ちました。見ると嘴(くちばし)のつけねからすこし血が出ています。
「いまあけてやるから待っていろったら。」ゴーシュがやっと二寸ばかり窓をあけたとき、かっこうは起きあがって何が何でもこんどこそというようにじっと窓の向うの東のそらをみつめて、あらん限りの力をこめた風でぱっと飛びたちました。もちろんこんどは前よりひどく硝子につきあたってかっこうは下へ落ちたまましばらく身動きもしませんでした。つかまえてドアから飛ばしてやろうとゴーシュが手を出しましたらいきなりかっこうは眼をひらいて飛びのきました。そしてまたガラスへ飛びつきそうにするのです。ゴーシュは思わず足を上げて窓をばっとけりました。ガラスは二三枚物すごい音して砕(くだ)け窓はわくのまま外へ落ちました。そのがらんとなった窓のあとをかっこうが矢のように外へ飛びだしました。そしてもうどこまでもどこまでもまっすぐに飛んで行ってとうとう見えなくなってしまいました。ゴーシュはしばらく呆(あき)れたように外を見ていましたが、そのまま倒(たお)れるように室(へや)のすみへころがって睡(ねむ)ってしまいました。
カッコウは何をゴーシュに教えたのでしょうか?
技術的には音程なのかも知れません。
カッコウは知っていたことでしょう。
ゴーシュが今までも大変な努力していたことを。
「夜中もとうにすぎてしまいはもうじぶんが弾いているのかもわからないようになって顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄(ものすご)い顔つきになりいまにも倒(たお)れるかと思うように見えました。」
だが、自分が自分をここまでと規定したところで
我々の進歩は止まります。
自分は何ものであるかを自らが決めてしまうことは、実に惜しいことです。
浅田真央さんが自分はここまで、と満足されればそこで止まることでしょう。
音楽も信仰も同じ事です。
私は36家庭だと安住したところで、その心は止まるでしょう。
私は777家庭だと安住すれば、やはりそこで止まることでしょう。
私は教会長を10年、20年やってきたと満足すればそこで信仰の時間が止まります。
「僕の演奏はオーケストラと一体じゃないか」
「どこが違うんだ」
これは
「お母様はお父様と一体じゃないか」
「どこが違うんだ」
という感覚に似ています。
飽くなき探求心。
カッコウにはそれがあります。
ゴーシュはあと一息のところに来ています。
だから、あきらめてはならない。あきらめてはならない。
そうカッコウは繰り返し繰り返しさえずりながら、身を持って教えてくれているのです。
カッコウの中に飽くなき探求心があるので
その灯火は眠っていたゴーシュの探求心に火がつき、心の中に少しづつ燃え広がります。
カッコウは、
自分が弾いているのかわからなくなったほど努力しているゴーシュに
さらに厳しく訴えたのです。
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と云いました。
ところがその心がすっかり伝わることはできませんでした。
ゴーッシュがついに激怒して怒鳴りました。
「黙(だま)れっ。いい気になって。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ。」
驚いたカッコウは何度も閉まっていた窓ガラスに体当たりして血を流す始末です。
見かけは言葉も乱暴で、つっけんどんで、当たり散らすようなゴーシュでしたが、
実際に取った行動は、カッコウを哀れに思って逃がしてやりたいと窓を何度も開けようとし、がたがきていてどうにも開かないとみるや、足で窓枠ごと蹴り飛ばして逃がしてあげました。
動物たちはゴーシュの優しい心を知っていました。
三番目にはタヌキがきてテンポを教えていたようです。
4番目にはネズミがきました。
母ネズミが病気の子ネズミが一緒に来ました。
まるで音楽療法のような効果がゴーシュの演奏にはあるとネズミは言います。
セロの穴から中に入れて音楽を聴かせてあげると具合がどんどん良くなっていきました。
ゴーシュは自分のために弾く音楽から人のために弾く音楽に
心の重心を移すことになりました。
このことは指揮者に指摘されていた感情表現の課題の克服に
役だったかのようでした。
動物たちの訪問は、
主の訪れでした。
私たちの中にすむセロ弾きのゴーシュをあなたが見つけたなら、
あなたの周りに、高飛車ではあるがあなたの演奏(信仰)に関心があるという人に、
既に出会ってはいないか振り返ってみましょう。
カッコウやタヌキのように同じ課題を抱えながら学び合いたいという人はいないでしょうか?
ネズミのように怒りの感情から哀れみ感情を引き出してくれる方はいないでしょうか?
また、あなたの隣人にセロ弾きのゴーシュがいることに気づいたなら、
あなたは、その人を突きはなさず、猫のように袋だたきされ、カッコウのように罵倒され、狸汁にして喰ってしまうぞと脅された子タヌキが、「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいい人でこわくないから行って習えと云ったよ。」と言って、敵愾心を和らげ、ゴーシュを吹き出させて、笑わせたように、あなたはその人の隣人になることはできないでしょうか?
動物たちは問題を抱えていらいらしている表面的なゴーシュではなく、
本当のゴーシュ、ゴーシュの本性を本能的に感じ取っていました。
我々の目は何と多くの梁でふさがれていることでしょう。
最後にゴーシュはこう言って物語は終わります。
そしてまた水をがぶがぶ呑(の)みました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と云いました。
心理学にジョハリの窓と呼ばれる「自分とは何か」を整理して考えるの枠組みがあります。
上記の図で、4つに仕切られた全体を自分の個性だと思ってください。
私が、私のことをこんな風な自分だと思っていることが、
私という個性の全てではありません。
自分の個性を
「他人にわかっている自分」
「他人にわかっていない自分」
「自分にわかっている自分」
「自分にわかっていない自分」
この四つの領域がありますよという話しです。
上の二つと、下の二つを掛け合わせてみると
田の字に分けられた、4つの領域があることになります。
Ⅰは、自分も知っているし、他人も知っている共通して分かり合えている部分です。
アベルさんはこういう人だね、そうそう僕はそういうひとさ、というように理解し合えている領域の個性があるというのです。
Ⅱは、他人にはわかっているのに、自分が気づいていない自分のことです。
「あなたは自分のことをこういうけれど、あなたにはこんないいところがあるよ」
「君は気づかないようだけれど、こんなふうに誤解される行動を取っているよ」
自分のことは自分が一番知っていると、誰もが思っているものですが、自分が知らない側面を他人が知っているという部分があることは、いかに他人とその視点がわれわれの現状の姿を映し出す鏡であるかを教えてくれます。
人は一人では生きていくものではないということでしょう。
Ⅲは、逆に、自分にはわかっているのに、他人にはわからない部分や、わかりにくい部分のことです。
「わたしはこういう人間なのに、どうして彼は理解してくれないのだろう」
「こんなことは話してもあの人にわかるはずがない」
そのように思う自分の領域があるというのです。
Ⅳは、自分も自分という人が何者なのか、自分が他の人とは違うどんな個性を持っているのか、私も他人にもまだ知られていない、神のみが知る領域があるというのです。
「わたしはそもそも何もので、どこに向かって生きて、その個性を実らせるのだろう」
「何のために自分という個性はあるのだろう?」
自分の持ち味を知り、自分の役割を知り、自分の使いどころを求めて我々は生きているようです。
さて、今までの話しは「私」個人ひとりのお話でした。
さて、
「私とあなたで共通して理解し合えている自分」だけでつきあうことができるなら、
何の問題もないことでしょう。
だが、その他に
私しか知ることがなく、相手の知らない、また理解できない自分があり、
反対に、私が知ることのない自分を、相手がかえって知っていたり理解している自分がある。
さらには神のみぞ知るとも言うべき、誰も知らぬ創造本性というか、本然の個性の中核のような自分がいる二人が
いったい、どのように理解し合えばいいと言うのでしょうか?
このことは、自分のことを知るには、自分だけでは十分ではなく、私に気づきをもたらしてくれる隣人が如何に大切であるかを物語っています。
:20)神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 :21)また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
ルカによる福音書17章
天国は私個人の心の中にあるのではなく、
双方が神により与えられた賜物である個性を知るために
あなたの中にある私と私の中にあるあなたのただ中にある
:19)また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
:20)ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
マタイによる福音書18章
その二人の心のただ中に神の臨在を求めるならば、神の御覧になる創造本然の本性と個性を我々はみることが許されることだろう。
そして、私の隣人に知られなかった領域も
また、私に知ることができなかった領域も
神のみしか知ることができなかった領域も
全て共有され祝福を受けることでしょう。
人生にひたむきだが、セロ弾きのゴーシュのように、
gaucheな(不器用な)すべてのひとたちに
神の祝福と加護と導きがありますように!
アージュ。
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